68.旅立ち
開いた窓から忍び込む冷たい風に目が覚めた。
まだ辺りは、暗い。日はいまだ昇らない早朝の澄んだ空気の中で、銀の髪を払うようにして青年は伸びをした。
一人椅子から立ち上がって、ロイは周りを見回して笑った。宴の後の食卓の惨状ったらない。
積み重なっている空っぽになった皿、倒れた杯、その中を縫うようにして幸福そうな安穏とした寝息を立てる人々。床に倒れ臥している者もいる。風邪をひかないといいけれど、と思いながら、彼はいったん家の奥まで行って毛布を持ってきて一人ひとりにかけてやった。
昨晩は徹夜するといいながら結局皆酔いつぶれて、そのまま眠ってしまった。
ただ楽しさだけ残るように別れを惜しんでいた。
皆、どこかで知っているのだろう。冗談でなく、もう会えないのかもしれないと。そうでなければこんなに大仰に集って馬鹿騒ぎしたりしない。旅に出て帰ってこないものなど、五万といる。それを皆良く知っていた。
ロイは彼に並んで座っていた、未だ寝こけているフィーとシライに毛布をかけると、旅の準備を早々済ませなければならないのを頭では分かっていながら彼も座って、二人を見つめた。
フィーと共に行く旅が、危険を孕む少々長いものになることを、彼だって分かっている。もしシライに預かり先がなかったのならロイはやはりこの旅に踏み切れなかったろう。万一帰れなかったらシライは天涯孤独の身になってしまう。けれどフィーへのロイの想いも随分前から知っていてよく応援していてくれたこの弟は、そうしてロイが足を踏みとどまらせることを嫌った。昨日のようなことを起こすほどに彼を追い込ませていたのに気づかなかった自分を心底呪わしく思う。シライが邪魔と思ったことは一度としてない。小さなシライの髪をすきながら、弟への罪悪感と、感謝と愛おしさから、ロイは目を瞑る。必ず帰ろうと誓う。
彼はこの人の気持ちに聡すぎる優しく幼い弟を、愛していた。それは彼の想い人であるフィーに対して同じくらい強く、比較のできない類の感情で。同じ血を身内に潜ませながらも彼と弟は全く違う存在であっても、今や唯一血の繋がった大切な家族だった。
だから、この弟を一人置いていくことなど彼には考えられなかった。王とフィーが旅に出ることを竜が告げた時もそう思った。
しかし、今回は違った。状況が違う。術力も魔力も目覚めさせた稀有な存在となった未だ魔法使いとしても術師としても未熟なフィーが一人であてどなく魔法認知国家を彷徨い、末にはあの魔法使いや闇と一人で対峙するなど無謀という他ない。しかし彼女は彼の言葉を頑として聞き入れなかった。
フィーが命がけでたった一人どこかに行こうとするとなったとき、それに伴えないことは彼にとって身を裂くような苦痛だった。止めようにも彼には彼女の思考も体も拘束できない。それは縛られるのを嫌うフィーを殺すことと大差ない。説得すら早々拒絶されて、感じたのは絶望だった。彼女を喪うことはとてもではないが耐えられない。かといってどうしたらいいのか、手がなかった。どうしたらいいか分からなかった。ともかく止めなければと思うのに彼女の意思を前に無力だった。
そんな中、王が彼女についていくことを彼女が承諾した時に居合わせて、安堵より先に感じたのは嫉妬だった。何かしら事情があったにせよ国すら置いて彼女をあっさりと選べた、彼女を守りうる王への嫉妬。そして彼の申し出を受諾したフィーの態度への動揺があった。彼女が、手元からすり抜けて遠くへ行ってしまうような不安も。
と、シライの横でフィーが身じろぎした。
「ふあぁ、おはよう」
「…おはよう、よく眠れた?」
「寝苦しかった…。まだ眠い」
フィーはぼんやりと辺りを見回した。彼女はまだ生きてそこにいる。自分の近くに。それが嬉しいと、ロイは素直に思う。
「夜も明けてなきゃ、当然か。相変わらずロイは早起きだな」
「準備もあるからね」
まだうとうとしていたのフィーは、その言葉に目を覚ましたようだった。
「ロイ。昨日の、話だけど…いいのか、私なんかについて来て」
「君が許すなら」
シライ越しに肘を突いたロイが微笑むと、フィーは真顔でそれを受けた。
「なぜ?待っててくれれば時間はかかるだろうけど、必ず冠を取り返して戻ってきて見せる。一応ヴィーもいるからたぶん死なないと思う。心配しなくていい」
「二人旅のほうがいい?フィーが女性だってあの人は知ってるんだよ?」
「いや、そういうわけじゃないけど…あいつに手を出されることもまずないと思うし」
「それは信頼?」
「いや、勘」
それに苦笑すると彼は言った。
「…鈍感。無防備。無鉄砲」
「なんだよ失礼な」
「見てられない。王様には君は荷が勝ちすぎると思うけど?」
彼がにっこりと笑うと、対する少女は顔を顰めた。
「そんな君の傍に居たい。駄目?」
フィーは、それ以上彼に問わず、ほんの少しだけ赤くなった顔を逸らすと、
「もういい、分かった…ありがとう」
と呟いた。
「シライを頼みます」
「おう、シライなら大歓迎だ」
「任せてください」
「ナンテス…感謝してる」
ナンテスはロイの言葉に静かに目を細めた。
「あなたのお役に立てたのなら何よりです」
工房の前には、小さな人だかりができていた。
シライの頭をわしわし撫でながら頼もしく笑うナンテスの親父さんと、ナンテスの姿に思わずロイはほっとする。夜も明けた頃、旅立つ彼らを工房の関係者がやって来て見送ってくれることとなった。中にはレオナもいて、フィーと何か言葉を交わした後彼女に何か手渡していた。
いよいよ発ち際に、シライが静かに言った。
「二人とも気をつけてね」
こんな時でも笑うシライを、ロイは抱きしめた。
「必ず、帰るから」
「うん。絶対だよ」
「ああ」
フィーがシライに、
「ありがとう」
とぼそっと言うとシライは、微笑んで頷くと二人に向かい、
「いってらっしゃい」
と言った。それに彼らは答える。
こうして二人は手を振りながらエルファンド工房の皆にしばしの別れを告げて、いよいよ旅立つこととなったのである。
王都を囲う外壁の門まで行くと、付近に佇む黒髪碧眼の男がいた。
気配を押し殺すのがうまい彼は、ただでさえ薄まっているその気配の上にくすんだ色のフードを被っていたのでフィーがそうと意識して探さなければ見つけられなかっただろう。相変わらずの無骨な大剣を佩び、どこか泰然とした様子で近づいてきたフィーたちを迎えた。海のように青い目と目が合うと彼は口元を下げて不機嫌そうな顔をした。
「俺を待たせるとはいい度胸だ」
「悪い」
素直に謝ると、ヴィーは笑った。
「冗談。俺もさっき来たところだ。…別れは済んだか」
「ああ」
「それは良かった」
つい、とヴィーはロイへと顔を向けた。
「で、そこのきらきらした目立つ男もやはりついて来るという訳か…邪魔な」
「身分そのものに問題ある一国の王様よりは気軽な存在なんだけどね。なんならこの髪を切って染めようか?」
「髪もだが顔がなあ。変形させるのはどうだろう」
「褒められたと喜ぶべきかな」
初めから険悪そうな様子に、フィーは溜息をついた。
「…あんたら、置いてくぞ」
「では行くか」
「そうだね」
途端、どこか息の揃った様子を見せる二人に苦笑する。もとより一人旅を覚悟していたが賑やかな旅になりそうだ。
…ふと、何かを忘れているような気がしたが、思い出せないのでたいしたことはないだろうと彼女は思う。二人の青年を連れて、曙光にその薄茶色の髪を金に輝かせながら少女は王都の門を久しぶりに潜った。