59.祭り最終日(4)
フィーは部屋で荷物を片付けていたが、ふと、届ける予定の細工で一つ届けていないものがあるのに気がついた。宛先を見て彼女は顔を顰めた。
相手はとある女性だ。
数年前になるか、今はシライの通っている学校へとフィーやロイが通っていた頃、嫌にロイに固執していた教師がいた。
そこそこ整った顔立ちのおしとやかな女性だったが、どこか妙に偏執的なところがあってロイの方は彼女を嫌っており、卒業した後はその女性がやけに店にやってきたり、ロイに細工を届けるように言ったりして困らされたものだ。そこそこに身分はある女性で、フィーとロイが在学中にどこかの貴族と結婚した。
彼女のロイへの執着は随分落ち着いたものの、どうやらフィーの細工は気に入ったようでこのように時々注文が入る。お得意さまの一人ではあるが、フィーとしては正直あまり好きな客ではない。ロイの容姿に惹かれて半ば信者でもあるがごとく付きまとう輩はよくいる。だが、あの教師はそのように単純にロイの容姿だけを目当てにするのではなく、なんというか。
彼女のロイへ向ける視線に含まれる何かをフィーは好きではなかった。良い感じがしなかったのは確かだ、まるで何かを見透かすようなあの目。
細工を届けるのはいつものように他の誰かに頼もうかと思ったもののなんとなく工房に顔を出し辛かった。顔を合わせるなら、黙ってはいられない。今晩、彼らには話すつもりだった。それまでは。
届け物の期限が今日づけなのを見て溜息をつくと、フィーは仕方なく自分でそのガーネットと花の細工をあしらった首飾りを届けることに決めた。
「あれ、フィー」
エルファンド工房にやってきたナンテスは驚いた。2階の窓から半ば身を乗り出しているのは間違いなく、彼の愛しき人を巡るライバルであり友でもあるフィオレンティーノ。
「ナンテス」
窓枠に手をかけてそこにひっかかるようにした後、まるで猫のようにしなやかな動きで往来に飛び降りるとフィーはとび色の目を煌かせて笑った。陽気なことだ。
「うわ、久しぶりだな。なんだ、ロイを祭りに誘いにでも来たのか」
「まあ、そんなところ」
「そっか。まあ応援はしてるよ」
ナンテスはふわり微笑んだフィーを眺めて瞬いた。会うたびに、フィーが段々と女々しくなっていくような気がするのだ。あれだけ美しく仕草の一つ一つがたおやかで無駄のないロイさんの傍にいる影響だろうか。やはりあの人はすごい、とナンテスは思う。周囲に影響を与えずには居れない、あの、
「……あのさ。この間だが、悪いことをした」
ロイについての思考の渦に巻き込まれようかというときに、目の前のフィーが表情をいっぺんに曇らしてふかぶかと頭を下げたので、ナンテスは首を振って見せた。
「記憶が、戻ったのか。なんてことない。むしろ僕の父はお陰で助かったわけだし、感謝しているよ。ありがとう」
ガラスはまた嵌めればいい。買えるものなら贖える、けれど命は違う。店を襲ったという闇である少女の仲間である魔法使いの青年は、昨日の祭りで英雄たるこの国の王と互角といえる戦いをした上に王都を潰すだけの力を見せた。そんな人間から九死に一生を得たのだから、謝られることなどない。
ロイに会うことに気をとられて、忘れていた父からの頼まれごとをナンテスは思い出した。
「そうだ。父が、もしフィーが事件を思い出しているようならお礼にこれをやると」
「! くれるのか」
タイガー・アイを数珠繋ぎにした腕輪を取り出して差し出す。なぜか、今の彼女の腕にしっくりとこの虎の目石は嵌る気がした。
「うん。ロイさんに力は入れてもらって。そしたらかなり強い術具になるよ。父はこれを、餞、って言ってたけど」
ナンテスは分かっていた。石を扱う家の息子なのだから、昨日のことに関する噂だけで、一応は短くない付き合いのフィーが何をしでかす気なのか分かった。
フィーは嬉しそうに受け取りながら顰め面をするという器用なことをやらかした。
「行くの?」
彼女は首肯した。
「ああ。相変わらずロイさえいなければお前は鋭い……。明日行くよ」
「相変わらず誰に構うことなくフィーって即断即行だね……。
そんな猪突猛進気味の刺激に満ちた行動ばかりとる君に帰ってきて欲しいような、欲しくないような、なんとも複雑な気分だ」
学生時代をナンテスは思い出す。フィーという人間は、いつも冷笑気味に一歩引いた態度で世間に接するくせに、時に驚くほど熱くなって周りの言うことも聞かず何かをしでかすことがあった。今のフィーは熱くなっているのだろう、おそらくは。
……そう言えばいつしか疲れた顔をしたロイさんに君とフィーは変なところが似ているよね、といわれたけれどあれはどういう意味だったのだろうか。ロイさんの言葉の一言一句は胸に刻んでいるけれど分からないこともあったな。そうそう、
「旅人には無事に帰って来いと告げて見送るものだろう?」
フィーが苦笑して言うので、またもやナンテスは現実に引き戻される。ああ、見ること聞くこと全てがあの美しい人に繋がって困る、とナンテスは思いつつも答える。
「旅先でロイさんほどとは行かなくとも心惹かれるような異国情緒に溢れた女性に出会うかもしれないだろう。そしたらここに帰ってくる気なんてなくなるだろうさ。そんなときも遠慮することはない、フィー、ロイさんのことだけは任してくれ!」
そういうと、いつもなら何かしら反駁するはずの彼はふ、と微笑んだ。それにナンテスは、違和感を感じた。
「はは、そうかもしれないな。……ロイのこと頼むよ。シライはいるけど、あれで結構寂しがり屋だからさ、遊びに来てやってくれ」
「……フィー?」
「悪い。届け物に行くところだから、じゃあな。ロイに会ったらそう伝えといて」
そう言って、フィーは駆けて行く。
「なんだか、な」
フィーを暫く見送ったあと、ナンテスはエルファンド工房の裏口に向かった。
……まさか想い人とドアを開けた瞬間激突しようとはこのときの彼は知らない。
「こんなときに朝帰りとは、よくもまあ」
こちらを見もせず、どちらかといえば父と腹違いの弟に向けられた、その呆れた口調に透ける嬉しそうな響きにレオナは心底うんざりとした。この人はどうして私をいたぶろうというときにはこんなにも楽しそうなのだろうか?フィー達と飲み明かしていたら帰る頃には白々と夜も明けようという頃だった。
「……申し訳ございません、要らぬ『お気遣い』をさせてしまって。私のほうは至って健康、健やかな乙女そのものですわ。もっとも少々眠たいですけれど」
答える口調も皮肉な調子になろうというものだ。それに対して義母はこんなことを言った。
「白々しい、お聞きになって? ここに一角獣でもおりましたら鼻で笑うでしょうよ」
レオナは表情だけは取り繕って澄ましつつ、内心で、べ、と舌を出した。
義母のような、こういう人を下世話というのだろう。実際人品など貴族も平民もない、よほどエルファンド工房の人たちのほうに品があることからも明らかだ。
朝帰りのレオナを揃って向かえたのは、嫌味なほど整えられた風采の使用人の面々、そして一睡もしていないらしい血走った眼をした父と、よく眠ったらしい義母、相変わらず顔色の悪い弟だった。眠かったのでなにもかも昼からにして欲しいと言って、レオナは眠った。
そして起きたらこの調子。鬼の首をとったかのような顔をする義母、苦々しい顔を続ける父。そもそもここに弟がいるのはどうだろうか、とレオナは思った。情操教育によろしくない。
もう、今は弟に対して思うところはそんなにない。
彼が生まれた頃には、自分ががむしゃらにやってきたことが水に流されたようでいやだった。けれど、フィー達のところで働くようになって、読み書きがあるのもそこそこに知識があるというのも、いいことはあっても少しも無駄にならないと知った。だからもういいのだ。
敢えて弟について思うことを正直に言うならば、少しだけ妬ましく、一方でほんの少しだけ、病弱な彼が心配だった。
義母の彼に向ける関心も、羨ましいと思っていたのがおかしいと思えるくらい、どこか狂気じみていることも最近は気にかかっている。頭はいい子だから、改革志向の王様の下で将来的に平民からの選抜が取り入れられても、勝ち抜いて次期公爵としてやっていけるだけある才気はあると思う。だからお嬢様ながら父と結婚前は教師をしていたという少々やりすぎな義母の教育にも難なくついていく。ただ本当は、シライのような子と遊んだりする時間がこの子には必要なんじゃないだろうか。そう、思えたりもして。
「レオナ、本当に何もなかったのか」
「も、勿論ですわ!」
父の問いに、慌てたように首を縦に振る。
レオナとしては、朝帰りは我が身の潔白を疑わしくした方が馬鹿げた婚約をどうにかできると思ってとった行動である。ただ、いかにも失敗した、という顔を作って取り繕った方が、義母が進んで婚約破棄に動くと思われたのでそのように演じている。
父もこんなことがあれば、王との結婚について強くは言えまい。もしまだ父がこだわるにしてもレオナの顔を知る貴族も幾人か帰りがけに見かけたし、彼らから噂が飛び交えば『傷物』になったかもしれない娘などは王に相応しくないとあちらから願いさげだろう。五月蝿い身内からは、縁を切る声も上がるだろう。
そうなれば願ったり叶ったり、今だからこそできる大失態である。なのに。
「ならばいい」
「えっ」
思わず声を上げてしまってはっとするが、義母はそれどころではない様子だ。
「あ、あなた!?」
追いすがる母に、父が話はもう終わったとばかりに部屋を出て行こうとする足を止めた。
「噂でも立ちましたらいかがなさいますの!! 感謝祭の真っ最中ですのよ、誰かがこの子を見ているに違いないわ」
そうそう! もっと言って欲しい。
「レオナは間違いを起こさなかったという。ならばそうなのだろう。仮に噂が立ったとして、あの王だ、気にしないだろう」
「そんな。それはそうですけれど。こんな振る舞いをする娘は竜の血に認められし王にふさわしくありません」
レオナも初めて、義母と心が一致したように感じた。
父は母にとり合うそぶりも見せない。……それほどまでに、王族との結びつきが欲しいのだろうか、この男は。レオナにはそうとしか見えなかった。
「あなた、あの女はもういないのよ!」
母が父の背中に叫ぶ。あの女? 母のこと、かなあ、とレオナは思う。多分そうだ、その名で呼ばれるのは母だけ。
「……」
父は静かに出て行った。
真っ青な顔をした義母が立ち尽くす。
「……ああ、なんてこと。もう、嫌」
き、と義母の目が真っ直ぐにこちらの目を睨みつけ、レオナは反射的に竦んだ。
「あなたみたいな何にもできないような売女の娘が王に見合うわけないのに。大体あの人の子なのかも疑わしい!」
ざくりと言葉が突き刺さる。
レオナは思う、フィーならば王に見合う。才能と自信に溢れたフィーに比べ私なんか何もない。
いや。
フィーならばこんなとき、なんていうだろう。彼女は私のこと何て言った?
「私は」
レオナが胸を張って義母を見返そうとしたとき、使用人がやってきた。
「奥様、お客さまが」
「来客の予定はないはずでしょう」
いらいらと義母が言う。
「いえ、でもあの方が来たなら通せと以前奥様は仰いました」
「……まさか、シライ!? ああ、ならば行かなくては!」
まるでレオナの存在を忘れたように義母は立ち去って行った。
「シライ、って」
シライ? どういうことだろう。
残されたレオナと弟はなんとなく顔を見合わせる。なんだか、こんなに弟の目を真っ直ぐ見たのは久しぶりだ。どこか眠たげな焦げ茶の目。いつか見た、ロイさんに心酔している男の人にどことなく似ている。義母とは似ていない。
「……行ってみる?」
ぎこちなく笑って手を差し出すと、レオナの弟はその小さな手を無言で差し出してそっと掴んだ。