64.そして
部屋を何故だか追い出された。
「なんだっていうんだか。・・・まさか、な」
フィーは首を傾げた。少しだけ思い当たることがあった。けれど、ナンテスがそんなにシライのことを知っているとは思えない。確かに学生時代、幼馴染である彼は工房にたまにやってきていたけれどそんなにシライと親交があった記憶は彼女には無かった。
「ナンテスさん、話って」
「起き上がらなくていいよ、寝ていて」
ナンテスはにっこりと笑った。シライは落ち着かない気持ちで横になると、ナンテスのくるくるした巻き毛を眺めた。ナンテスはおもむろに言った。
「僕はロイさんが好きと知っているよね」
・・・知っている。シライはこくりと頷いた。まさか兄との仲を取り持てといったりしないだろうかとシライは不安になった。シライは何度か彼に自分の兄はあくまで『兄』だと告げたが聞いてもらえた試しがない。
もっとも、そんなにナンテスと話した記憶は無く、どちらかといえば彼の父がよく店に宝石を運んできたりしていたので親しい。
ナンテスはシライの戸惑いをそこ吹く風と続けた。
「今日、君を見ていてさ・・・僕はなんて覚悟が足りなかったんだろうと思ったんだ」
「か、覚悟ですか」
ナンテスは大きく頷いた。いい人とは知っているのだけれど、どこか芝居がかった人だなあ、とシライは思う。
「ああ。たとえ自分の想いを犠牲にしたって、愛する人が幸せでいて欲しい、幸せにしよう、という覚悟」
その言葉に、ぱちくりとシライは瞬きをした。
ナンテスは続ける。
「フィーが旅立つという話をしたときに、僕はただ嬉しかった。ロイさんがどれだけフィーに心を寄せているか、知っていたから」
彼はフィーを男と、兄を女と信じてやまない。さながら兄は、二人の男の間で揺れるヒロインと言ったところであろうか。兄はともかくフィーはきっとさほど自覚がないだろうけれど。
「卑怯と思う?でも、僕は、ロイさんを愛しているし、だからやっぱり愛されたかった。無私の愛を捧げられるほどに無欲ではいられなかったな。まだまだだよね」
いろいろ複雑なところはあったが、シライは首を振った。それが普通の精神ではないかと思ったから。シライだって、好きな子には好きになって欲しいだろうし、大好きなロイやフィーには自分を好きでいて欲しいと思うしその愛情を独占したい。
シライの様子にナンテスは首を傾げた。
「だって君は、ロイさんのために、あんなことをしたのだろう?それが無私の愛というものでは?」
・・・フィーのためでも、あるけれど。
「そう、ですね。でも僕とあなたでは立場も違いますし、想いの形だって違います」
シライはそう思っている。兄にナンテスが抱く気持ちは、シライもまだ知らない恋という感情。
けれどナンテスは言った。
「ロイさんへの気持ちは、『憧れ』という共通点が僕と君の間にはあると想うけどね。君は、ロイさんやフィーのような細工師に成りたいのだと思ってたけど?」
シライは驚いた。
「知ってたんですか」
「まあね。見てれば分かるよ。
確かにあんな人たちが身近にいたら、細工師に憧れるだろう。君はどうやら才もあるらしいしね。僕らが行ったみたいな芸術の専門校に通っていられるのもそのためなんだろう?
この国で、細工師になるという夢を叶わせたいけれど、ロイを引きとめるわけには行かない。ついて行くのは明らかに足手まといだと君は思っていた。そこで選んだのが養子だ。
確かに、この国で君の周りの平民身分で今、君のような子ども一人増えても平気なくらい経済的に余裕がある人はそんなに多くないし、学生寮だってまだ機能していない。だから君は公爵家の養子になろうと画策した。違う?」
違わない。レオナの家とは知らなかったけれど。
「すごいと思うよ僕は。その身をなげうつほどの覚悟を。
そんなに幼いのに、まだ自立なんて考えられないのが普通なのに、君は選んだ。家族から離れてでも、ロイさんが望むことを知っていたからそれを叶えさせようと」
「・・・」
兄が望むこと。彼にも分かるのだろう。
「彼女が望むのは、どうしたってフィーと共にいること。悔しいけれど、長年彼がフィーに向ける目を見てきたんだ、本当は知っている。この恋は叶いっこないんだって」
ナンテスは胸に手を当てた。
「でもこの思いに偽りないよ。彼女に誰より幸せでいて欲しい。だから僕は彼女の足を踏み出させたい」
シライの目をナンテスは真っ直ぐに見つめた。
「シライ、うちに来ないかい?」
ロイさんの弟だもの、三食作ってくれるならそれだけでいいよ、とナンテスはいたずらっ子のように笑った。
「エルファンド工房の細工師連中と未来の天才細工師に貸しを作るのは悪くない。
養子にきたって勿論構わないけれど、そのままだって全然いい。宝石の勉強だってできる。それは細工師になるんなら必要不可欠だ。どうする?」
びっくりするくらいのよい条件だ。家事は今もやっているし。
シライは、僕とフィー、同じくらい傍にいたいと言ってくれた兄を思い出す。あの瞬間、何か凝り固まっていたものが自分の中でほどけていくのを感じた。だからもう、十分だった。
シライは、
「お願いしたいです」
といった。ナンテスはくしゃり、シライの頭を撫でた。
公爵夫人との戦いの後、大変だった。フィーは回想する。
部屋は実に悲惨な有様になっていた。
高級そうな調度品が見るも無残に破損していたがそういう問題ではない。
ヴィーに続いて訪れた公爵が言葉を失うのも無理は無かったろう。
シライは意識不明の重態、毒にやられたレオナと電撃をまともに受けたナンテスも右に同じだった。公爵家長男はヴィーに昏倒させられているし、公爵夫人は放心状態で膝をついたまま動かない。しかも部屋には、明らかに禍々しい気配を放つ蜘蛛が一匹。
「一体、何が」
苦虫を噛み潰したような表情をして、声を絞り出すように吐き出した公爵に、答えを返したのはナイフを打ち捨てた王様だった。
「・・・魔に魅入られた末の騒ぎだろうな。魔は、あの死んでいる蜘蛛あたりがそうだろう。・・・おそらくこの惨状、ほぼ間違いなくあなたの妻の仕業だ。何をしようとしたかは本人に聞くなり、フィオレンティーノたちに尋ねるなりご随意に。まあ見るからに碌なことではなかろうが」
淡々と述べる王様をフィーは見やった。少し痩せたようだが相変わらずその態度は飄々としている。飛び込んでくるなりこちらが必要としていたことをあっさりこなすあたりがなんだか小憎たらしいが、流石は元神殿騎士隊長といったところか。仮にも公爵夫人にロイが剣を突きつけていたにもかかわらず、王様であるヴィーがあっさりフィーたちに味方するのに問題を感じなくも無い、と少しひねくれたところがあるフィーは思った。
公爵はどう判断するだろうかとリュカとレオナの父である男を見ると、彼はヴィーの言葉を信じたらしい。
「お前が、これをしたというのか」
第三者の背筋の冷えるような、凍てついた目で彼はその妻を見た。
「ああ!あなた違うんです、聞いて」
「何が違う」
底冷えのする声。偽りを許さない糾弾だった。
「確かに私はシライから力を抜き取った。リュカを操ってレオナに毒を飲ませた。・・・魔の、力を借りて」
公爵夫人が話しながらその目から零す涙を、レオナなら憐れみを以って見たかもしれない。けれどフィーは、そう感じることは無かった。ただ愚者のように取り繕わずに己の仕業を告白する女が、公爵の問いに偽りを持って答えないのは彼女が彼を確かに愛しているからなのかもしれないとフィーは感じた。彼女の流す涙の方は・・・そこに悔恨が無い様子を見る限り、あるいは単なる自己憐憫か、同情を誘おうとでもいうのか。彼女は公爵へとふらふらと歩み寄ると、その服に縋った。
「あなたはそれを、私がただレオナへの悪意から行ったとお思いでしょう?確かにそれはそう、でもそれだけじゃない。愛するあなたと私の愛しいリュカが、尊い血を持つあの子が公爵家の長としてこれから立つのにまったく恥じないだけの力を手にするためにやったのよ。…そう、私には魔法の才があった!けれどこの力はあの子には受け継がれなかったし、精霊国では術師になった方が遥かによい。ある日魔が言ったのよ、お前の子を幸せにしてやりたいかい?って…だから私、」
「黙れ!」
凄まじい恫喝だった。思わず身が竦むほどの。話しながらどこか恍惚とした様子の公爵夫人は公爵にかけた手を、火に触れたように放した。
「あ、あなた・・・?」
「もう、いい…幸せを望んだのは、だれのものでもなくお前の幸せだろう、リジア」
その言葉に、公爵夫人は身を震わすと、ますます慟哭した。まるで、赤子のような泣き方だった。厚く塗られた化粧は剥げ、ひどい顔だった。
それを相変わらず冷めた眼で、けれど先程よりわずかに同情を孕んで公爵は眺めた。
「魔女であることを隠していたことに気付かなかったのは私の落ち度だ。許そう。ただ、あの子らを、リュカを、レオナを理由にするな。平民の無関係な者を、巻き添えにしたことも許されはしない」
彼はつかつかとレオナやリュカの傍によると、硬直して事態を伺っていた使用人達に声をかけた。ちなみにシライは、公爵たちの会話にフィーが気取られている間にロイが近づいて行ってなにやらこっそりと手当てしていた。
「この子らを別室に運び出せ!至急慰術師を呼んで手当てさせろ・・・妻も、ひとまずどこか落ち着くところへ連れて行け」
「はい!」
率先して動いたのは一人のレオナ付きのメイドだった。他の者も慌てて動き出す。
ばたばたと使用人が入ってきて、出て行って。
取り残されたのは、公爵と王と、フィーと、シライの頭をそっと抱えて何かの術具を当てているロイ。
「・・・王よ。あなたは妻の告白をお聞きになった。・・・裁きますか、貴方の『ご友人』であるというフィオレンティーノとどうやらその縁者をこの騒ぎに巻き込んだ妻を、忌まわしい魔女として」
あげられた公爵の声は平だった。何かを諦めるように、そして公爵夫人よりずっと、何かを悔いるように。王はといえば、蜘蛛の方に寄って行って興味深げに突いていた。構わず公爵は続けた。
「私は一度、燃えるような恋をしました」
まだそれほどの年では無かろうに、そこそこ整った顔立ちの公爵の髪には白い毛も混じっている。その彼の言った脈絡のない言葉は、どこか人を寄せ付けない様子の公爵から発せられるのに似合わない言葉だった。ただ、否定させないような実感が込められていたから誰も冗談とも取らずに公爵を見つめる。
「我が公爵家の、次期公爵とすでに定まった矢先のことでした。私には婚約者だって既にいた。それなのに町の花売りの少女に恋をした。・・・実に愚かと思うでしょうね、実際私も何度悔いたか知れない。けれど、私は何度でも彼女と出会う選択をするでしょう。それほどに愛していた」
公爵のどこか遠い目は、その少女を思い描いてのものであろうか?ふとフィーはレオナの言葉を思い出した。
「…貴方は、レオナを、いやその母だって放置していたのでは?」
思わず尋ねる。公爵はいきなり声をかけたフィーに驚いたようだが、答えるように頷いた。
「そうだな、放置せざるをえなかった、というのが正しい。何度だって探した。でも見つからなかったのだ。
私は彼女を、娼婦として買ったのではなかった。互いに恋をしたと今も信じている。彼女を妻にするつもりだった。親だって説得してみせるつもりだった。
そうでなければ地位を捨てるのだって厭わなかった。ただ、そんな矢先に彼女の方から突然姿をくらましたんだ。子どもが出来ていたことすら、知らなかった。情けない話だが。知っていれば・・・いや、こんな仮定の話は無益だな。
それ以来失恋を癒すように私に残された公爵という地位を全うするように必死になった。
けれど彼女を、忘れることはどうしてもできなかった。気付けば捜索の手を伸ばしていたことがいったい何度あったか。しかし足取りすら、つかめなかった・・・ようやくの思いで見つけたのは、彼女が死んだ後だった。初めて会ったとき、我が娘の向けてきた目は、忘れられない。激情の詰まった目・・・父親に向ける目でなかったことは確かだ」
フィーはふと、あるいは公爵とレオナはすれ違っていただけだったのかもしれない、と思った。決定的に、どうしようもなく。もし、などと思うのは公爵の言うように無益だが、人は何度ももし、と思うに違いない。後悔のない人生など存在しない限りは。
公爵は再び王に向けて話し始めた。
「妻は、そんなレオナを拾ってきてからの私をずっと見てきました。妻を愛していると信じるときもありましたよ、けれどそれはレオナの母に向けたようなものとは比べ物にならなかった。それを、そんな私の心情をいつもリジアは感じていたのを知りながら目を逸らし続けました。
レオナの母が亡くなったと知ったとき以来もう全てどうでもよくなりつつあった。けれどあの娘のことは・・・レオナは、幸せにしたかった。貴方に嫁がせてやりたかった。これ以上の相手はいないと思いましたからね、自分は自由な恋愛を求めながら何を、と仰るかもしれませんが貴方が相手で不幸になる女性はいないでしょうし」
「どうかな?買いかぶりだと思うが」
蜘蛛の口を開けてなにやら作業をしながらヴィーは呟いた。・・・公爵はソラのことを知らないのだろうか。
「そうでしょうか。まあ、今となってはそんなことを言えた立場ではなくなりましたが。
…さてここまでお話すれば、王、お分かりでしょう。妻が魔に魂を売ってあんなことをしたのは、私に責がある、と」
ヴィーは顔を上げて公爵を見つめた。
「ほう。貴方はてっきり奥方を愛されていないのかと思ったが庇うか」
「・・・レオナの母であった人への想いを妻のリジアに向けた感情が越すことはない。けれど、苦しみながらリジアは私を愛し続けた。本来その刃を受けるべきは私であったのに、精神的に追い詰められてなお私にそれを向けようとしなかった」
「あなたに向けられるそれは狂ったような、愛であったとしても?」
公爵夫人を愛した、と?
「ええ。狂ってまで私を愛した妻を、私も愛していたようです。こんな昔語りをするくらいですから。
・・・妻をあそこまで歪めたのは、噂に聞く魔法の行使でなく何よりも私自身であったと思います。責は私が受けましょう」
「・・・フィー、ロイ、どうだ?」
王様は、こちらに顔を向けた。
フィーとロイは顔を見合わせた。フィーが口火を切った。
「例えあなたに要因があったとしても彼女は酷いことをした、と思うよ。シライの気持ちを利用し、リュカを操り、レオナを毒した。正直に言えば許すべきではないと思う。
けれど、シライなら、今の話を聞いて元は僕が望んだことだし、とか言って、下手したら死んでいただろうに全て許してしまうだろうな。
私が唯一つ言うことがあるとすれば二度と関わってくれるな、ということだが・・・。関わりたくても無理だろうな、魔は死んだし、実際公爵夫人は、魔法を使った代償である歪みが相当進んでいてその命はもう長くないと私は思う」
それこそが、そのまま罰となるだろうとフィーは思った。
「・・・僕もほぼ同意見。ただもしシライが死ぬようなことがあったら、あの人を殺していただろう。そして誰が手を下さずとも僕が公爵家そのものを潰していただろうね。シライは幸い生きている。・・・よかったね」
ロイの纏う空気は冷たい。
「だ、そうだ。私が口を出すことではないな」
「王…」
公爵が何か言いかけたが、そこへばたばたと使用人が一人飛び込んできた。
「公爵様!」
「どうした」
「レオナ様が解毒剤を飲ませるのですが目を覚ましません。どうしたら・・・」
「…おそらくこの蜘蛛の毒だからだろうな。流石に魔にやられた毒というのは特殊であるらしい」
ひょい、と使用人に向かって、試験管のようなものを投げつけながらヴィーは言った。
「これを神官長に渡せ。蜘蛛の毒だ。俺の名前を出せばさっさと薬くらい作るだろう」
「王様…!」
「王よ、感謝します。行って来てくれ」
「はい!」
そしてナンテスやレオナ、リュカが治療を受け、シライが目を覚ますまでの間、ロイはシライの看病をし、フィーは王と公爵におおまかな事情を説明して過ごしていた。
そしてシライが目を覚まし、ナンテスに追い出されて今に至る。
「とりあえず皆無事でよかったな」
フィーは、発声元である向かい側を見やった。そこにはゆったりと椅子に腰掛けたこの国の英雄が一人。
ここはレオナに引っ張って連れて来られた客室である。ロイが公爵夫人に少し話がある、と出て行った後、レオナは彼女自身も公爵家の娘であるにもかかわらず、お茶入れてくるね、と言ってそそくさどこかへ行ってしまった。なんだか変に気を回されている気がする。
そんなわけで二人きりで向き合っていた。なんとなくフィーにはいたたまれない。
ヴィーはその蒼い目で真っ直ぐにフィーを見ているが、フィーは俯き気味にテーブルを眺めて目を逸らしていた。真っ白なテーブルクロスには見事な百合をあしらった刺繍がなされている。眺めのよい部屋で、外で祭りの花火が開いては散っていくのが見えていたが、楽しもうという気にもなれなかった。
「・・・ああ。あんたには感謝してるけど」
一体何故こんなところまで私に会いにやってきたのか、という言葉をフィーは飲み込んだ。今話すべき根本的問いでありながら、聞くべきかなぜか迷った。
「フィオナに会いたくてわざわざここに来たんだが、嬉しくないのかな、その様子からして?」
「な・・・!」
詰まった言葉をまるで読んだように王様は言った。思わず顔を上げると、そこにはいつもの人を食った笑みがある。
「・・・名前で呼ぶな」
からかわれているようで気に食わない。フィーは再びヴィーから目を逸らした。なぜこんなに苛々するのだろうかと彼女は訝った。
「相変わらずだな。・・・なあ、フィー」
「なんだ」
す、とヴィーが立ち上がると回りこんできた。彼は唐突に膝をつく。フィーは目を丸くした。
まるで主に礼を取る騎士のように厳かに、女性に跪く紳士のように流麗に、止める間もなくヴィーはフィーの手をさっと取ると柔らかに口付けた。
「共に旅に出る許しを。私は貴女を守りたい」