88.花
「こんな風に空を飛ぶ機会なんて、まずないだろうな」
「そうだね」
肌を刺すような冷たい風にさらされながら、ジルフェの背から覗いた真下に広がる景色を見下ろして、フィーとロイは目を細めた。陽の光にきらきらと白雪を輝かせるシンセは、まるで海の青の中に埋もれる無垢な真珠のように美しかった。一面が濁りない、白に染められた大地。
「この風の国は、綺麗だ」
「本当に」
そう二人は小さく囁きを交わす。
「ありがとう」
すると珍しく、どこか嬉しげな声をジルフェはあげた。
そうしてどれくらい飛んでいただろうか。
「そろそろ花の元に着くから、しっかりと掴まって」
ジルフェが合図と共にゆったり降下し、ふわりと木々の合間の地面に降り立つと、二人はその背から降りた。あたりは森の中にあって、比較的開けたところだった。そこだけまるで、春のように暖かく、雪の積もらない地面はむき出しだった。
「ほら、ここに」
そう言って人の形を取ったジルフェが指差す先を、突然の変化に戸惑っていた二人が見れば、傾斜が急な盛り上がった地面がある。そしてその上のほうから、青々とした葉を茂らせた枝が垂れてきており、その端で見事なフクシアの花が咲き誇っていた。
「これが……」
薄紅、紫、赤、白。
様々な色を見せながら下向きに開く可憐な花々。
「なるほど、昔ロイが話していたとおりに、”女王様の耳飾”という別名があるのも納得がいくな」
それを聞いた覚えがあったからこそ、フクシアの形をなぞらえた耳飾を女王へ、と望むロコの話を聞いたとき、フィーは言葉遊びだと思ったものだが。
フィーは初めて目にするその花を見つめる。花からは、この国で感じていた清冽な力の濃厚な気配が漂ってくる。ここがこの国の中心の一つだということを知らしめるかのように。目に焼きつけるために、色形様々な艶麗なフクシアの花を彼女は眺めた。
「精霊と結んだシンセの人は、あなたの加護を受けたこの花を見て風との契約の証を耳飾にした、とそういうわけですか」
フィーの隣で同じく花に見とれながら口を開いたロイの言葉に、ジルフェは頷くと花に近づき、そっとその花びらを指で撫でた。
「シンセの初代の王は花が好きだった。
あの人は言った、『そなたは根無し草であろうが……時には一つのところで一つのものを見続けるのも面白いもの。種から芽が出て、育ち、根付くさまを。国が生まれ、育ち、人がいついて暮らすさまを』、と。私は初代の王が好きだったし、言われたとおり、じっとして花や国を見守るのは面白かった」
フィーがいつか見たような、遠くを見る目をして風の精霊の長は続けた。
「けれど、私は時々思う。ひょっとすると私は、あの人の植えたこの花を守っているのであって、この国を守っているわけではないのかもしれない、と。結果として同じことになってはいても。だから花が枯れたあのときは、本当に……」
そこで言葉を区切ると、彼女は顔を上げた。
「ロコたちが来る」
それだけ言うと、いつものごとく彼女は唐突に消え去ってしまった。
どこまで行っても、ひたすらに白い景色が続いていた。夜は月明かりに照らされていた青白さはいまやほのかに太陽の黄色い温かみを帯びた色へと変わっている。それでも身を切るような寒さは一向に変わらない。風は吹かず、生き物の気配のないそこは、ひたすらに静かなところだった。
漆黒の艶やかな髪を一つに束ねた男は、さして変わらぬ景色に次第に厭いてきていたが、ただ黙々と歩き続けた。彼を置き去りにした無情な精霊が言っていたものを探して。
「ここか?」
ようやくヴィーは立ち止まると顔を上げた。この国を埋め尽くす雪すら避けたように、見つけたその場所は黒く染まり、土を盛っていたような跡がある。力の弱まった彼ですら感じる不快で不穏な空気は、確かにそこを中心にしているようだった。しばらく彼はその場に佇んで眺めていたが、やがて挑戦的ににやりと笑んだ。彼はその跡に近づくと無防備に手を伸ばし、触れた。途端、大地が彼を呑み込むように動いても、顔色一つ変えることなく彼はその場を動こうとしない。
やがて人間一人がすっかり黒の中に消えてしまうと、本当の静寂が訪れた。
夢の中で、少女は少年の姿を見た。彼女は彼と雪遊びをしていた。少年の、白いやわらかそうな髪が風にふわふわと踊るのを見るのが彼女は好きだった。人の気など知らなさそうなのんきな笑顔も。それが自分にも向けられるのが嬉しくて、彼女も笑っていた。
けれど、全ては偽りだったのだ。
「ロコなんか、」
「なんか? 酷い物言いだな、お前さん」
知らず頬を伝う涙を拭った手を、エウリアのものだろうと無意識に払おうとしたところで聞こえてきた声に、少女は息を呑んで目を覚ます。
「アカネ!?」
「やあやあ、姫君。お久しぶり」
「私は、もう姫じゃないわ。女王よ。なぜあなたがここにいるの。自分からここを出て行ったんじゃない」
はじめは驚愕に目を見開いていた彼女だが、気を取り直したようにのらりくらりと笑うアカネの手を払った。塔の上にいたはずなのに、いつの間にか自室に連れてこられていたのも、アカネがここにいるのも、何もかも気に入らなかった。
「出て行って。顔も見たくない」
「随分ご挨拶なことだ。それに目上に対する態度としてなってない」
「エウリア、どういうこと」
ステファニアはアカネにとりあわず、横になっていた寝台から身を起こすと傍にいた風の精霊を睨め付けた。
「あなたまで私を裏切るの」
「違う、ステファニア」
彼女の突き刺すような視線に、いつもは折れる精霊は、その柳眉を寄せながらも彼女の目をしっかり見返した。
「落ち着け。『その』ためにアカネを連れてきたんじゃない。ただ、こいつなら分かるはずだ。あの男はやはり何かがおかしい、その違和感を……」
「何を吹き込まれたか知らないけれど、ヤナは信頼できる」
そう彼女が言い切ると、アカネが二人の横合いから顔を出して割り込んでくる。
「そうは言うがね、ステファニア。なぜ風の国にあって、欠片も風の気配のない男がいる?」
一瞬、嫌そうな顔をして彼女はアカネを見たが、すぐに顔を背けて彼に答えた。
「稀にそういうことがあっても何もおかしくないはずよ? そもそも風の一族なら信頼できるという戯言ならいらない。そうだというならあの祭司たちや王族の傍系をどう説明するの、私がいなくなることと、玉座のことばかり求めているのに」
「滔々とまあ、相変わらずの内弁慶ぶり。恐れ入るよ。不満なら祭司のやつらとその調子で戦えば尻尾を巻いて逃げ出すだろうに」
少女の攻撃的な調子に、やれやれといた風情で目を細めたアカネは、真顔になって言葉を続けた。
「確かにヤナとかいう男は一切術力を持たないようだ。……風が避けるくらいには。それで、そもそもあの男なら信頼できる根拠だが、まさか力がないことそのものだと言わないだろうな、風の女王」
「だったら何だって言うの」
「あれが魔かもしれない、と言ったら」
その言葉に、ステファニアは身を凍らせる。
「ち、違う、それなら私にだって分かるもの。ヤナは違う、ヤナは、」
言いかけるステファニアの言葉を遮り、アカネは話を変えるように口を開いた。
「ステファニア。ひょっとしてお前さん、あの人から昔話を聞いたことがあるんじゃないか。一匹の金色をした魔と、いなくなった一人の娘の話」
「アカネも、知っていたの……?」
呆然とした表情で自分を見る少女に苦笑を零すと、アカネは言った。
「不精者だが、一応は私も彼女の息子だからな」
「知っていたなら、なぜあんなに孤独な、寂しがりやのおばあ様をあなたは置いていってしまったの」
「知っていても、私には私の道があった。あの頃は兄さんもいたし」
なんでもない風にアカネはそう言うと首を振った。
「ま、その話は置いといて聞きたいんだがね。ステファニア、お前さん『も』逃げたいんじゃないのか、本当は」
「私は――」
彼女が何かを言おうとしたまさにそのとき、とんとん、と軽く扉を叩く音が響く。
「ステファニア様、晩餐のご用意ができました」
窓の外からしていた風の音が、やんだ。