69.どこかで交わされる会話
少女は逃げていた。
随分長いこと駆けて、もう息はとっくに上がり、喉で血の味がして足はもつれたけれど彼女はそれでも足掻こうと走るのを止めなかった。
何も無い空っぽの白い空間で少女の背後から黒くそれを埋め尽くさんとする、まるで意思を持つかのようにのたうつ闇がそんな少女をあざ笑うように彼女との距離を着実に詰める。
「い、や。来ないで!!」
少女は悲鳴を上げた。
とうとう彼女に追いついた闇が蠢いて、彼女を足元から捕らえて引き倒した。
「いやぁああああああああああああああ!!!」
絶望の叫びを上げる青い服の少女を、虚無の闇は飲み込んだ。
「ギル!?」
掴まれて揺さぶられる。
少女は目を覚ました。目の前には、切迫したような色を浮かべた緑の瞳。汗だくになって未だに緩く痙攣する体を、しっかりと掴む青年の手に掴まれた肩が少し痛かった。
「夢…」
ようやく、ずっと話していなかったように掠れた声で少女は呟く。
「怖い、夢を見たの?」
赤髪の青年が、彼女の肩を掴む手をはずしてゆっくりと彼女の薄茶の髪を宥めるようにすきながら問う言葉に、頷いた。
真っ黒な闇に囚われる夢を見た。少女を抗う術無く埋め尽くし、飲み込み、彼女を彼女自身とは異質なものに変える闇。
「どんな夢を見たの」
少女は首を振ってそれに答えはしなかった。
意識がはっきりしてくれば何のことはない、闇は彼女自身だ。なぜ、それを異物のように怖がる必要があるだろう。少女は首を傾げた。
「ごめんなさい、私どれくらい寝ていた?」
「ずっと。目を覚まさないかと思った。傷が塞がらないからギルが死んじゃうかと思ってオレが死ぬかと思ったよ…」
「傷は塞がったわ」
腹に手を添えると、もうそこには滑らかな肌しかないと自分で分かった。彼女を蝕む闇は彼女の存在を生かす。先ほど見た夢は、闇が彼女にあいた穴を補ったことを暗示しているに過ぎないだろうと少女は思った。
「本当に!?良かった…」
いつものふざけた調子が無い彼の声はただ真摯で少女は申し訳なく思った。きっとひどく心配をさせたのだろう。
同時に不思議にも思う。
なぜこれほどまでに彼が、少女のような気味の悪い人と呼べるかも分からない存在を気にかけてくれるのか。いつでも切り捨ててくれていいように素っ気無く応じても彼の態度が変わることは無くて、やはり少女は不思議だった。
「なぜ」
「なあに?」
少女に甘えるような声音。彼女と違う澄んだ瞳。少女は言葉を飲み込んだ。今聞けば『本当のこと』を答えてくれるかもしれない。けれどそれは、互いを縛ることになるような予感があった。
「…なんでも、ない。あの後、どうなったの」
チットは顔を顰めて、少女の頭に冠を載せながら偽の石を掴まされた事を教えてくれた。5つの石が一つのところに集まったことで目的は達成されたと見たのか、古文書ももうその存在を告げなくなったことも。十中八九王様が持っているだろうが…
「隕石落としてきちゃったからねえ」
チットにもそれなりに大きな負担がかかっていたらしい。長距離の移動魔法もまた、大きな力を使う。何せ国境をいくつか越えてきたのだから。追っ手を撒くためのその行為は、石も冠も奪いおおせたなら彼の損失よりも利のほうが大きかったが石の取り間違いのために逆効果となった。
すまなさそうに彼は謝った。
「当分はいろいろ無理。ごめんね」
「私が刺されなければ」
少女の言葉をチットは苦笑してさえぎった。
「ギルは謝んなくていいよ。オレがふがいないんだよねー。爪が甘いって言うかあ」
いつもの彼の口調が戻っている。けれど彼の顔色も決して良くは無い。そのことに、少女の胸が微かに痛んだ。
「…どうしましょうか、オレの女王様?」
ふざけたように問いかける彼に、ギルは思案をめぐらせた。もし、あの王が生きているならば『鍵』を求めて旅を始めただろう。
しかしこちらに『扉』たる冠はある。
ならば。
ギルは口を開いた。
「ゼダ、奴は?」
「生きておられました」
またも人間と契約など下らないことをして、という言葉をゼダは飲み込んだ。目の前の男が気にするのは彼の金の魔である兄の生死のみ。他は目の前の男にとって些末なことに過ぎない。
「そうか」
玉座の男の表情は相変わらず読めないもので、ゼダは歯噛みした。その椅子は高く、遠い。あらゆる意味で遠い。
「ご苦労。お前は今まで通りに準備を続けろ」
「は」
ゼダはけれど、ただ跪き従うことしかできない。
「もうすぐ心待ちにした戦争だ」
王たるその男は珍しくも笑っているように感じられた。
「花をください」
「…ご覧のとおり武器屋に改装しとる」
老女はやって来た男を面倒そうに見やった。
「冗談ですよ。久しぶりですね、ネリー。相変わらず勘のいいことで」
「なんのことだか」
「平和な時には花屋、戦時には武器屋。時代が訪れる前に兆候を読み取って貴女は動く」
「先を見ないと儲からないからね」
老女は遠い目をした。月が赤い。時代は動き始めるだろう。
「賢者って無欲なものとばかり私は思っていましたけれど」
「強欲じゃなきゃあ、こんなに生きとらんだろうよ」
「どうせなら皺を増やすことなく時を止めればよかったのに」
老女が良く知る、彼女自身少女であった遥か昔から変わらない、少年のような目をした男は笑う。腹立たしいその調子も相変わらずだ。
「やかましい。買い物する気が無いなら帰っておくれ」
「冷たい…本当に久しぶりなのに。貴女にとって私は客以上の存在なはずでしょう」
しくしくと男は泣いた。どこぞの乙女なら心動かされるであろう美貌の涙にも、うざったいとしか老女には思えなかった。
「いや、私にとって客以上の人間なんて居やしないよ。ほらさっさと出て行った」
「買います、買えばいいんでしょう。じゃあこれください」
無造作に引っつかんだ剣を、拗ねたように男は老女に差し出した。
「目は腐ってないみたいだねえ」
かの精霊王国の初代英雄王が手にした剣。
その模造品である品は英雄王にあこがれる人々のために腐るほどこの店にあるのに、男はあっさりその中から本物を取った。
「当たり前ですよ」
男は微笑む。彼が間違えるはずは確かにない。老女も、知ってはいた。
「でもそれは非売品だ」
「…もともと私のじゃないですかこれ」
不満そうに言う男に老女は首を振った。
「あんたが畑買うからって言って私に売りつけたんだから、買った私が持ち主さね。だからどうするかは私の勝手だ」
「そんなあ。鍬でこれからの時代を私に乗り切れというんですか!?」
「…売らないよ。やる。さっさと持ってでていきな」
「ネリー…!」
感極まったといわんばかりに抱きつこうとする男を老女はいなした。
「抱きついたら殺してやる」
「この美青年の抱擁を拒むのは貴女くらいのものです」
老女にかまわず青年は結局抱きついた。振り払おうとして、しかし思い直したように老女はまるで年を取らない青年の背をぽんぽんと叩いた。相変わらず彼の体は人にしてはやけに冷たい。…けれど人と違う感情の起伏を持っているわけでは決して無い。
「…行くのかい?」
「守れるものは、守りたいんです。その力があるから」
「今まで傍観していたくせに」
「世の中それでもどうにかなってきたじゃないですか。イオナイアにしたってまた『英雄』が現れたって言うし。でも今度は、誰の手にも余る。私すら止められないかもしれない」
「あんたの力は大きすぎる」
「そうですね」
「あんたはまた傷つくぞ」
「…そうですね」
男は老女から体を離して微笑んだ。
「でも行きます。剣をありがとう」
「無茶をするな」
「私を心配してくれるのは昔から貴女くらいのものでしたね。大丈夫、とりあえずどこかの国の傭兵にでも適当になってしばらくは様子を見ようと思います」
「そうか。…また、花を買いに来い」
その言葉に、一瞬眩しそうな顔をして青年は老女を見た。何かを、思い出すように。
「ええ、ぜひ」
青年はそう答えて出て行った。
「また、繰り返すのかねえ…」
あの時と同じことがおきるのか。
世界は一体あと何度この大きな変動に耐えられるのだろう。そう思いながら、老女は青年の出て行った扉を、しばらく見つめていた。