57.祭り最終日(2)
シライはその日、彼にしては珍しく寝坊してしまった。
起きると昼だったなんて初めてのことで、目が覚めるなり慌てて階段を下りて台所に向かった。歩きながら、やけに室温が高いな、と思う。冬に入ろうという季節なのに。昨日暖炉の火を絶えず燃やし続けた、なんてことはあるまいし。
「あれ」
台所に着くと、その流しにはすでに洗われた調理用具が置かれており、火から下ろされていてもまだぐつぐつ音を立てる鍋からはポタージュの匂いがする。
おそらく兄が料理したのだろう、この様子ではもう食べ始めているに違いない。いつもは一緒に朝食をとるけれど、今日はおそらく、昨日の祭りで疲れた自分を労わって起こしに来ないで先に食べることにしたのだとシライは思う。
「……あれ?」
だが、それにしては食堂から物音一つしない。食器の合わさる音すらしない。不審に思って恐る恐る食堂へと続く扉を開ける。
そしてシライは固まった。
食卓を囲む彼の兄とフィーの二人は、静かに睨みあっていた。食堂で唯一動いているのはスープから立ち上る白い湯気。それ以外は、まるで時間が止まっているかのようだった。立ち止まること、しばし。
「……おはようございます」
「おはよ」「おはよう」
とりあえず声をかけると、ちらりと視線を寄越し、挨拶だけは二人とも律儀に返してくれた。これはいついかなるときも挨拶されたら返すものだ、という亡き母の教育の賜物だ。
……それでもその後は二人ともじっと黙って睨みあいを続けている。多分、何かの議論が平行線を辿ったのだろうとシライは思った。いつもはあっさりどちらかが譲るのに今日は珍しくそうもいかなかったようだ。
時にはこういうこともあるので、シライはすたすたと自分の分のスープを注いで来て構わず食事を始めた。
会話のない食事は味気なくあっという間に終わってしまう。兄の料理は久しぶりだったのに、とシライは残念がった。
一人食器を片付けて帰ってきても、今だにらみ合う二人を放っておくわけにもいかずに内心溜息をつきながら彼は原因を尋ねてみることにした。
「どうしたの、二人とも。スープ冷めちゃうよ?」
「……フィーが、いや、そうだね。先に食事を済ませよう」
「ああ」
食事が優先されてしまった。フィーはいつものようにがつがつと、兄は綺麗に。対照的な二人の食べ方を眺めつつ、シライは食後のお茶を飲みながら考えた。
二人の言い合いの種になりそうなものといえば、昨日の出来事とかかわりが深いに違いないだろう。
昨晩帰ってこなかった猫、もとい魔と契約を交わしたことに関してだろうか。フィーのことだからうっかり魔法を使ってしまったのかもしれない。踊り明かした後に食事処で湯水のごとく使われていたお金のことだろうか。
あるいは、やはり。
「冠……」
シライのもらした呟きに反応して、フィーがぴたり、と動きを止めた。
「ええと、その、げほ」
彼女が咽ながら何か弁明しようとするので、
「とりあえず食べ終わってから聞くよ」
とシライは彼女の言葉を遮った。
「……それで?」
ようやく食べ終わった2人に尋ねると、こんなときでも料理を堪能していたらしい幸せそうなフィーの表情がはっと我に帰った。
「私は明日にここを出て、旅に出ようかと思っている」
「え……?」
旅?明日?
シライは戸惑った。なんて唐突な話だろう。
「そしたらロイが駄目っていうから。この間なんか理由も分からないのに王と共に旅に行けとか言って散々鍛えようとしたくせに」
「旅って、」
いきなりどこに行くつもり、と続けようとしたが兄の反論に打ち消されてしまう。
「……行けなんて言ってないでしょう。あれは行かなくてはならないんだよ、フィー。今度のは目的が違う、しかも一人でなんて無理だ」
真顔だから兄が怒っているのだとシライにも知れた。彼の兄は本当に微笑を絶やさない人だから。
一方フィーは見るからに納得した様子ではなかった。彼女がよくするしかめっ面をしている。
「お前の言うわけの分からぬ目的よりも遥かにましだ。大丈夫だ、どうにかなる。私だって一人で王都を出たことが一度もないわけじゃない」
「……当ても無く、この広い世界からたった一人の人間を見つけ出すのにどれだけの労力がかかると思う?相手が尻尾を見せる気もなければ殆ど不可能だよ」
兄は首を振った。
しかしフィーは言い返した。
「……やってみないと分からないだろう?大体世界は広くとも、魔法を認めてる国なんて限られてる」
そう言えば、五指に満たないほどだったな、とシライは思う。しかしそれを全て周るつもりだろうか。何のためにかは明確だ。フィーは、シライの母の作った冠を取り返しに行くつもりだ。
「魔法立国へ行ってみるとでも?そのコントロールがまだ利かない力で?さっきなんて下手したら家が木っ端微塵だったんだよ?」
「いや、暖めようと思ってな。使ううちに慣れるだろ、術よりよっぽど見込みがある」
「使ううちって」
兄が頭を抱えた。
室温の高さはどうやらフィーが原因だったらしい。この調子では魔力を使いこなせるほどにどれほど魔法を使わなければならないのか。しかもその間にもフィーは『歪んで』いく。兄が頭を抱えてしまうのも無理は無いな、とシライは思った。フィーはどこか、一度吹っ切れると物事に無頓着になる傾向がある。
「フィー。魔法立国に行くとして、魔法使いでも気配に聡い者なら君の術力に容易く勘付く。そうしたらどうなると思う?」
兄の言葉がいつに無く刺々しい。
フィーはそれに静かに答えた。
「よくて実験材料になるか、悪くて灰燼に帰すだろうな。まあ、戦うのが駄目そうならさっさと逃げるさ」
笑い事じゃない。それなのに言いながらへらりと笑って見せるフィーに、兄が怒鳴った。
「戦いも逃亡も、どれだけ魔力を使うことになると思う!? そのたびに君は歪んでしまう!」
「……声を荒げるな、耳が痛い」
「まじめに聞かないといっそ聴力を無くさせて留めるよ?」
「ロイ怖いぞ」
フィーが椅子ごと兄から少し距離をとった。
「あのな、歪むことは魔と契約した時点で覚悟の上だ。力を使う目的で契約したんだ、当然の代償だろう」
「フィー……」
その力は何のために?
分かりきっている。母の、冠を取り返すためだ。
シライは下唇を噛んだ。シライ自身もチットという男に母の遺作が盗まれたことを悔しく思わなかったわけではない。母は誰かの欲を満たすためでなく、多くの誰かを救い、守るものとしてあの冠を手がけたのだから。
それを分かっていたからこそ、フィーが王に憎悪をぶつけていたときも、亡き母の温もりを持つ冠が王に所有されることをシライは受け入れた。だが盗まれたとなれば話は違う。
病に確実に冒されながら、燃えるような眼差しをあの冠に向けていた母の姿をシライは思い出す。血色の良かった肌は青白くこけて、骨のようになった手を動かすさまは鬼気迫るものだったのに酷く美しかった。冠ができたその翌朝シライの母は逝った。満足げな死に顔を、シライは覚えている。
竜細工師として生き、その誇りを持って彼女は死んだのだ。
そう思うことで、シライは母の死を受け入れていった。
その象徴は冠で、それが英雄である王様の頭に嵌り、彼が力強くこの国を守っている姿を見ると母を誇らしくも思った。
それが闇を連れた魔法使いの手に渡ってしまった。彼らに冠がどんな風に扱われるか想像しただけで身の毛がよだった。もしも、闇の時代の支配者の頭にあった冠のように母の冠が穢されてしまうなら、それはシライにとって許せることではない。
だが取り返したい気持ち以上にシライは、無力だった。
自分に力があれば。母の生きているうちに少しでも細工の手ほどきを受けれたなら。自らの幼さと無力を何度呪ったか分からない。
だから、フィーがこの国で嫌悪されてやまない魔の力を得てまで為そうとすることを理解できた。自分だってそうできたなら、フィーのように魔と契約してでも力を望んだだろう。だから共に母の子のように育った、兄のような姉のような存在のフィーのその思いが行動が、嬉しくて羨ましくて、そして、
「ごめん、フィー」
「なんでシライが謝るんだ」
慌てるフィーにそれ以上なんと言っていいか分からずに、シライは目を覆って首を振った。そんなシライの傍まで来て、フィーは何かを口走りながらあたふたとしている。
……彼女は今、こんなに真っ直ぐなのに力を得て歪んでいってしまう。
何でフィーなんだろう、とシライは思った。竜細工師なのも、魔に目をつけられてしまったのも、どうしてフィーなんだろう。
「フィー、行っちゃ、駄目だ」
シライは言ったけれど、彼女が首を横に振ったのが指の隙間から見えた。
「決めたことだから。悪いな、我がままで。……工房に帰ってきたらさ、3倍は働くから許してくれよ、シライ、ロイ」
じゃあ準備があるから、そう言ってフィーは去った。
それを追おうとした兄の足が止まるのをシライは見ていた。止まった理由も知っていた。
自分はどうして何の力にもなれないのだろう。
彼女は一人で行くつもりだ。せめて兄が共に行くのならと思うのに、兄は自分のためにここを離れる気が無い。だからこそフィーを止めているのに彼女は聞かない。以前フィーが王と旅立つ話を聞いたときから、いずれこういうことが起きる日が来ると思っていたけれど、予想していたよりあまりに早かった。
荷物にしかならない自分が、シライは心底嫌だったから少しずつ手を打とうとしていたのに。
兄の手が、項垂れるシライの背をそっと宥めるように撫でる。
「泣いてない」
「……知ってるよ」
それでも彼の兄はその手をどかそうとしなかった。
「どうしたものかな」
途方にくれたような兄のもらした呟きがシライの耳に残った。
そしてシライは一つ覚悟を決めた。