79.風の国の女王
「ロコ」
耳慣れたジルフェの声にロコは目を覚ました。なんだかぼんやりする。
「ん?僕、どうして…そうだ、ジルフェ、フィオレンティーノの知り合いは?ひょっとしてあれ、夢だった?」
「さあ。…その様子なら問題ないみたいかしら、ロコ」
相変わらずの調子で、ロコの寝ている真上の中空に漂っていたジルフェは首を傾げて見せた。そしてふっ、と姿を消してしまう。
「え、やっぱり夢なの?そっかあ、よその人がわざわざこんな厄介なところに来るわけないかなあ」
固いベッドから起き上がると、ロコは首を廻しながら考えた。なんとも自分に都合のいい夢を見たものだ、と。
「残念だなあ。フィオレンティーノのこと、彼ならきっと、」
「俺がどうかしたか」
ひょい、とこちらを覗き込む人物と眼が合い、ロコは動転した。あれは夢じゃなかったのか、と思う。耳にフィオレンティーノの耳飾、鳶色の短い髪と瞳、そしてあの時は襟巻きに隠れていたけれど首の細工師紋を見るに、ひょっとして。
「フィオレンティー、ノ…?え、君自身が本人?」
「一応そうだけど。フィーでいいよ、呼びにくいだろう」
「本物?竜細工師の?」
「…そうだが。なんで知ってるんだ、そこまで。公になることじゃないし、なったのはつい最近の話なのに」
眉を顰めてフィオレンティーノはこちらを睨んだ。だがロコはその疑問に付き合うどころではなかった。何故こんなところに彼がいるかは分からないがこの機会を逃すわけには行かない。
「フィオレンティーノ、僕、君に頼みたいことがあってさ!!」
「フィーでいいって。質問に答えろよ。まあいい、それが何かを訊ねに来たんだからな。会ったばかりにも同じことを言っていたから気になってた。大抵のお宝なら手に入れられるって噂らしい盗賊の頭が俺に何を頼む?」
ロコは頭を下げた。
「フィー、お願いだ。耳飾を作ってください」
「耳飾、ねえ。いいよ、でも」
フィオレンティーノは微笑むと一言言った。
「報酬は?」
商談にはついてくるなと言って、ロコが目覚めたことを知らせにジルフェが来た後フィーは一人行ってしまった。ロコは一応お頭として一人部屋にいるらしく、そこを目指して階段を駆けていった。
水鏡の塔は、上の階に上ってみるとすっかり盗賊の居住空間となっており、その生活感漂うさまにフィーは少しがっかりした様子だったので、最上階にある彼の部屋ならば、と気になって仕方ないのだろう。おそらくここと似たようなものだろうとヴィーは思っている。盗賊たちが盗んだはずのきらびやかなお宝は一つとして見当たらず、素朴な白い家具や寝具、こまごました雑貨が溢れているに違いない。
そんな場所に残されたヴィーは今、ぎりぎりと音がするほどの強さで盗賊たちによってお縄につけられている。この状態で置いていくなんて無情なものだと彼は少し悲しくなった。
「これだけ締めれば抜けないよな?」
縄をかけた屈強な男が満足げな顔でこちらを見下ろしてくる。
「ああ、無理だ」
ふ、とヴィーはそれに笑い返して見せた。
「俺以外ならだが」
ぱらぱらと腕から落ちる縄を払い、足を締め付けているほうもさっさとはずすと彼は立ち上がった。盗賊たちが息を呑む。
「すご…」
「嘘、なんで!?もう一回!!もう一回やってよ」
「いや、次は開錠術をやってもらおうぜ?」
「罠見破るのもやって欲しい!」
「別に構わないが」
祖父にやられたことを考えれば、大抵のことは容易い。それにしてもこの盗賊たちは警戒心というものがないのだろうか。一通り事情を話すとさっさとこちらのことを受け入れ、ロイの捜索も気軽に引き受けてしまった。まあ、ロイに関して言えばジルフェが既に大まかな居場所を掴んだようなので、明日そちらへ向かう手筈になっており、さして手はかからないだろうと思われた。フィーは再三ジルフェにロイの無事を確認してようやく商売っ気を見せるほどの落ち着きを見せ、ヴィーは盗賊の一人、ドンと交わした約束に応じることになり今に至るというわけだ。
「何でも求めに応じよう。ただ、どれからするかをまず決めてくれないか」
盗賊たちはその言葉に言い合いを始める。なかなか決まるには時間がかかりそうだ。それを眺めやりながらヴィーが苦笑していると、ジルフェがこちらへ来た。
「ヴィエロア」
「なにか?」
「あなたは鍵を開きたい?」
その声の静かな響きは、気だるそうな彼女の雰囲気がすっかり抜けていた。まさか盗みのための開錠の話ではないだろう。
「今、それを聞くのか」
まただ。戴冠して以来幾度かこれに類似した言葉にぶつかった。冠と石にまつわる話。
それについては彼も長らく考えていた。風、水、土、火、それぞれを統べる精霊と会い、石を鍵にするというのはどういうことか。それは、竜という精霊の頂点に立つものとの契約の証として冠を頭上に得るようなものなのではないかと。つまり石を契約の証とする。これは的外れな考えではないだろう。
ただ引っかかるのは『鍵』と『扉』という言葉だった。聞いて素直に答えるような性情ではない相手ばかりがこのことを口にするものだからこちらももはや閉口気味である。問いの意味も分からないのに説明もしないで答えばかり求めてくる。実に理不尽だ。そもそもその調子で、答えを得ても彼らはそれに満足できるのだろうか。
「鍵を開くことに関しては、まだ答えられない。ただ、授かった冠の意味を俺は正しく知る義務があると思っている。だからこの国まで来た。これではいけないか」
開く意思がなければ鍵にする意味がないというかと思えば、ジルフェは首を振った。
「別に。聞いてみたかっただけ。もしあなたに資格があれば、認めるのみ」
ならばやはり、扉の向こうを求めるかはその資格とやらに含まれないらしい。黙り込んだ彼女に、ヴィーはこちらから一つ訊ねることにした。今の問いで確信を持ったこと。
「ジルフェ。いや、シルフィードと呼ぼうか。何故あなたはこの国の王の元にいない?」
風の精霊の長の薄い色の目が、こちらを向いた。
「クロリス、シプリア、ディアンテ、エウニケ…コーラリア。コーラリア・サントシア・コンラッケ」
豪奢な部屋で、静けさの中、暖炉の火がはぜた音と本を捲る音だけが響いている。
少女は、無心に捲っていた分厚い本のあるページを開くとその手を止めた。
「おばあさま」
圧政の記録がその名の後には連なっていた。それに対する数々の批判も。そして対照的に、まるで英雄のように讃えられる名がそのすぐ後に述べられている。
少女は溜息をついた。そして、本を火にくべる。それはゆっくりと燃えていった。
この本の作者は、何も知らない。おばあさまは悪くなかった。盗人が、裏切り者がいけなかったのだ。私は知っている。本当のことを聞いたのだから。可哀想なおばあさま。
幼い頃の記憶に耽っていると、部屋におとなう者があった。
「ステファニア様、何をなさっておいでです?」
「あらヤナ。何でもありません」
「そうですか?」
やって来た相手は、暖炉にくべられた本を眺めて顔を顰めた。
「貴女さまが読みたいと仰るから私は市井の歴史書を随分探してお持ちして参りましたのに」
「つまらない中身でしたから。何故真実も知らないのにまるでこれが正史であると言うような大きな顔をできるのかしら、私にはさっぱり理解できません」
「見る者によって歴史など変わって当然でしょう。遺したい真実が人によって異なるのですから。それを記した本人にとって、そこに描かれたものは事実だった、恐らくは」
火掻き棒で本を救おうとしていたヤナは、出てきた黒焦げの本を見て溜息をついた。
「なんにせよあんまり横暴ですよ。私も後で読むつもりでしたのに」
「ヤナ、用件は何でしょう?それでこちらに来たのでしょう」
用もないのに、この侍従が来るわけが無い。この風の国において、術力がないからこそ彼女が信頼して傍における唯一のこの相手は、馴れ合いを好まない少女の性格をよく知っているのだから。案の定、ヤナはこちらを向いて淡々と用向きを述べた。
「城に向かって、反乱軍が動き出したようです。それをお知らせに」
少女はただ、頷いて見せた。いずれこうなると分かっていたことだったから落ち着いたものだった。花が枯れたあの時からこうなることは誰にも明らかだったのだ。
「いかがなさいますか」
「それに対して、私が何かすると思って?」
「いいえ、陛下?」
侍従の応えを受け、自嘲するように少女は笑う。すると、少女の白い耳にあいた四つの穴に嵌った美しい耳飾が揺れた。
「無礼だぞ、ヤナ。ステファニア、お前は守るからそんな顔をするな。攻めて来るものがあれば追い払おう」
今まで姿のなかった男がいきなり現れると、侍従を睨みつけながらそう言った。ステファニアはそんな精霊を眺め、緩々と首を振る。
「貴方は黙っていて、エリアル。反乱軍のかかげる『新王』が誰か分かっているでしょう?もし反乱軍の先頭にでもいたらどうするのです。勝てるとでも?」
「違う、ステファニア。あいつは…」
「何が違うというのですか?そう、味方なんて、この城にすらほとんどいないのに外にいるわけがなかった」
そうである限り、例え自身が犯した過ちでないとしても、王を継いだ身としてこの王族の過去の清算は彼女が被るしかない。私は籤運が悪かった、それだけのことだとステファニアは思った。