70.雪の降る村
その小さな村に、雪はちらちらと降っていた。
ここ一週間は今年初めての雪が全てを覆い尽くす勢いで降っていたので、今日という日は村の住民にとってようやく訪れた穏やかな日である。
真っ白な大地には子供たちが勇んで作った手袋と帽子をはめた愉快な顔つきの雪だるまや雪うさぎがあちこちに点在していて人々の心を和ませた。
この村の名はリルク。イオナイア国の領海を除いて陸地上では最北に位置する王都から南へ下った、国のほぼ中心にあるこの村には、つい最近終わった収穫祭で王都に訪れていた他国からの旅人たちが数多く滞在していてなかなかに賑やかだった。中には芸人一座などもおり、ここ数日村の酒場は雪で動けない旅人たちの歌と踊りの喧騒が絶えることがない。
「セネカー、遊ぼうよー」
「やだよ」
一人の少年と少女が、村のはずれにいた。少年に誘われた少女はかかった声にべ、と舌を出した。10歳くらいの可愛らしいこの少女の手には、使い込まれた木刀が握られている。
「今日はようやく稽古ができそうなんだから!」
「素振りばっかしても意味ないっての」
「うるさい!ともかく今日は遊ばない」
「セネカのけち。女が英雄王みたいになれるもんか。お前が英雄王と同じのはその真っ黒な髪の毛ぐらいなもんだろ。さっさと諦めればー?」
木刀を持って襲い掛かる少女をいなしながら、捨て台詞を吐いて少年は去っていった。少女は追いかけることなく、いつもどおり村はずれの木の元で素振りを開始した。
強くなりたい。闇の時代に親友の女の子を亡くした少女の切なる願いだった。夢は、あの忌まわしい闇から国を救ったかの英雄王のようになって、もう目の前で誰かを喪うことのない強い剣士になることだった。けれど農業と旅人に宿を提供することで生活を営む村には彼女に剣を教えてくれる人などあろうはずもなく、少女にはただがむしゃらに体力をつけるための走りこみと腕力をつけるための素振りくらいしかできそうなことはなかった。けれど何もしないよりは、ましだ。少女の心情を知っている親は、彼女が幼い今くらいなら、と見逃してくれていた。彼らは村でも比較的大きな宿を経営しているために余裕があったことも大きいだろう。村の大半は白い目で彼女を見ていたけれど。親だってセネカが年頃になれば何というか分からない。
将来のことは考えたって、しょうがない。
考え出して手が止まっていたことに気づいたセネカは、首を振って素振りを再開しようとした。しかし。
「…あの。ここ、リルクであってるかな?」
自分に向けて発せられた穏やかな声に、セネカは振り向いて絶句した。
そこにいたのは滅多に見ない、美しい人だった。一つに束ねられた髪はイオナイアではよく見かけるくすんだ金ではあったけれど、その顔の造形を見たものはきっと老若男女問わずにセネカと同様言葉を失うだろう。神が自ら無垢の大理石に彫り込んだのではないかと思われるほど、白くすっと整った鼻梁、桜色の薄い唇。極めつけは天空をそのままに固めた宝石をはめ込んだような、水色の瞳。
村人は勿論、垢抜けた様子のこの村に訪れる旅人だってこれほどまでに衝撃的に美しくはない。
「あの?」
見とれて固まった少女に問い直す言葉は優しい。
「ここは、リルクですけど。あなたはまさか女神さまですか?」
「ぶ」
セネカが思いきって言った言葉に噴出す者がいた。
「髪の色を変えたくらいでは駄目みたいだな、ロイ」
「笑わないでくれるかな、お…ヴィー。でも道中は目立たなかったし」
「遠目だったからじゃないか?」
「フィーまで…」
あまりに美しい人間に目を奪われて気づかなかったが、ロイと呼ばれた人には二人の連れがいた。
フィーというらしい一人は薄い茶色の髪ととび色の生き生きした大きな目をした少年。背の高さは平均的だが、随分細身で、どこか凛とした目を引く風貌だ。ロイという人物ほどではないけれど。首にある竜の紋様がなかなか格好良くて、何の職の紋だろうとセネカは思った。
そしてもう一人。ヴィーと呼ばれていた男性に目をやって、セネカは再び絶句した。
「…ほら見ろ、ヴィーも人をこんな風にする。まったく、お前たちは二人揃って目を引きすぎる。やはり一人旅のほうが問題なく動ける気がしてきた」
「俺を見捨てようとはいい度胸だ、フィー」
「なんなら僕は幻術を上掛けにするけど、この人はいっそ置いていこうか?」
「あの!」
なにやらセネカをそっちのけにして言い合っている3人に声をかけると、フィーという人が一番に気づいてセネカに向けて首をかしげた。
「なんでしょう、可愛らしいお嬢さん?」
笑顔と共に言われたその言葉に少し紅潮しつつも、セネカは尋ねた。
「あの、そちらの黒い髪の人って国王様、ですか」
「そ」
何かを言いかけた茶髪の少年の口を、その両脇から伸びてきた手がほぼ同時に塞いで少年は口ごもった。苦しそうだ。
「いや。なぜ?」
黒髪の人がその艶やかな青い目を向けて問うので、セネカは答えた。
「あ、その国王様の絵姿をこの間のお祭りに行って実際に王様を見たという絵師が描いてるのを見て、あなたはそっくりで」
よく見ると男性と分かるロイという人同様、束ねられているもののさらさらと流れる黒い髪、海のように青く輝く目。女神のようなロイという人物と並んでも引けをとらない、けれどもっと硬質で精悍な美貌。しなやかに鍛えられているのが纏う黒衣の上からでも分かる。佩びられた剣は使い込まれていて、いつか見た貴族がしていたような飾り物でないのが分かった。彼は顔を顰めてセネカに答えた。
「俺は似ているだけの別人だ。世界には同じ顔の人間が何人かいるって言うだろう?本物の王は玉座に行儀悪く腰掛けて仕事もせず部下を楽しそうにいびってるだろうよ。あれと一緒にされるのは屈辱だ」
「…容易に想像できるが、お前は人のこといえないと思うけど」
なにやら呆れたようにようやく開放された少年が呟いたが、セネカはそれどころではなかった。
「国王を馬鹿にしないでください!」
セネカの怒りを孕んだ大きな声に、黒髪の人は目を見開いた。
「わたしがあなたを王様と間違えてしまったのは、ごめんなさい。でも、王は…王様は偉大な人です」
木刀を握る手に力が篭る。どんなに頑張ったって願ったって、セネカができなかった闇を払うという偉業をなした彼女の憧れを貶されることは我慢ならない。
「あの人は、国を救った人です。この村の人だって、あの闇に何人も殺された。怖かった…その日々を、終わらせてくれた人です。みんな感謝してる。わたしたちに夜を返してくれた人です。今だってお城に縛られて、国を守り続けてる英雄を誰もこの国の人は貶してはいけないはずです」
唇を噛み締めるセネカは、自分の言うことが押し付けがましいことだとは思ったけれど、間違っていないと信じた。だから撤回するものかと、きっ、と自分よりも高くから見下ろしてくる憧れの人の絵姿そっくりの青い目を睨みつけると、存外その目に浮かぶ感情が柔らかなことに気づいて驚いた。
「…悪かった」
その人は笑うと、くしゃりとセネカの頭を撫でた。セネカはその大きな手の感触に大いに照れた。
「わ、私がぶしつけなことを」
「構わない。国王は、果報者だな。君みたいな人間がいるなら守り甲斐があるだろう。先ほど君は英雄が城に縛られているといったが、結構気ままに生きてるみたいだから心配は要らない」
「あなたは王様を、知っているのですか」
「まあな」
「お、お話を聴きたいです!」
セネカは顔を上げた。
「私、宿屋の娘なんです、ぜひうちに泊まってください!!」
3人は、セネカの様子に顔を見合わせると、苦笑して頷いた。
「よろしく」
「あいにく一部屋しか空いていませんが」
「それで構わないよ。どうやらどこも満員らしいし」
「そうですね。申し訳ない…まけて3銀にしときます」
「本当に安いな。ありがとう、助かるよ」
フィーはさっさと言われたように3銀払うと、ロイのところに戻った。少女に連れられてきた宿屋は村一番という少女の言葉どおり、どっしり落ち着いた雪に負けない石造りの、なかなか豪華な宿だった。
「ヴィーは?」
「捕まってる。あの子に随分懐かれたみたいだね」
ロイの視線を追うと、なるほど、ヴィーの話にわくわくした様子の少女の姿が宿屋の隅にあった。どうやら本人から聞いた話として闇の跋扈を払った時の話をしているらしいが、彼以上の話し手は文字通りいないだろう。何せ本人だ。詩人よりも実際に起こった状況もその時生じた感情も把握しているのだから。
「かわいい子だ。剣だこが痛々しかったけれど」
まあ、フィーも細工を作るうえで鍛えられた固い手をしているので人のことは言えないのだが。
「…王様を擁護する時の顔を見ても、なにか、あったんだろうね。あの子が剣を使わずにすむ一生を送って欲しい」
「そうだな」
出来る限り、そうあってほしい。
「で、部屋は取れたの?」
「ああ」
「何部屋?」
「一部屋」
簡潔に答えると、ロイはがくりと肩を落とした。常人なら情けなく見えそうなそういう姿さえそこそこ様になるとは美形は得なものだ。そんなことをフィーは思った。しかしどうしたというのか。
「フィー…」
「なんだ?」
「もういい、なんでもない。そうだね、一部屋のほうがある意味君が何かをしでかさないように見張っていられるかもしれない」
「なんだ人を危険人物のように」
「自覚がないのが僕としては一番怖い」
ロイはなぜだか苦い顔をすると、寒いしとりあえず部屋に行こうか、と階段を上り始めた。
部屋に着いて荷物を置くと、ようやく人心地ついた。なにせ、王都を出て以来こうしたしっかりとした宿に泊まるのは初めてだ。
「うわあ、ベッド…」
「フィー、とりあえずまだ眠らないでね。せめて夕飯を食べてからにして」
「まだそれまで随分時間あるじゃないか…」
「そこにいると確実に寝るからこっちにおいで」
ロイの言うことももっともなので渋々起き上がると、ロイの水色の目が笑った。
「すごい目してるよ、フィー」
「…女神様と比べたら仕方ないだろう?」
「怒るよ?」
やはり気にしていたらしい。幻術で一番目立つ、この国では珍しい銀の髪を隠してなお美しいロイは人の目を引くことが基本的に嫌いだ。
「悪い。で、なんで寝ちゃいけないんだ」
フィーがあっさり謝って尋ねると、ロイは地図を広げた。
「針路を決めようかと思って。僕たち今南に向かってるでしょう」
「そうだな」
話し合いの結果、フィーはとっとと魔法国に行きたかったが、王様が今術力をうまく扱えずフィー自身の力が未熟なこともあり、それを道中回復し鍛えつつ王様の目的を最初は優先することになった。5つの涙を鍵にするにはそれぞれの石に冠せられた名を持つ精霊に会わなければならない。精霊の頂点である竜がおり、かつ数多くの精霊が暮らす豊かな国イオナイアであったが、実際のそれぞれの属性の精霊を司る長とされる精霊は国外を住処としている。よってフィーたちはいずれにせよこの国の外に出る必要があった。
土のノームは東、水のウンディーネは西、火のサラマンダーは南、風のシルフは北。
それぞれの居場所においては、国を挙げて神とて精霊を崇める精霊国もあれば、少数民族に祀られている場合もある。
イオナイアは、東西を険しい山脈に囲まれている。冬に入り、雪の影響で山脈を越えるのは現状、面倒だ。
ではフィーたちが最初に目指すのは進むのは南か北がいいだろうということになる。
北のシルフを祭るのは精霊国であったが、海を挟んだ孤島にあるその国は風の精霊によって守られ、複雑な海流は人を拒むと有名だ。となると残りは南。こちらは古くからイオナイアと友好を結ぶ隣接した精霊国である火の国アウェンが統治しており、しかもサラマンダーの住処の火山がある。イオナイアとアウェンは、長年築いた関係から国境を越えるのにそれほど面倒な制限を設けていないのも決定的だった。
そんなわけでフィーたちは南を目指している。
「今の時期にこの村でどれくらい食料を得られるかによるけど、まっすぐ南を目指すと国境まで町も村もないからちょっと迂回しなきゃね」
「狩をするにもその辺の草を食べるにも、冬でなんもないしな。どこかによらなきゃ飢え死にって訳か」
「そう。で次にどこを目指そうかと思って」
「そうだなあ。食べ物がうまいとこがいい」
「フィー…」
「冗談」
とりあえず今まではこの村、リルクを目指してきた。ラエルの力が行き届いているのを証明するかのように道中特に問題も起こっていない。…ラエル?
「しまったな」
「どうしたの?」
「ラエルに、国を出る前に一度会いに来いって言われてた」
「…無視してよかったんじゃない?」
「いや。なんか、嫌な予感がする」
魔の不敵な笑みを思い出す。
ばたばたと半ば衝動のままに出てきたが、あの魔に聞くべきこともいくつかなかったとも言い切れない。ロイとヴィーという恐ろしい指導者の元再び術力の訓練を始め、魔力の制御もこっそり勉強しているフィーの身としては気になることもある。
「呼んだか」
「うわ!」
突如としてフィーの背後に現れた豪奢な服をまとった男は、黒髪碧眼のこの国の王。の、偽者だ。
「ラエル!?」
フィーが驚きのままに叫ぶと、魔はにやりと笑って本性の金の魔の姿をとった。金の髪と瞳、滑らかな黒い肌。ヴィーが好む黒衣にそれは良く映えた。
「それが本来の姿かい?随分派手だな」
「貴様に言われる覚えはない。おや、髪の色を変えたか。無駄な足掻きを」
ラエルはまるで初めからここにいたふうにさっさとくつろいでいる。フィーの頭にずしりと圧し掛かって。
「…重い」
「とりあえずフィーの頭にのせた汚い腕を放したらどうだ?」
「主への仕置きだ、口を出すな」
ラエルは口の端を上げた。本当に重い。まだ猫になってくれたほうがいい。
「顔を出せと言うに。無視してくれおって。この主ときたら」
かなりご立腹らしい様子に、うっかり約束を忘れたフィーは反省した。…少しは。
「それは悪かった」
「本当に反省しているのか、主?
まあ、そのことに対しては後ほど処罰してくれよう。…それよりこの村、妙な気配があるぞ?」
そうラエルが言った後。階下から物が壊れる音と悲鳴が鳴り響いた。
「そういえば例の男は今術力が使いこなせないのではなかったか。面白いことになりそうだな」
ラエルの言葉がのんきに響いた。