61.公爵夫人(2)
魔の気配を感じたフィーはレオナの元を離れて、ロイたちの元へと向かった。しかし、見渡してもそれらしい姿はない。どこかに姿を隠しているらしいとフィーは判断した。いるには違いない。なぜなら、使用人たちがこの異常事態に際して現れないからだ。
公爵夫人は、と見ると、何かぶつぶつと呟いている。呪文ではないようだ。
「・・・ナが、あの子が・・・して、・・・私を、愛して・・・ない・・・死ねば・・・殺せば・・・リュカ。石…術、し・・・シライ・・・・・・」
まるでどこか壊れた機械のように、呪い文句を呟いている。彼女の言葉が紡がれるごとに部屋に満ちる不穏さが増していく。今の彼女が魔法を使っている様子はないので、何らかの結界をこの部屋の周りに布いたとしたら、魔、でしかない。
公爵夫人へとロイとナンテスは攻撃を今仕掛けたいだろうに、ただ立っているだけに見える公爵夫人には不思議と隙がないようで、彼らは静かに様子を窺っている。
「フィー、下がっていて」
ロイが横目で、近づいてきたフィーを見て、言った。フィーは首を振った。
「ロイさんの言うとおりだ、フィー」
普段ならロイを一番に引っ込めたがるだろうナンテスまでそんなことを言うのでフィーは苦笑した。
日頃のナンテスなら、そう例えばごろつき相手にフィーとロイとナンテスがいる、という状態なら、彼は崇拝するロイを無理やり下げて、フィーと並ぶことを厭わないだろう。だが、それは余裕で敵を倒せる確信があるからだ。剣の腕の立つナンテスは、現実的に、フィーとロイではフィーの方が実力で遥かに劣ると知っている。さらに言えば、術具を使ったロイ相手にナンテスは負けると分かっている。
彼は一見、騎士道精神と妄想に溢れていようとも、本当の危機に瀕したなら冷静で、男女を区別しない男だ。今の彼は、彼にとって例えどれほど大切な存在であろうとロイを矢面に立たせなければ相手を倒せず、中途半端なフィーの戦力では逆に足手まといになると状況を判断している。さらに女性である公爵夫人に対して2対1を選択している。つまり。
「ロイは彼女が魔女だと知っていたのか?」
フィーはまずロイに尋ねた。朝の騒動も当て気まずい気持ちがほんの少し出て、フィーが思っていたよりそっけなく責めるような口調になってしまう。
「・・・うん。いろいろ、昔あってね」
静かに答えるロイの口ぶりに詮索を嫌う様子を感じて、フィーは尋ねなかった。レオナが言うように、例え自分相手であれ黙っていたいこともきっとあるだろうと思ったから。
「ふうん。…じゃあ、ナンテスは、ロイに彼女が魔女だと聞いたのか?」
そうでなければ彼がこれほど警戒しやしないだろう。フィーの問いに案の定ナンテスは頷いた。
「ああ。この公爵夫人は力のある、魔女だとね。信じがたくとも先ほどの光景を加味しても真実だろう。
・・・フィー、君が加わるならば庇うのに気を回すだけ戦力がそがれる」
少々腹が立つがあながち間違いではない、とフィーは思った。しかし下がる気はない。彼女は黙って、二人が感じ取っていないらしい魔の気配を探り続けた。
と、会話しながらも警戒を怠らなかった3人の視線の延長上にいた魔女、もとい、公爵夫人がゆらり、と近づいてきたので一気に場の緊張が増す。フィーの隣にいる2人の殺気がぴりぴりと肌に痛い。少なくともロイは確実に神経が数本切れるほど怒っているな、とフィーは感じた。
ひたひた迫る歪んだ気配を放つ『魔女』を彼女は眺める。その歪みを不気味と思いつつ、自分も同じ存在となったことを考えると他人事ではない。
フィー自身でさえ感じる、公爵夫人から発せられる魔力の量から言って、相手は結構強いらしい。
「下がれ」
それを勘付いているのだろう、ナンテスは再び言った。声に余裕はない。ロイは視線で訴えている。正直そちらの方が怖い。
だがフィーは頑固に首を振った。あと少しで、魔の居場所が分かりそうなのである。気配は、後方でなく前方にあるのだ。意識をそれに集中しながらナンテスに言った。
「私に魔法はきかない、と親父さんに聞いてないか?」
「・・・聞いたよ。竜の加護だろう?だが今は術力が使えないのではないのか?」
・・・ナンテスは痛いところをつく。もっともだ。正直、現時点で魔法に耐性があるかは一種の賭けだ。
「今は、ええと、別の力がある」
「別の、力?」
「二人とも、後で話して、来る!」
ロイの声に、ナンテスは口を閉じた。
まるで空を舞うようにして、一つステップを踏むと公爵夫人が彼らに迫ってきたからだ。
人間の体にありえない跳躍だった。
ナンテスは目を見張る。
その間にも、ロイさんが直線的に迫る彼女へと爆発系の術具を投げつける。それはそのまま当たるかに見えた。
しかし。
「な!」
空中では不可能であろう動きで、それを公爵夫人はかわした。
次瞬、3人のすぐ目の前に彼女はいた。その顔がナンテスを見上げ、先ほどまでうつむいていて読めなかった表情が見える。それはまるで痴人のように空白であるようでいて、その瞳を見て目を合わせてナンテスはぞっとした。
凝縮したような、暗い憎悪や怒り、嫉妬、悔恨、苦痛、そして、絶望・・・
あらゆる負の感情がつまった『それ』はまさしく魔法使いの歪みの表出、だった。一瞬固まってしまう。扇を携えた右腕を上げて、公爵夫人の赤い唇は弧を描いた。はっとして引こうとして、体に受けた束縛に気付く。目を合わせた一瞬を逃さなかった公爵夫人の魔法をかけられていたのだ。
「石を、頂戴?」
避けられない。
「しま、」
「後ろに飛べ!」
公爵夫人の手がナンテスとロイさんを凪ぐ前に、いつの間にやら彼らを庇うように前に出たフィーが叫んだと思うとその手を前にかざした。
・・・そして文字通り、ナンテスは吹っ飛んだ。
「後ろに飛べと言っただろうが!」
何らかの力を暴発させた張本人はどうやらダメージを受けていないようだ。
「動けなかったんだ!君は周りの人間が陥っている状況を慮る気はないのか!!」
ナンテスはしたたか打った背中を押さえながら叫んだ。
「そうだったのか?」
フィーはきょとんとしている。
「もういい・・・助かったしね。ありがとう」
どうやらフィーの竜の加護は有効であったらしい。そして何かの力があるといったのも、間違いではないようだ。フィーは笑った。
「どういたしまして。・・・それにしても、ロイのほうは動けてたようなんだがな」
「え?」
見れば、ロイさんはすでに戦っていた。空中を舞うように動く魔女相手に、やたらと重そうな装飾をつけた剣を振るっている。あのしなやかな細腕でどうしたらあんなものが使えるのか、というのは愚問だろう。術具で身体能力を補強しているに違いない。
「あれは、・・・あの剣は術具?」
思わずロイさんの無駄のない動きに見惚れながら、ナンテスはフィーに尋ねた。
「ああ、あれ対ラエル用とか言ってた奴だな・・・出来上がってたのか・・・」
「ラエル?」
「いや、なんでもない。手助けしなくていいのか」
フィーの言葉にはっとする。ロイさんの戦う様が如何に美しかろうと見惚れていてどうする、彼女を助けずにして自分の存在意義などない。
「今助けます、ロイさん!」
「ロイ、ナンテス、早めに決着をつけろよー!!・・・やれやれ」
フィーは、走っていくナンテスを見送った。2人いるのだ、魔法使い一人相手ならば大丈夫だろうとフィーは思う。ロイ一人ならば、術具の使用時間の制限などの面から少々不安だったが、ナンテスが頑張るだろう。確かに公爵夫人は結構強い。だがあくまで、結構、だ。
フィーが加勢に来た理由は、ただ一つ。
彼女は顔を上げた。仰々しいシャンデリアの、影。そこから糸をたらす生き物がそこにはいた。糸は公爵夫人へと伸びている。・・・操っている。いや、力を貸しているだけかもしれない。
フィーはようやく探していた魔を見つけたのだ。おそらく、魔力を見ることに慣れていない二人には見えないだろう。魔は、不可視の結界を布いていた。
「蜘蛛、嫌いなんだけどな」
というよりフィーは虫が苦手だった。
派手な赤と黒というなんとも毒々しい色つきをした蜘蛛の目は、水晶玉くらい、生理的嫌悪を催すような長い8本の足にはびっしりとげとげしい毛が生えている。・・・フィーは、ナンテスではないが美しいものが好きと公言して憚らない。彼女の感覚にあの魔は美しいと映らない。うっかり涙が出そうなほど、シャンデリアにしがみついているそれは気持ち悪かった。
深呼吸する。迷う暇はない、早く決着をつけなければならない。シライを、助けなければ。フィーが覚悟を決めてきっと睨みつけると、8つの目が彼女を見返した。さて、どう攻撃したものか。
いきなり義母を相手に始まった攻防に、半ば複雑な気持ちで気をとられながらも、レオナはたまに飛んでくる家具やら瓦礫やら衝撃やらからシライを守っていた。半ば抱きしめるように小さな体を抱え込むと、伝わってくる体温は、殆どなかった。寧ろ。
―――まるで、死んでしまったみたいに冷たい
やってくる悪い予感に首を振る。
「シライ、もうすぐ、もうすぐだから」
ただ呟いたけれど、彼女は続きを言いよどんだ。
・・・もうすぐしたら?
義母は、死ぬだろうか。それが、決着だろうか。
義母は嫌いだ。
レオナに向けるひたすらな無視と悪意と憎悪、反対に弟に向けるひたすらな愛情を彼女は思い出す。この家に来てよかったことなんて一つもない、あの人にあってよかったことなんて一つもない。
辛く当たられるたびにやってくる義母への憎しみに、いつもは、けれど、と声がかかった。彼女の実の母が何をしたのか、レオナは知らない。レオナの実の母へと、信じたくはないが父が義母と結婚しながらも愛を注いだのなら?レオナの母が義母の存在を知りながらそれを見せ付けたのなら?それは、どれくらい気位の高い義母にとって苦しく誇りを傷つけられる出来事だったろう。
レオナは彼女の母本人では勿論ないが、義母にとって夫の愛を奪った憎き女の娘であることは想像できた。おそらくは義母は父を愛するから、そしてある種の誇りゆえに父へ憎しみを向けられないのだろう。父が母の働きかけなく母を盲目的に愛したなどという可能性は、信じたくないのだ。レオナの母が、いやらしい娼婦特有の手管で父を誑かした。そう思うほうが、義母にとってきっと楽なのだ。そして、彼女の実の母は何も語らなかったのだから、レオナは確信を持って違うなんて言えないのだ。そもそも、生きるために、生活をかけて娼婦は男を誘うものだから否定する方が本当は難しい。
でも、義母が魔女なら、滅するべきではないか。
レオナの胸のうちで、彼女自身の悪意の声が囁いた。イオナイアというこの精霊至上の国において、それに疑問の余地などない。義母の正体のためにこの公爵家がどうなろうと、知ったことか。
レオナは歯を食いしばった。
そう、彼女は別に魔法使いに対して何か思うところはない。ただいなくなればいいと思うほど嫌う存在がいなくなる理由に都合がいいというだけで。憎しみ切ることができないから、理由に丁度言いというだけで。
なによりも、フィーだって、魔女だ。
魔法使いだ。だからこそ、魔女だからという理由で、沸きあがる義母への否定を心地よく肯定し、ロイたちが彼女と戦っている現状を喜ぶことなど、決してできない。
フィーにおそらく理由があったように。
正しくない方法であったとしても、魔女となった義母にも理由があったのだ。それは多分、行き過ぎているけれど彼女の息子への愛、だろう。あるいは、父の愛を求めて、だろう。それをきっかけにその後どれほど狂ってしまうくらいに歪んでいったとしても、その出発点が間違っているなんて「好き」という気持ちを知っているレオナには言えない。義母の歪み切った瞳をレオナは見た。
恐怖を抱く一方で、なんて悲しいのか、と義母を憎むレオナですら思った。レオナが居場所を見つけた後も、義母はずっと望む居場所は得ることがなかったのだろう。あの人は私が哀れんだなんて知ったら、どんな顔をするだろうかとレオナは思った。
そんなことをつらつら考えていたので、ロイたちに、義母が傷を受けて呻くたびにレオナは耳を塞ぎたくなった。
しかし、耳は塞げない。両手で抱えているのは、灰色の髪をした頭。・・・レオナはただ、シライのために義母は罰せられるべきなのだと思った。いかに利発で大人びているとはいえ、利用するにはあまりに幼いシライ。レオナにはよく分からないけれど、シライそのもののようなあの石を守るためにロイたちは戦っている。
次第に、戦いのためにこちらに降りかかってくる火の粉も少し収まってきた。義母は明らかに弱っている。もう一押しだろう。
状況的にも精神的にも落ち着きを取り戻して、彼女は、はたと気がついた。
「そうだ、リュカ!!」
あまりの出来事の連続にすっかり忘れていたけれど、義母に連れ去られてしまった彼の姿は見えない。
「なあに、お姉ちゃん?」
「え、リュカ・・・?」
声に振り向けば、彼女の腹違いの弟はなぜかすぐそばにいた。にこ、と笑う。
「無事、だったんだ」
「うん」
にこにこ。
「どうして気付かなかったのかなあ」
レオナはひとまずほっとした。けれど。
ぱちりと瞬きした、少年の目が、笑っていないことに彼女は気付いていない。