73.条件
「あ、フィー」
「おはよう」
「おはよう。…背負ってるの、セネカ?」
「ああ」
日もすっかり昇った頃部屋に戻ると、目が覚めたらしいロイに声をかけられた。王様は猫となにやらやり取りしていたようだったが戻ってきたフィーに気付いて、こちらを向いた。
「この魔がお前のことは心配ないというから部屋で待っていたんだが。どうしたんだ、その子は」
「お互い早く起きたから、ちょっと二人で運動してきたんだけどこの子のほうは疲れたのか寝ちゃったんでそのまま連れてきた。まだ朝早いから、この子の両親もいる部屋まで運ぶわけにも行かないし」
「…そうか」
フィーが、自分が使っていた寝台にセネカを下ろし、傍らに少女の竹刀を置いたことで『運動』の内容は知れたらしい。
「セネカ、何か言ってた?」
ロイが問うのでフィーは、寝台の隅に腰掛けて目を閉じて答えた。
「…優しい子だよ、お前とヴィーを思いやってすらいた」
「…そう」
フィーが目を開けてみるとロイは目を細め、王様のほうは黙って、少女の前髪をかきあげてやっていた。彼らは、何を思っているのだろう。セネカではないがフィーも一瞬考えた。
しばらくして立ち上がり、寝台のある部屋を彼らは出た。荷造りのためと、少女を起こさないために。
「ちなみに手合わせのほうはどうだったのだ、主?」
猫の姿のままの魔が尋ねるのでフィーは答えた。
「…この子は剣の才もある。下手すると私より強くなるかもしれないな」
セネカは素振りばかりしていた、と言っていたけれど、少女と同じ年のころのフィーより遥かに動きはよかった。それが、彼女にとって幸か不幸か、フィーには分からない。彼女が騎士をまだ目指すならその才は役には立つだろうけれど。才か、と考えに沈むフィーの耳に、ヴィーの声が入ってきた。
「…ほう。美人になりそうだし城で将来雇うか」
「王様、半ば本気で言うのはよしてくれ、頭痛がする」
「女が剣を取るなという法はない。慣習があるだけだ。俺はそれを変えると前も言っただろう、ロイ」
フィーは瞬きしてヴィーを見つめた。冗談を言っている顔ではない。
ちなみにこの国では女性騎士の前例は無い。厳然たるイオナイアの職差別のためである。
騎士のほかに、そもそも金銭となる売り物作りには女性の手がかけられることはほとんど無い。それもあってフィーには、もしこの才がなければ、あるいは彼女自身が女性とばれてしまったら、どうなるのかという思いが常に頭の片隅にあった。
「本気、で?」
フィーが思わず問うと、ヴィーは確かに頷いた。
「もうとりかかり始めてる。頭の固い奴も多いがな。
さっきこの魔とそれについても少し話していたところだ。個を判断する時強さにもっとも重きを置く魔には人の世界の慣わしはよく分からんといわれたが」
「…働いてたんだね、一応」
ロイの言葉に、
「当然」
とヴィーは笑った。
フィーは少し眩しく彼を見た。ひょっとしたら。自意識過剰かもしれないけれど、自分とかかわりを持ったことが彼にそうした意向を持たせる要因となったなら。
「…うれしいな」
「ん?」
「あ、いや、もし他にもいろいろ変わったなら私も気が楽になる」
「そうだろう」
「まあ、まだまだ時間がかかるらしいけど。ねえ、フィー、もし生きているうちに変革が見込めなさそうだったらいっそ他国に工房を移そうか?」
ロイがにこりと言う。
「…本当に信頼が無いな」
ヴィーは溜息をついた。
「それはさておいて。主、取引の話だが」
「ああ」
突然の話の転換に、ロイとヴィーが困惑した様子だったが取り合わずにフィーは尋ねた。
「全てを解決してくれるといったな。その条件は?」
猫はどこか遠い目をして窓の外を見つめた。フィーもつられてそちらを見る。今日はよく晴れて雪は降っていない。ただ寒い、北の島ほどではないだろうが、とフィーがそんなことを思っているとラエルは言った。
「今の進路を北にとってくれるなら、考えよう」
「北?」
「正確には絶海の孤島、風を祀る国シンセに行って欲しい。もとよりそうして貰うつもりではあった。南に進んでいたのにという文句は聞かぬ、主が我の言を忘れるのが悪い。…ここから動けぬ我の代わりにして欲しいことがある」
いつの間にか金の目の人の型をしたラエルはおもむろにくたびれた様子の一冊の本のようなものを取り出した。
「それは」
「…ある、人間の日記だ。あの地であればどこででもかまわない、これを燃やしてきてくれ」
手渡されてみると、それはずしりと重かった。
「中を見ても?」
「構わん」
開くとフィーには読めない文字の羅列。ただ、数字だけは世界共通であるので分かった。それからすると、毎日欠かさずつけられたものであると知れる。横から覗き込んだヴィーが言った。
「なるほど、シンセの文字で綴られているな。俺はあの国の言葉にたいして堪能でないから読めはしないが」
「…『奴は拗ねたのか口を利いてくれない。昨日のご飯が魚でなかったからだろうか。私だって我慢して…』」
ロイがすらすらと読み上げると、ラエルが笑った。
「読めるのか。
持ち主は日々の食事にすら事欠く貧乏な奴だった…まあ、その件から見ても分かるように本当に下らないことばかり書かれた日記だ」
「…誰の、と聞いても答える気はなさそうだね。なぜ燃やすの?」
「我がようやく手放せるようになったから、だな。約束もある。さて、条件は以上だ。どうする?」
フィーがロイとヴィーを窺うと、ヴィーは尋ねた。
「解決って、この現状のだな?」
フィーは頷いた。いかに早くこの国を出るかという解決困難な課題を今フィーたちは抱えている。
「ああ。条件を飲めばラエルは私たちを魔法によって目的地へ一瞬で移動させてくれるという」
「・・・なるほど、チットが使っていたあれと同じ魔法か。魔法というのは本当に何でもありだな」
術力ではそうしたことはできないのだと最近フィーも学んだ。空間を歪ませることに精霊は力を貸さないためだ。
「…一応言っておくが、国を超えるような移動など誰もが扱える術ではないぞ。莫大に力を食う上、制御が難しく例えばそこの未熟な主が使うなら肢体がばらばらになってしまうことも覚悟したほうがいいだろう」
そんなことを嘯くラエルは相変わらず偉そうな態度を崩さない。フィーは少しむっとして言った。
「お前なら扱えると?」
「可能だ」
「…風の地にはいつかは行かなければならないうえ、あの海流を越えて入る手段を悩んでいたこともある。悪い条件ではないか」
ヴィーの言葉に確かにそうだとフィーも思う。風の精霊の頂点たる存在によって、余所者が足を踏み入れることが叶わない異国の地に入るには絶好の機会といえる。
「どうだ、好都合だろう?」
そのラエルの問いかけにフィーは答えた。
「裏があるのではないかと思えるほどだがな」
「なに、我の都合と主らの都合が重なっただけのこと」
「…そうか?まあいい。
よし、条件を飲む。いいか、ヴィー、ロイ?」
「ああ」
「構わないよ」
それからラエルが急かすので、フィーたちは荷造りを手早く済ませて再び金の魔の元へ集った。
「急かせるようで悪いな。…できればその日記をその持ち主の命日である今日中に燃やして欲しいものだから」
ラエルはフィーたちに向けて、珍しく済まなさそうな顔をした。
「では早速行ってもらおうか。主、力は我が出すから、『テ・シンセ』と一言言ってくれるか」
「え、早速って…私は、まだお前に聞きたいことが」
「…魔法のことならひねくれ者の魔より魔法使いに聞いたほうがいいだろう。まあ、この頼みごとを済ませた後なら聞かんこともないが。ほら、始めるぞ」
ラエルが長い腕を持ち上げる。次の瞬間、ぶわり、と空気が動くほどに、ラエルがかざした掌の先から力が蠢いた。魔の力が球を作るようにしてフィーたちを囲む。それをうけて、強風に抗するように腕で前を庇いながら、フィーは言った。
「『テ・シンセ』?」
「しまった」
ラエルは3人の消えた後を眺めて独りごちた。
「複数に対してあれを使うのは久しぶりだったからな…少々失敗したか」
まあ何とかなるか、とラエルは無責任に言った。
「…だ、誰?」
後ろからかけられた声にさっと振り向いて、そこに竹刀を構えた幼い少女の姿を見つけたラエルは顔を顰めた。
「お前、セネカなどと言ったか?
・・・見られるとは。まあ、その記憶は消すつもりだったから別にいい」
「え?」
「今主の使命を果たす身の上では」
少女の目の前でラエルの金の髪は黒くなり、その目は青くなっていく。
「この村に住む者たちが昨日目にした記憶は邪魔だ」
ヴィーそのものの姿をした魔は、王の威容を現した。豪奢な黒の衣装、流れる漆黒の髪をした男を前に、少女は息を呑んだが、一拍置いてむしろ目前の存在を睨みつける眼光を鋭くした。
「イオナイア、国王?いえ、違う。あなたは、何者?」
気丈な様子の少女に意外そうに魔は目を見開いた。
「ほう、震えもしないか。なるほど主のいうようにお前は弱者ではないな?面白い。
…我は今確かに玉座につく者。ただし精霊が嫌いなうえ魔法を使う所謂紛い物だがな。だからこんなこともする。悪いが」
にやりと王を真似て笑むと、少女に向けてラエルは一言告げた。
「『忘れろ』」
少女は、目を覚ます。
「セネカ、起きなさい!!いつまで寝てるの?」
少女がいるのは彼女自身の部屋のベッドだ。いつも通りの日常。ただ…ただ?
生じた違和感を払い落とすように、腫れぼったい目をしたままセネカは頭を振った。起き出すと着替えて顔を洗い、再び部屋に戻った彼女は、窓からよく見える墓場を無意識に見つめている自分に気がついた。
なんだろう。何かを、忘れて、いるような。
分からなかった。ただ彼女の心に、もっと強くなりたいという思いはいつも通りあった。
今日も素振りをしよう、とセネカは思う。何もしないよりはそうすることで強くなれるはず。
そうだ、アンナのお墓に花を添えに行こうかな、とも彼女は思った。なぜかそうしたい気持ちが強かった。
「セネカ、ご飯できてるわよ!?」
「はーい!!今行きます」
母の自分を呼ぶ声にぱたぱたと駆け出した少女はこの時まだ気付かなかったが、彼女の部屋の机の上には王印のされた一枚の城への推薦状が載っていた。
悪戯好きの魔が残した一つの繋がり。その引き起こす顛末は…また、別のお話。