63.公爵夫人(4)
「この部屋にフィオレンティーノはいます・・・私の妻と息子、娘に、さらにもう一人の来客がいると聞いていますが」
公爵が静かに言った。形ばかりノックをしてみたが、部屋は沈黙を返すだけ。仕方無さそうに公爵がドアに手をかけると、それは開かなかった。
「・・・鍵、か?あやつめ・・・すみませんが少々お時間をいただけますか、おい、鍵をお持ちしろ」
忌々しそうに公爵は呟いた。
「いや、結構」
しかしそれを止める王の言葉に、公爵は振り返った。王は、興味深げに閉ざされた部屋の扉を眺めていた。
「お待ちになるおつもりで?」
公爵が問うと、王はにやり、と笑った。
「無論、強行突破だ」
キン、とフィーに詰め寄った公爵夫人の扇は打ち落とされた。
「なぜ・・・!?」
フィーの目の前に、銀の一つに束ねられた美しい髪が舞う。フィーは少し呆気にとられて、銀髪の持ち主を見つめた。
「ロイ・・・?」
「うん?」
のんきに返事をする場合でもないだろうに、律儀に彼はフィーに応じた。
「お前は倒れていたはず!先ほども抵抗もしなかった!」
公爵夫人は明らかに動揺している。フィーも同じ事を聞きたいと思った。
「シライに、さらにはフィーにまで伸びる魔手をはたかずに寝こけていられるわけ無いよね」
笑顔が怖い。
「初めの一手で気づかなかった?あるいはその後戦う間に」
ロイはにこりと笑う。彼のどしりとした剣は、公爵夫人の首筋に当てられた。
「貴女の魔法から身を守る術が僕にはあった」
そういえば、確かにナンテスは吹っ飛んでいたけれどロイは無事だったっけ、とフィーは思い出した。
「狸寝入り・・・」
フィーは気付かなかった自分に呆れつつ呟く。・・・それならば、まさかとは思うが。
「ロイ、公爵夫人の持っている石って」
「偽者だけど?」
じゃあ本当にあれはエメラルドか。ロイの用意周到さにもはや溜息しかでない。
「さて、」
ロイは公爵夫人に向き直った。
「どうします?人質がいるのはお互いさまになりましたが」
続くロイの言葉に、今の状態は形勢不利からは多大な進歩だが、新たなる膠着に陥ったに過ぎないことに気付いてフィーは頭を抱えた。
「・・・ロイ、助けてくれたのはありがたいが、今の公爵夫人の相手くらい私だって引き受けられたんだからシライたちをこっそり解放しに行けばよかったのに」
「嘘つき。疲れてるでしょう、相当」
確かにそうだけれど。
公爵夫人の燃えるような視線が痛い。まさかまだロイに何がしかの思い入れがあるのだろうか。
「・・・ロイ。相変わらずの過保護っぷりだな」
ふと響いた懐かしい声に、フィーははっと顔を上げた。そこにあったのは、違えようも無い、懐かしい顔。昨日、言葉を交わしたはずなのに、あれから随分経ってしまったような、そんな気がした。
「ヴィー」
思わず名を呼んだ。流れる黒い髪、深い蒼の目。彼は微笑みで、フィーに応えた。
「使い方も分かってない幼い子どもが刃物を持つのはよくない、そう思わないか、公爵夫妻」
いつの間に入ってきたのか、そしていつの間に事態を収拾したのか。ヴィーは2本の鈍く光るナイフと、気を失ったリュカを抱えて場を俯瞰するように見渡した。
「チェックメイト、かな」
公爵夫人が、へたり、と座り込んだ。
「シライ?」
大好きな、兄の声がする。だからシライは重たい瞼を開けて目を覚ました。
「・・・僕、は」
「もう大丈夫。よかった」
脇を見ると、微笑んだ兄の姿。うっすらとその目が潤んでいるのを見てシライは慌てた。
「あ、あの、どうなって」
見渡すと、住み慣れた工房ではありえない豪華な調度品。ここはどこだろう。
兄は瞬きすると涙を消した。
「今はもう、夜だ。ここは公爵家の一室。
シライの力は、取り戻したよ。ただ無理に引き剥がしたから定着するのに時間がかかって、今までずっとシライは眠ってた。
・・・公爵夫人は、軟禁状態。フィーが公爵夫人の契約相手の魔を屠ったみたいだから、もうたいして悪さもできないだろうし・・・なにより彼女の精神も肉体も歪んでもう長くないらしい。シライ以外にも何人か公爵夫人に力を抜かれたり、使用人でも操られた人間がいたようだ。結構長い年月、魔法を使ってきたんだろうね」
一息に受けた説明を飲み込むと、シライは項垂れる。つまるところ、自分の計画はどうやら駄目になってしまったらしい。
「公爵夫人の養子になろうとしてたって聞いたけど?」
シライを見つめながらかけられた兄の言葉にぴくり、と彼は身を震わせた。
「ごめん・・・」
その通りだ。そう、それが交換条件でシライ側が出した条件だった。
「・・・正直に言って欲しい。僕と兄弟でいるのがいや?それともあの家にいるのが、」
「違う!そんなこと思ったことは無い!」
曇った顔をする兄に向かって、シライは叫んだ。
「お兄ちゃんの弟であることは僕の誇りだし、あの家にいるのは・・・」
声が詰まる。楽しく愉快な日々、やさしい兄とフィー、シライの料理を楽しみにしている、気の置けない職人達。それを厭ったことは一度も無い、けれど。
「いるのは?」
優しく続きを促される。
「ねえ、ロイお兄ちゃん。僕は、邪魔でしょう?」
ぽろぽろ泣きながら、言うまいと思っていたことをついにシライは言った。
ずっと思っていた。フィーがどこかへ行ってしまうなんて話が出る前から、ずっと。兄が、彼にとって妹で、自分にとって姉に当たる存在に恋をしているらしいと気付いて以来、ずっと。自分がいなければ、と。
「・・・もしシライを邪険にして泣かせるような人間がいれば絶対にただではおかないと決めていたけど、まさか自分がそうすることになる、なんてね」
兄は、シライの目を真っ直ぐに見た。大きな空色の瞳に、ぐちゃぐちゃの自分の顔が映った。兄の目にあるのは、自分を心底愛おしく思って慈しむ感情だった。
「シライが邪魔だと思ったことは、一度も無いよ。そう感じさせたんだとしたら僕の落ち度だ。本当に、ごめん」
兄の長い指がシライの涙を拭う。
「だって、お兄ちゃんがフィーについていかないっていうのは僕のせいでしょう・・・」
なおすすり泣きながらシライは言った。
「・・・フィーの傍には居たいよ、勿論。でも、僕は同じくらいシライの傍に居たい。そして、僕は曲がりなりにも工房の店長なんだよ」
そう言って、ロイはシライの涙を拭うと彼を抱きしめた。
「そう思ったから、ここから動かないつもりなだけ。シライは何も悪くない。・・・何も相談せずに、あんなふうに自分を取引対象にするようなことは、もう二度としないで。シライが二度と意識を取り戻さないかもしれない、と思ったときの僕の気持ちが分かるかい?半身が捥がれてしまうように辛かった。君は僕の、唯一の大切な弟なんだから」
「ロイお兄ちゃん・・・」
シライは母が死んで以来久しぶりに盛大に泣こうとしたが、その時。
「シライ!!」
扉を蹴破るように飛び込んで来て、突進するように自分に抱きつく塊があった。
「・・・フィー?」
「馬鹿、シライがよその養子になんかなったら私はロイと天涯二人っきりなんだぞ!それがどんなに辛いか。養子になるなんて嘘と言ってくれ!!」
フィーは本気だ。
「ちょっとフィー?」
兄が悲しげに呟いた。
「私の弟にシライがなるなんて大歓迎だけど、ロイさんとフィーが二人きりになるなんてちょっとねえ」
続いてやってきたレオナの言葉に兄は黙った。
「久しぶりだな、哀れな重度シスター・コンプレックスにブラザー・コンプレックス持ち。弟君、大丈夫か?」
いつか遠目に見た王様までやって来た。
「黙れ」
今度はぴしゃりと兄は言う。
「ロイさんになんて物言いを!!」
「いや、ナンテスさん、この人は一応王様だけど」
シライはやれやれと呟いた。ナンテスさんまでやって来た。おちおち泣けやしない、そう思ってなぜか苦笑いが顔に浮かぶ。
「知っているよ。・・・無事でよかったね、シライ。・・・少し話があるんだけど、いい?」
ナンテスさんに声をかけられ、兄にならともかく、一体彼が自分にどんな話があるのだろう、とシライは思いつつも頷いた。