82.不穏
「フィー。起きろ。フィー?」
いつもと違う声が呼びかけている。そう、毎日聞いてきたあの声ではない。けれど、同じくらいには、どこか優しい声。
フィーは違和感と共に、うっすらと目を開けた。見慣れた空の色でなく、深い海の青色が思いがけず近くにあった。
「ヴィーか…近い」
「これでも距離をとっているつもりだが?」
「話し辛いから離れてくれ。いやいい、私が離れる」
自身の横たわる寝台のすぐ脇にいた青年からフィーは起き上がって距離をとった。溜息をつく。旅を始めてまだそんなに経ってはいないがわかったことがいくつかある。その一つが、睡眠中に近寄る気配には敏感であるはずなのに、ロイとヴィーに関してはそうでないということだ。ヴィーに関しては気配を消すことに長けているせいか声をかけられるまで目覚めないことが多い。さらにいえば、ヴィーに部屋の鍵は意味を成さない。彼から寝首をかかれる覚えは今のところないが、万一に備えて自身を鍛えなおすべきかも知れないとフィーは思った。
それにしてもなぜいつものようにロイではなく、ヴィーが起こしに来たのかと彼女は首をかしげる。ヴィーは既に髪を一つに結い、外着をまとっていた。
「おはよう。ロイは?」
「おはよう。残念ながら、かの美人は行方不明だ。ひょっとして寝ぼけているのか」
行方不明、とぼんやりフィーは呟いた。
「寝ぼけているな。よし、相変わらず酷い寝癖だから、なおしてやろう」
なんだか楽しげに笑いながら伸ばされる手に頭をかき回され、顔を顰めてそれを払う。
「何をする」
「髪型も整うし、刺激で目が覚めるだろう?」
「…両方逆効果だ」
立ちくらみに似た寝起きの具合の悪いのに加えて頭をぐらぐら揺らされて、しばらく放心していたフィーだったが、次第に昨日までの出来事が甦ってくると意識がはっきりと醒めた。
「そうだ、行かなきゃ」
そのまま出て行こうとするフィーをヴィーは止めた。
「早めに起こしに来てやったのだから焦ることはない。まず着替えろ」
そう言ってのんびりと手近な椅子に彼は座り込む。フィーはそのにこやかな笑顔を睨みつけた。
「…とりあえず出て行け、変態」
「つれないな」
フィーは居座りそうなヴィーを無理やり追い出すと、急いで身づくろいを始めた。着込まねばならないため、時間がかかるのがのがもどかしい。
無論純粋に心配なこともあるが、わが身の安全のためにもロイを早く見つけなければとフィーは思った。
そろそろ昼に差しかかろうかと言うころになってようやく目を覚ましたポットは、自室の窓辺から女王のいる方角へと見えもしないのに目を凝らしていた。彼が精霊の力をうまく扱えるならライチに飛んでもらってそれを見ることが叶うかもしれないが、まだ彼は飛ぶことを知らない。未だあの件について黙したままの女王に一言訊いて来てやると勇んでいた父は今頃、どの辺りにいるのだろう。父も風の術師だが出て行って以来連絡がない。もう結構経つというのにだ。無事でいて欲しい、とポットは風に願う。大人達はみんな出て行ってしまった。風の精霊達や、アカネの制止も聞かず、暗い顔で、女王に会いに行くと頑なに言い張った。
父も同じだ。
ポットと同じように男手一つで育てられた彼の年の離れた兄がいる。兄は、ここトムソンの傍のあの場所、花咲くルチアの町で好き合って結婚した相手と暮らしていた。そしてあの日、突然にいなくなった。…いや、亡くなった、と言ったほうが正しいのだろうか。未だに信じられないのだ。ポットは彼の兄の亡骸を見ていない。元々あったものの元の形が全く分からなくなるほど徹底的に焼き尽くされたルチア。積もる雪がそこだけなく、ただひたすらに一面に黒く焦げて異臭を放っていた町を彼は思い出して身を震わせる。たまたまその日兄のところに遊びに行ったポットは、あの異変の第一発見者になってしまった。
花が枯れて以来きな臭くなるあの場所から引っ越すように再三兄に告げ、なかば兄と絶縁状態になっていた父はそれでもこの兄の『行方不明』に泣いて怒った。ポットだって、少し泣いた。…少しだ。
そしてあの場所を焼いた人間がどうしても恨めしい。
「ライチ、あれをやったのは本当に女王なのか」
困ったように鳴くライチを見て、ポットは苦笑した。
「やっぱり答えられないんだな」
「ピー…」
シンセの人と風の精霊を結ぶ代表者である女王をシンセの風の精霊たちは滅多なことでは裏切らない。しかしライチがいつものように首を振って否定しないのを見るに、女王とルチアの焼き討ちに関わりはあるのだろう。なにせ、彼女に対して大きく反感を抱く者達が集っていた場所ではあるし。
肩の上に乗っている白い小鳥の首をかりかりとポットは撫でる。ライチは目を細めてそれを受けた。ポットはそのまま立ち上がって部屋を出ることにした。
ライチと同様に、罪の確たる証拠ともなる他の風の精霊の肯定も否定も得られないために、ルチアの花が枯れたこともルチアが焼かれたことも大きな議論と鬱屈を巻き起こして国を混乱に陥れた。一度だけ見た女王の姿をポットは思い出す。この国の英雄が惚れ込んでいると噂になったことがあるのも頷ける可憐でどこか薄倖そうな少女だった。
しかし人というのは見かけによらぬものである。なんだかよれた白衣に無精ひげをした胡散臭い見かけに反し、腕のいい医師であり結構面倒見のいいアカネ然り、
「ああ、ポット。ようやく起きたんだね、おはよう。朝ごはん作らされたんだけど食べるかい?」
「…食べる。おはよう」
なんだかいやに料理に手馴れているらしいこの綺麗だけど存外図々しい青年然り。ライチをつれていつものように食堂に向かうと、質素なテーブルクロスの敷かれた食卓の上によく煮込まれたポトフとパンやサラダが置かれており、ロイという名の青年はそこにいるのがさも当然と言わんばかりにのんびり椅子に腰掛けて紅茶を入れていた。
「さあ召し上がれ」
優美な笑みを浮かべて青年は言う。もしあの惚れっぽい義姉さんがここにいたら、うっとりして兄をやきもきさせるだろうな。そんなことを考えて、ポットは溜息をついた。やはり自分には彼らが死んだなんて、信じられないのだ。
「どうしたの」
「なんでもない。動けるようになったんだな、まだ寝込んでるかと思ってた」
「もう大分いいんだ。君には感謝しているよ。…もっとも、起きてしまったのは無理やり起こされたおかげかな」
「無理やり?」
なかなか旨いポトフをがつがつと食べながらポットが首をかしげていると、アカネが咳込んでいた。
「…なあ、ロイさんや。しつこい男は嫌われるぞ」
「構いませんよ」
「嫌味か。これだから顔のいい男は」
なにやら言い合う2人に構わず料理をかき込んで、ポットは立ち上がった。
「ごちそうさま」
「待て」
そのまま出て行こうとするポットを、アカネが止めた。強い力で腕を掴まれ、ポットは顔を顰める。
「なんだよ」
「…動くな、喋るな。じっとしてろ」
いつもと違う真剣な声でアカネが言うのでポットはきょとん、とした。ロイも、全身を強張らせている。ふと、肩から震動を感じてポットは戦慄した。滅多におびえない彼の精霊が震えている。
「ライチ?」
精霊は答えず、怯えている。
「ほう、ここが変わり者で有名なあの医者の家か」
外からふと、耳障りで大きな声が響いた。
「約束が違うじゃないか。俺らは陛下を殺すとまでは言っていない!!」
地下であるためか、興奮した壮年の男の声はいやに響いた。
「怖気づいたのですか。もう道も半ばまで来て」
くすり、と一つ笑って答える、まだ若い深くフードを被った男の声は一方に比べて随分と落ち着いている。
「あなた方は大切なものを奪われたのでしょう、悔しいでしょう、憎いでしょう?全てあの女王が悪いのですよ。精霊は黙して当てにならない、女王の取り巻きも愚か者ばかり。あなたがた以外の誰が彼女を裁くと?あなた方にはその権利がある」
滑らかな声につむがれる言葉は、まるで呪文か性質の悪い酒のようにそこに集う人々の中に染み込んだ。彼らは、そうだ、そうだと頷きあう。手には黒フードの男が先ほどもたらした真新しい武器が握られている。しかし、いつからか熱に浮かされたような仲間と自分の間に隔たりに違和感を覚えていた壮年の男は目の前に山と置かれた武器をとりもせず、素直に頷きもしなかった。黒いフードの男は、面倒そうに一人自分を睨んでくる男を見やって訊ねた。
「なにか?」
「あんたは風の精霊を共にすると女王に伝わるからと言って、なんだ、精霊よけの結界を張るとかいったな。俺を精霊と引き離した」
糾弾する口調に構わない様子で、黒フードの男は口元の笑みをそのままに首を傾げて見せた。
「それがなにか?風の国の女王に刃向かおうというのだから当然でしょう。あなた方の安全のためですよ、ひいては我々の、ね」
「…俺らは風と共に生きる根っからのシンセ人だ。それはな、俺らが堂々たる自由な人間だってことだ。風はいつでもそこにあるから、やましいことは滅多にできない。しないようにする。だからどこにいたって堂々としてられる。そして俺達には風のもたらす翼がある。その気になればどこにだって行ける。
で、だ。俺は元々な、女王様に一言事実を聞いてやるつもりでいた。それからどうするか考えようと思ってた。それならなんら恥ずかしいことでもなんでもない、こそこそする必要もない。だからずっとおかしいと思ってた、なんで精霊から隠れて俺はこんなにおどおどしてなきゃならないんだって。やましいことなんてないはずなのに。そう、その時点で気付くべきだった」
「何をです?」
「あんたがなんかよからぬことを企んでる、余所者だろうってことだ」
ふ、と黒フードの男は感心したような息を漏らした。
「なるほどねえ…子は親に似るといいますが」
「…何を言ってる?」
「いえ、術力が強いお方はやはり違うと思いまして。そうですね、確かに私は余所者だ、けれど今はこの地に根付きつつある。これは事実です。それにあなた方になんら悪意はないということもね」
「だが陛下に悪意を持っている」
「そんなこと、あなた達と何が違う?同じでしょう」
「俺には殺す気はないと言っている」
ふと、黒フードの男は壮年の男に近づいた。彼にしか聞こえないような声で囁く。
「あなたの上の息子さんに会いたくないですか?」
「なんだと!?息子は、」
「生きていますよ。可愛らしいお嫁さんと一緒に。この件が終わったら会わせて差し上げます、必ずね。でも従わないというのならどうするか分からない」
「お前は…何者だ」
「余所者ですよ、シンセ人になる展望を持った余所者。それでいいじゃあないですか。いいですか、テットさん、あなたは力がずば抜けて強いから抜けてもらうと困るんですよ。今回の要ですから」
期待してます、と一言続けて、黙り込んだテットを振り返りもせず黒いフードの男は去っていった。