86.方針
ようやく辿り着いた塔の上。風の精霊たるエリアルの言っていたとおりに彼女はそこにいて、まるで息をしていないかのように静かに眠っていた。
「おやおや。お姫様は随分お疲れのご様子で。
……なあ、エリアル。こうしてみると、昔となんら変わらない、そう思わないかね」
若白髪交じりの頭をした男が強風に白衣を翻しながら呟くのを聞いて、風の精霊はひょい、と少女を抱き上げ目を瞑った。
「お前がいて、俺がいて、ステファニアがいるからか。だが違う、アカネ、お前は変わった。ステファニアも。そして二人、いや三人。もっとか、この場に足りない者だらけだ」
「まあいない奴のことは置いといて、の話だったんだがな。私は昔からたいして変わりないさ。変わったとしたらお前達だけだ、おそらくは」
「誰であれ、生きて、変わらずにいられるものか」
エリアルは少女の軽さに顔を顰めた。また細くなった。しっかり食べるように言っているのに。
エリアルの言葉をアカネは鼻で笑った。
「それは風にとっての真理だ、人はまた違うもんだ。いくら人が老いようと、いかにここが風の国であろうといえどもな」
芯のところで変われない奴も、変わろうとしない奴もいるんだよ。
そう言ってアカネは目を細める。そう、変わらず一途な奴もいるものだ。アカネはそれを思って懲りないことだとくつくつ笑い出しそうになった。
しかしのんびりとしていたその雰囲気は、やおら近づいてきた静かな足音に気づくと硬質なものへと変わる。そんなことはさっぱり気にしたふうもなく、現れた人物はしばらく場を見回した後、淡々とした口調で口火を切った。
「随分探したんですよ。こんなところにいらっしゃったのですか、陛下、エリアル……ところでそちらの方は?」
「名乗るほどの名でもない。私はなまじ腕がいいために不本意にもここまで連れ込まれた哀れな医師に過ぎないからな」
警戒を解くことなくきっぱりとそう答えて、アカネはエリアルへと密かに目配せした。顔を顰めながらも頷いた精霊に満足げに笑うと、欠片も風の気配のない異質な男へと彼は向き直る。
「で、お前さんこそ何者かね」
「私はヤナ、と申します。医師殿、こちらへは何をなさりにいらっしゃったんですか」
「知らないか? 医者のやることと言ったら治療と予防。患者を診て『悪いところ』を取り除き、禍をあらかじめ祓うために来たわけだ」
「ほう、それは興味深い。私の里には医者などおりませんでしたからね。晩餐の席で詳しくお聞かせ願えますか?……誰が患者で、どこが悪いのか、あなたの見解を是非伺いたい。
ああ、エリアル。陛下がそれまでにはお目覚めになるよう、頼みますよ」
挑発的なアカネの笑みに動じることなく薄く微笑み返した男は、「では後ほど」、と告げて立ち去った。
「なんだ、あれは」
「ステファニアの選んだ従者だ」
「従者、ねえ」
どこか不機嫌そうにアカネは男の立ち去った辺りを見つめていた。ふと、先ほどまで静かだった場に再び風が吹き込めた。
「要は、お前が女王様を盗んで来ればいいんだろう?」
「えっ」
ゆったりアカネの家の居間でお茶を嗜み、互いの情報を交換しながら晩餐まで済ました後。
世間話の延長といった気軽なふうにフィオレンティーノを名乗る少年から難題を振られ、白髪の盗賊頭、ロコはしばし固まった。フィオレンティーノは戸惑うロコに対して不思議そうに首を傾げる。
「そしたらロイやヴィーや、もう眠ってしまったちびっ子が言うところの不穏な予感でいっぱいの城から女王様を遠ざけられる。それに、彼女を守るって言うんなら、彼女にあんたには敵意が無いって分かるんじゃないか。贈り物もしやすくなる。何の問題がある?」
「いや、その、ちょっと」
「がんばってくれ、俺はその間に注文の品を仕上げるから。ああ、仕上げの前にできれば耳飾を贈るご本人を拝みたいので早めによろしく。いくら他の耳飾の原画や姿絵を見せてもらえるとはいえ、やっぱり心許ないし。耳飾の元となった花と同じに、身につける予定の実物を見ないことには、俺としてはやりにくい。あんた仮にも世界中で有名な盗賊の頭なんだろ、できるよな?」
「は、はあ……」
「お頭!? なに頷いているんですか!」
騒ぐ周囲も気にせず、言いたいだけ言って満足したのか。
勢いに押されたロコの返事に頷くと、「じゃあ早速、下絵でも書き始めるか」と、与えられた自室へ向かう横暴な細工師。それを為すすべもなくロコは見送った。
「よりにもよって、風の守護のもっとも強固な城に盗みに入ることになるなんて」
しばらくの放心からようやく立ち直って呟くロコを、彼の仲間が哀れんだように見やった。皆、風の使い手であるからこそ風の厄介さを知っている。
「それもあなたを避けるに違いない相手そのものを盗む、なんて」
「無謀ですねえ」
さらりとロコにとって認めがたい事実を付け加える美しい精霊と、断言する熊のような男にロコは溜息をついた。それを面白げに見守っていた黒髪の男が口を開く。
「惚れた相手くらい、盗みがいのあるものもそうないだろう?」
その言葉に目を丸くし、にやりとロコは微笑んだ。
「……違いない」
「そうだろう」
いつもの腑抜けた様子と違う雰囲気を見せる彼に、ヴィーは同質の笑みを返す。
それを見ていた盗賊たちも沸き立って笑い出すと、「よっしゃあ、やってやれ!」、「そうだ、お頭ならできる!」、と騒ぎ始め、途端に酒盛りが始まった。
「僕はロコを手伝おうかな」
おもむろにそう言った銀の髪の青年を、ヴィーは意外そうに見やった。
「フィーの傍についているつもりかと思ったがな、ロイ」
「そうしたいところだけど、細工を作ることに関しては僕がフィーにしてやれることはほとんどないから」
信頼以外にも何かが複雑に混ざるその口調に気づきながらも、ヴィーはただ、「そうか」、と呟いた。その様子に苦笑して、ロイは言葉を続ける。
「それに、彼らに僕を見つけてもらった恩もあるしね。ちょっと心配な人も城にいる」
「アカネ、という医師か」
「そう」
ロイが頷くと、ひょこ、と白髪頭が二人の間に割って入った。
「アカネがどうかした?」
「いや、今城に向かったのは危険ではないかと思って」
ロイがポットの先ほどの話を振り返りながらそう答えると、ロコは首を振ってみせる。
「あれは生き汚いから大丈夫さ、きっとね」
そのあまりにあっからかんとした口調に、ロイが問うような目を向けると、ロコは笑った。
「まあ、手伝ってくれるって言うならこちらは大歓迎だ。まずは明日、村の子どもたちを我々の塔に移動させてからの話になるけれど」
「それじゃあよろしく」
その時、では俺も手伝うか、と言いかけたヴィーの手を、後ろから引っ張るものがあった。彼が振り返ると、薄い色の髪と目をした精霊が無表情に彼をじっと見つめて手招きした。無言で家の外へと向かう精霊に、ヴィーは一瞬迷ったものの付き合うことにする。
外は相変わらず吹雪いておりひどく寒かった。格段に寒く感じられるのは、ここが精霊の守護を失った一角に位置するせいなのか。
「冷えるな。できれば早めに用件を伺いたい。わざわざここまで連れて来られたくらいだ、ろくな用件ではないだろうが」
ヴィーがそう言うと、
「ヴィエロア、あなたにお願いがあるの」
精霊のその真っ直ぐな目に、なんとなく嫌な予感がしてヴィーは顔を顰めた。
「いやだと言ったら?」
面倒そうにそう返されて、風の精霊の長は薄く笑む。
「ヴィエロア。鍵が欲しいのでしょう?」
「……やはりそれに関わることか」
「気乗りがしない?」
「別に?」
そう答えながら、まだ元通りとは言えない自身を巡る力に内心ヴィーは舌打ちした。石を鍵にする。ただ精霊に会えばいいものかと楽観視していたが、やはり、そう簡単にはいかないらしい。
「では、この手をとって」
差し伸べられた手を、ヴィーは胡乱げに見やった。
「なんだ、試練でもくれるわけか」
「さあ……でも、あなたは仮にも現世界の中枢たる精霊国の王、なにであれ求めるもののためにやってのけるでしょう?」
それはまるで、ロコに好き勝手に言い放ったフィオナと同じ調子で、彼女にそう問われているようで。
「かしこまりました、シルフィード」
ヴィーは苦笑して答えると、しなやかな精霊の手にその手を伸ばした。