65.そして(2)
「公爵夫人」
かつてリジア先生、と呼んでいたこともあった人物は、空を見つめていた。窓のないどこまでも閉塞した白い部屋。その中心の椅子におかれたように腰掛ける女はまるで人形のようだった。自分の声が聞こえているかも分からない。
「私をお呼びだと伺ったのですがね」
呼び出した相手の顔に浮かぶ表情は虚無。
ぽりぽりとロイは頬をかいた。溜息をついて出て行こうとする刹那、自分を掴む腕があった。
「あの子が駄目なら、お前から」
妄執に取り付かれた顔はひどく歪んでいて、掴む手の強さは弱弱しいものだったが、ロイはあえて振り払うことなくただ冷たい笑みを浮かべた。
「まだ、そんなことをなさる。無駄です。あなたはもう魔法が使えないでしょうし、ご存知かと思いますがだいぶ前から術力は殆ど薬で殺していますから」
お陰であなたのような輩に絡まれることもなくて静かなものですよ、と皮肉げにロイは言った。
「何年前でしたか。僕があなたの罠にかかってシライのように術力を抜かれそうになった日のことを、お忘れですか」
公爵夫人は何かを思い出したようにびくり、と震えた。
「あの日に、懲りたと思っていましたが」
ロイの笑みはあくまで穏やかで、けれどどこまでも冷えていた。感情を押し殺しているのだとフィーがいたら思っただろう表情だ。
「こんなことになるとはね。今度手を出したら容赦しないと伝えていたし、まさかあなたがシライの力に気付くなんて思いもしなかった。シライの力は、僕と違って一生表に出ないはずだった。回路が閉じていたのだから。・・・あなたは何か術力を見る特殊な目を持っているようですね。なんにせよ、余計なことをしてくれた。シライがどれだけ苦しんだか・・・本当なら殺してしまいたい」
物騒な言葉を吐いている割にその空色の目は静かだった。
「…殺せばいい」
「そうしたいのはやまやまですが、できません。シライに感謝するんですね、あの子にわざわざあなたごときの死を背負わせたくはありませんから。・・・聞きたいことが一つ。今回のこと、仲間が、いたりしませんか」
今回の事件を示唆したような。今後のために確実にしておかなければならないことだ。
「いないわ」
公爵夫人は目を閉じて答えた。
「本当に?精霊と竜にかけて誓えますか」
目を開いた公爵夫人は、ロイの中の何かを見ていた。フィーが嫌悪していた、あの、厭な目つきで。しかしふと、そこに今まで浮かぶことのなかった恐怖が浮かんだ。
「…ちか、う」
震える声で公爵夫人は搾り出す。ロイに何を見たのか、がたがたとその体は怯えていた。
「ならいいです。もう二度とあなたとお会いしないよう願っていますよ」
ロイはにっこり笑ってさっさと部屋を出て行こうとした。しかしドアを閉める直前、
「化け物め」
一言、公爵夫人は呟いた。ロイは一瞬だけ動きを止めたが、何も言わずに出て行った。
「さてと。お湯から沸かすかな」
厨房から料理人たちを追い払って、レオナは一人お茶とお菓子の準備にいそしんでいた。
「・・・葉っぱは確かこっちに」
一つ棚を空けようとして。
「うわ!」
レオナは固まった。そこに少年が一人うずくまっていたからである。
「な、なに・・・リュカ?」
柔らかな茶色の髪の、まだ幼いレオナの弟は棚にすっぽり嵌っていた。
「レオナンデ、お姉さま」
くしゃりとその顔は見るからに歪んで、今にも泣き出しそうな顔へと変わった。
「あんたこんなところにいたの。とりあえず出てきなさいな」
引っ張り出そうとすると、少年はいやいやするように首を振った。
「ごめんなさい、僕、酷いことを…」
「お義母様に操られたんでしょう、しょうがないじゃない」
「でも」
義母とロイたちが戦っていたあのとき、レオナはリュカに毒を受けたらしい。らしい、というのはあまりの早業にいつ毒を受けたかも分かっていなかったからである。気を失っていたレオナが目を覚ますと、心配そうな顔をしたフィーや王様、父、そしてリュカの姿があった。なぜか王様がいたのにもびっくりしたが、それよりリュカがレオナと目が合った途端どこかへ走り出して行ってしまってちょっと傷ついた方が大きい。
こんなところに隠れているのを見ると、叱られるとでも思ったのだろうか。
「僕、ちゃんと逆らわなかったから。そうしたらいろんなことが違っていたかもしれないのに。こんなことには、ならなかったのかもしれないのに。母上だって傷つかなかったかも、しれないのに」
ぽろぽろと泣くリュカを見て、レオナは切なくなった。レオナにとって義母は他人と同然と言っても過言ではないが、リュカにとっては唯一の母親なのだ。そして子どもというのは、何かがおかしいと感じても親を愛せずにはいられない。そしてその親が負うべき責を自分で負いがちだ。
「えーと、なんだっけ、ほら、不可抗力ってやつだったのよ。言っちゃ悪いけれど逆らったところであんたじゃどうしようもなかったってこと。あの人すっかり魔に魅入られたのだって王様が言ってたわ」
歪みが進行することを魔に魅入られたとも言う。
魔法の反響を受けて精神的・肉体的、一説には空間的にも魔法使いは歪んでしまう。しかしなにより、魔法使いとなった者は、力を使ううちにその力に溺れてしまい、倫理や良心・理性と言ったものを置き去りにして欲望に忠実になってしまいがちとなる。特に歪みによる死に近づくにつれてその傾向は強まる。魔法使いの暴走が始まると周囲の諌めや説得など、殆ど耳に入らないと聞く。なまじ力があるだけに大変なことになりやすい。そのことを噛み砕いて話すと、公爵になるべく教育を受けている聡い少年は理解してくれた。
「母上は、自分がそんなに長く生きられないって仰ってた。僕にできるだけのことをしてくれようとしたのだと思うんです」
どうやら義母は彼女自身のことをわかっていたらしい。遺す子の事が不安だったのかもしれない。
…曲がったやり方であれ義母はこの子を愛していたのだろう。
「でも、それでお姉さまやあの子が苦しんだ。僕の、ために」
レオナはやれやれと溜息をつく。なぜ子どもというのはこうも背負い込んでしまうものなのか。
「…あんたのせいじゃないわよ。あんたは望んじゃいなかったんだから。私は別にあんたに怒っちゃいないわよ」
毒だって王様が手配してくれたという薬のお陰で後遺症もなく助かることができた。こんなことがあっては婚約者候補から削除は確実だろうが、本当に人脈がある素敵な男性ではあると思う。お陰さまで多少気だるいけれどぴんぴんしている。
「おねえ、さま」
レオナはリュカの涙を指で拭ってやりながら訂正した。
「レオナでいいわよ。…シライに同じこと言ってみなさい、あのこはきっと首を振って構わないって言うか、むしろ謝ってくるんじゃないかしら」
シライはそういう子だ。ナンテスに部屋を追い出される前にもみんなに謝っていた。
「もうお義母様にリュカを操るような力はないわ。・・・あなたは、どうしたいの」
リュカは、首をこくりと傾げた。
「・・・まだ何か希望を持てるほどに、世間を知らないのよね・・・私と一緒に城下町に行く?」
この子はきっと、誰に言われずとも義母の味方をし続けようとするだろう、とレオナは思った。それを止めるようなつもりはないけれど、母に囲われた狭い世界でなくもっと広いところを見て欲しい。自分がいつか飛び出して初めて見た景色のように。
レオナの弟は小さく頷いた。