60.公爵夫人
「あなた、あのロイさんの弟?」
何度同じ言葉を言われたことだろう。その言葉の裏にあるものについて考え込んだのは幾度だったろう。
美しい銀ではない、灰色の髪。まだ何においても未成熟な自分。
あの兄と、これっぽっちも似ていない。
あるときフィーの作った宝飾細工を届けに行った先の公爵家でかけられた同じその言葉に、またか、と思いながらシライは答えた。
「ええ」
ロイの弟のシライ、です。
「まあそっくりね」
貴婦人は微笑んだ。その言葉に、立ち去ろうとしていた足を止める。
「こちらにいらっしゃいなさいな、少しお話をしましょうよ」
貴婦人は笑って、手招きしたのだった。
「よく来たわね、シライ」
「こんにちは」
シライは最敬礼の姿勢をとって挨拶を終えたあと、目の前に現れた婦人をそろりと見やった。
最初に会ったときと同じ。重たげな厚化粧。微笑んでいるのに笑っていない瞳。紫のドレスの公爵夫人。
「あの、お願いがあってきました。前、お話したとおりの願いです」
開口一番そう言うと、貴婦人の赤い唇はさらに深い笑みを刻んだ。ふわり、と彼女の手の中の扇が揺れる。甘ったるい香水の香りが漂い、少し咽そうになるのをシライはぐっとこらえた。彼女を怒らせては目的が果たせない。
「お願い、ね・・・ふふ、ということは、あの時私が出した条件を呑んでくれるのかしら?シライ」
「・・・はい」
シライは少し間を置いて、しかし頷いた。
「嬉しい。きっといつかそう言ってくれるのではないかと思って待っていた甲斐があったわ。でも、随分急ね」
「今日中、じゃなきゃ駄目なんです」
そうでなければ、間に合わないから。
「あら。何か事情がお有りのようね。まあ、いろいろと平民の方々にも事情はあるのでしょう」
嬉々とした様子の貴婦人は、言葉の割にきっと自分の事情を大して気にかけてすらいないだろうとシライは感じた。彼女にとって自分が彼女の出した条件を受ける気になったほうが重要なのだ。
・・・願いをかなえるにはいつだって代償が必要だ。フィーだって差し出したのだから。シライは深呼吸した。
「・・・では、早速良いかしら?」
「ええ」
シライはこくりと頷いた。
「さあ手を出して」
シライは言われるままに手を差し出す。少し震えている。覚悟していたのに情けないな、と彼は苦笑した。
シライの手を貴婦人がどこかうやうやしげにとった。彼女の口が、術語を繰り始めようとした。
きっと一瞬で済む。シライは目を閉じた。
しかし。
「待った」
声が割って入るとそれを止めた。振り返ると、そこにはしかめっ面のシライのきょうだいの一人である少女が腕を組んで立っている。
「フィー?」
なぜここに、とよく見ると、手には商売用の小箱。腕には、彼女を止めようと引っ張り続ける使用人数名。
・・・大体シライにもなにがあったか想像がついた。
「お下がり」
公爵夫人の一言で、使用人たちは不満げな顔をしたものの大人しく下がっていった。
フィーは公爵夫人に向けて声をかけた。
「おい、ご婦人。ロイに目を向けなくなったと思ったら今度はシライに手を出すとは、ひょっとしてそういった倒錯趣味をお持ちか?結婚したから落ち着いたのではなく、ロイが年食ったから興味が失せただけか?」
フィーを押さえつけようとしていた屋敷の使用人達をさっさと振り払って、ずかずかシライと公爵夫人二人きりの部屋に入り込んできた彼女はシライをすぽりと抱きこんで、公爵夫人から遠ざけた。シライの体が思いがけず弛緩したのを感じ取ったフィーは、公爵夫人を睨みつけた。
「あいにく貴女のようなご貴族の高尚なご趣味に付き合えるほど、シライは図太い神経をしていないんだが、何をしようとしていたんだ?」
「あら。私はただ、その少年と『交換条件』を互いにのもうとしているだけよ」
しらっと貴婦人は言ってのける。しかしその顔には思い通りに進みかけていたことを中断されたことへの不愉快が隠しきれず現れていた。
「交換条件?何か知らないが取引の間違いだろう。未成年者は『取引』に関して代理に立てても主体にはなれん。イオナイアの6か条にあるように」
「お互いに承諾しあっているのだから成立するわよ。金銭の絡まない、個人的な問題なのだから」
「個人的?・・・俺やロイを通さずこそこそやっているのが気に食わない。事情を話せ・・・シライも。どういうこと?」
シライは、ただ首を振った。答えれば、フィーが気にかけないわけがないのだ。その様子を見て、公爵夫人は高笑いをした。
「まあまあ。誰にだって隠しておきたいことはあるんじゃなくって?いくら『兄弟』とはいえ、ねえ、フィオレンティーノさん?」
フィーとシライの血が全くつながっていないことを知っているかのような、いやみったらしいその口調にフィーは何か言いかけてやめた。唇を噛むフィーを見かねて、シライが声を上げようとしたとき、また別の声がした。
「・・・血が繋がっていようがいまいがそんなもんよ。他人同士ならなおさらだけど兄弟だろうと・・・親子だって同じ。全部さらけ出しあって依存しあうのなんて真っ当なやり方じゃないでしょう。あんた、ちょっとはこの子のこと考えてあげたらどうなの、お義母様?」
「レオナ!?っ、貴女何なのです、その言葉遣いは!」
「私は下町育ちだからこっちが自然。これが私だし、この私をみんなは受け入れてくれたもの」
「はしたない・・・リュカ、その忌々しい女の手を離しなさい!早く!!」
静かに。
レオナと手を繋いだリュカは首を振った。そしてレオナの手を握り締めた。まるでその新しい温もりを離すまいとするように。
「私たちは仲良しだもの、ねえ、リュカ?」
常にないドレス姿のレオナはいつもどおりに笑った。
フィーとシライは、呆気にとられていた。
「・・・リュカ」
カツカツ、とレオナとリュカのそばへと寄って来た公爵夫人は手を振り上げた。びくり、震える少年の上に、けれどその手をゆったりとのせると婦人は甘い毒のような笑みを浮かべた。
「私の唯一の我が子。誰より愛しい子。分かるでしょう、そんなものと次期公爵であるあなたが今から付き合っているようではこの伝統ある公爵家は廃れてしまうわ。あの人みたいに、問題を起こして欲しくないのよ、リュカ。ねえ、お母様を困らせないで」
「・・・は、い」
リュカがそっと手を外す。その目はいつものように眠たげで、どこか、遠い。
「リュカ・・・」
先程見た弟の目と何か違う気がする、とレオナは違和感を感じたが、離れていく手を見ていることしかできなかった。
「いい子ね・・・さて、シライ」
再び例の笑みを浮かべた公爵夫人に呼ばれてシライは顔を上げる。
「どうするのかしら、するの、しないの?」
「お願い、します」
「シライ!」
「・・・決めたことなんだ、フィー。君みたいに、僕が自分で決めたこと」
「でもお前震えて・・・!」
「うん、情けないよね。ロイお兄ちゃんやフィーならきっとこんなに緊張したり、しないのに」
「そんなこと、」
「さあ、手を出して、シライ。あなたの力を」
「はい」
止める間もなく、繋がれる手。思いがけない速さで公爵夫人は言葉を紡いでいく。尋常でない術力が、その時ざっとその手から、いや、シライの体から流れるように溢れてあたりを満たした。フィーやレオナは力が与える強力な風圧のような圧力に吹き飛ばされそうになって慌てて身をかがめて留まる。その色は。
「緑、だ」
それは深い緑色だった。・・・最近ぼんやりと強大な力の持ち主であるラエルや王以外の力が見えるようになってきて、フィーがロイに感じていた術力の色の気配と同じ。
「ああ、すばらしいわ・・・!見なさいリュカ、この力が全てお前のものになるのよ、この国にも数が少ない術師になれば、あなたは間違いなく安泰だわ。今から回路もあなたに『移植』してあげるからきっと使いこなせる。大丈夫、私のこの力があればあなたを公爵家の中でも一番にしてあげられるわ」
公爵夫人はどこか狂ったようにうっとりと語り続けている。
しかしフィーが聞きとがめたのは一言だけだった。
移植?
フィーは耳を疑った。はじめは公爵夫人が術語を唱えているとき、彼女を術師と思った。しかし術力回路を人から人へ移植するような、理に背くようなその乱暴はまるで。
「く・・・」
呻き声にはっとして思考を中断して顔を上げると、シライが苦悶の表情を浮かべて膝をつこうとするところだった。
「やめ、ろ」
しかし、フィーは声を出すのが精一杯で、動くことが出来なかった。力を、得たのに。圧倒的に奔流する術力に抑えられてしまったように、魔力を引き出すことができず、這うようにして近づこうとするのに、届かない。
シライはやがて気を失ったように倒れてしまった。それでも公爵夫人は手を離そうとしなかった。レオナが悲鳴を上げ、フィーは歯を食いしばって公爵夫人を呪った。
やがて、力が収まると、ようやく呪縛が解けたようにフィーは慌ててシライの元へと駆け寄る。抱え上げるとまるで紙みたいに血の気の引いた真っ白な顔だった。怪我が無いかを確かめ、シライをそっと横たえて自分の上着をかけるとフィーは公爵夫人に掴みかかった。
「・・・あんた、なんてことをするんだ!!」
フィーは大声で問い詰めた。
しかし、公爵夫人はフィーに頓着しない。彼女はただ、シライと繋いでいた自分の手を見つめていた。光はそこに向かって収束しており、中心にあるのは。
「・・・石?」
まるで、脈打つような、生き生きと光り輝く石。フィーはそれをシライの魂のようだと思った。恍惚とした顔で、公爵夫人はそれを彼女の息子へと差し出した。
「綺麗でしょう?これがあなたの力の核となるの。さあ、飲み込んで」
それを受け取った少年が石を見つめる。
飲み込もうと、少年は瞳を閉じた。が。
ひゅ。
石はまるで何かにくっついて引き寄せられるように、少年の手を離れて飛び上がった。その先にいるのは、青い石の嵌った指輪を身に付けた青年一人。彼はぱしり、と緑に輝く石を受け止めると公爵夫人へと向き直った。
「そんなことをしても力は得られない。前に貴女が私に同じことをしでかそうとした時に、確かにそう申し上げたはずですよね、公爵夫人」
白銀の髪と水色の瞳のすらりとした青年は王都に暮らすものなら違えようもない美麗なその顔を、今は無表情にして公爵夫人を見つめていた。
「ロイナス・エルファンド・・・」
公爵夫人の血走った目が青年に向けられる。
「お久しぶりです。・・・どうやら、私の兄弟たちが随分と世話になったようで。十分、お返しはして差し上げましょう」
ロイは、微笑んで、しかし非常に硬い声で答えた。
「ロイ。遅いぞ」
「そうです、ロイさん。シライ、倒れちゃったじゃないですか!」
怒り顔のフィーと半泣きのレオナはロイを見るなりそう言った。
「いや、フィーにもう一人のお嬢さん。遅いも何もロイさんは来る予定ではなかったのでは」
後ろから相変わらず地に足のついていない足取りで現れたナンテスがひょっこりと現れる。
「ごめん」
ロイは苦笑して二人にそう答えた。
「そこで素直に謝る貴女はやっぱり素敵だ・・・」
「そこで意見を翻す君はやっぱりどうかしてるよ・・・勝算は?」
「ロイさんが隣にいて僕が負けるわけがない」
じゃらりとロイは術具を備え、ナンテスは彼の愛剣をすらりと抜いた。
「いきなり二人ともどうしたの?」
レオナが困惑したように二人に問いかける。なぜなら二人の先には、丸腰の公爵夫人が一人で立っているだけ。どこか不気味な気配は漂うものの、たかだか淑女一人に対する構えとしては物騒だし、やけに緊張感に満ちている。
問いかけに答えることなく、対峙する双方は無言で隙を窺っている様子だった。
「・・・レオナ」
「フィー?」
「あれは、魔女だ」
「え?」
「シライを頼む」
「え、ええ?フィーは!?」
「私も行く・・・魔が、来る」