55.それぞれの想い
耳に心地よく緩やかな曲が、ゆったりとあたりを満たしていた。
噴水広場にて噴水の縁に腰掛けて赤色をした月を見上げた一人の男は、静かに笑んだ。果たしてあの月が赤い意味を知る人間はどれほどいるだろう。やがて、この清浄な気配に満ちた国イオナイアすら歪み汚れる日が次第に近づいているなどと、この祭りに浮かれている人間達は思いもしないに違いない。人に混じって自分という魔の存在に気がつかないのと同じに。これが精霊国とは笑わせる、昔はこんなではなかったのに、と彼は思う。今よりはるか昔、この国の人間はそのほとんどが、神殿に関係を持たずとも魔を見抜く鋭い目を持っていたものだ。
淡い金の髪に同色の目をした男は、自分のそれよりも深い色を持つ『金の魔』と恐れられる彼の兄を追って、久方ぶりにこの国まで来た。
兄は、魔の世界において屈指の力を持ち、それでいながら、長い間大人しく監禁状態にあった。だが先日、フィオナに会いに行く、と突然言い出して消えてしまった。竜嫌いでも知られる彼の兄が、なぜたかだか一人の人間の為にこの竜を祀る国にわざわざ赴いたのか、なんとも解せない。
今回、『世界を手にするための石』とやらを奪う機会がついにやってきたという噂に踊らされた魔が、そろって大騒ぎしだした隙を縫われた。
その石があるというこの国中に張り巡らされた結界は、多少大雑把ではあるものの、強固で、おそらく上等な魔力を持たない魔ならば結界に触れただけで消し飛ぶに違いないような代物だ。5つの涙の伝承を眉唾物と捉えている魔の方が多いので、いくら石があるといっても命までかけて結界を越え、この国に入ろうとする輩はほとんどいない。…今まではそうだった。
だが今、まだ石は鍵にすらなっていないという。そのため、試す価値はなくは無いと思う魔が多いのも事実。
自分はどうか?
石を誰が奪いに行くかという時点で既にもめていた魔たちを笑いながら、石によって得られるだろう力を浅ましく欲してはいなかったか?
それを男は否定できなかった。力、それは彼が心から望んでやまぬものだったから。ふと、いつも余裕げに彼を見下してくる兄の姿が思い出されて、彼は苦い顔をした。憧れずにはいられない。あれほどの力があればヴィエロア王が王都の結界を強めたときに耐え切れずその外へ逃げ出すようなことはしなかったろうにと彼は思う。彼は結界の中にいる苦痛のあまり結局退散してしまった。そもそもあの瞬間に消え去った魔も相当いたようだが。
…あの後、王都からさほど離れていない場所で様子を窺っていると隕石が王都を襲った。その大きさに王都が無くなるのではないかという危惧を持たせるそれはしかし、王都へ届こうかという瞬間、粉々に砕かれた。
何が起こったのか。
王の結界の力が弱まった様を見て、訝りながら兄を探す傍らに王都の人間らの会話を拾っているとようやく事態が掴めて来た。
さざめくかれらの噂によると、王は冠と石を失ったという。しかしこの王都を賊が落とした隕石から守り、精霊に臆することなく立ち向かい認められたヴィエロアを、彼らは変わらず王と慕っているようだった。そもそも、男としてはかの石がいまだこの国にあるのを感知していたので、あとは唯一失われた冠を細工師が新しく作れば済む話のように思われた。遠からずこの騒ぎは収束するだろう。
しかし。
「次の冠ができるまで、ヴィエロアは果たして耐え切れるかな」
男は独り言を漏らした。
ヴィエロアは闘技場にて倒れたという。それは、彼の器にある術力が尽きたために相違ない。王都の結界を強め、その状態で隕石を砕くほどの力を放出したというなら、いくらヴィエロアが人間離れしていようが至極当然の結果と言える。かの身へと注ぐ竜の力で補充すればいい話だが、竜と契約した彼にいくら膨大な竜の力が常に実に流れ続けていようとも、それを同時に国中を覆う結界へと回さなければならないのだ。第二の竜の力の受け皿といえなくもない冠のない現状、力の行使とその補充を同時に行うことはできない。故に彼の器を満たす力を補填するには一時的に結界を解くしかない。石がこの国にある現在それはどれだけ危険な行為かヴィエロアは知っているのだろう。
冠が早々にできなければ、現在自らの器はほぼ空の状態のままに竜から彼へと流れ込む力を国全て覆う結界の維持にまわしているらしいヴィエロアの身は危うい。
さらに言えば、例えば隕石を砕くというような過剰な力の行使は、下手をすると器から力を放つための回路を壊す上に、器の持ち主の体もその巻き添えになりかねない。ヴィエロア王の術力の回路とて、いくら彼が強いといえどおそらくは無事ではないはずだ。その状態で、結界の維持のため術力を使うことをやめようとしないのは自殺行為に等しい。
この国の王はよほどの自己犠牲の精神に溢れているようだと男は思った。常より他者に構うことなく我が思うままに振舞う魔の一人としては呆れる他ない。あるいはそれが王というものか。
王は、果たしてどうするのだろう。どうなるだろう。
つらつらと考えていると、ふと妙な気配を感じて男は顔を上げた。懐かしさと嫌悪を同時に引き起こす奇妙な感覚が体を駆け巡る。
鋭く辺りを見回した男の目に飛び込んできたのは、彼の兄が好んで取る虎猫の姿。
「兄上」
ぽつりと言葉が漏れる。
わきあがる感情を抑え、男は猫の姿をした兄から目を離し、兄を従えた人間の方へと目を向けた。そして目を見張ることになる。兄を陥落したというのだからよほど匂いやかで豊満な美女なのだろうと思っていた。しかし当ては外れた。よくある魔道師の格好の黒い衣装は仮装のつもりなのか、痩躯に短い髪をした、まるで少年のようなあどけなさすら感じられる一人の人間が、そこにはいた。
「あれが、フィオナか?」
信じられなかった。だがその放つ雰囲気は間違いなく兄と契約を結んだ魔力の濃厚な気配を纏う。あれで、間違いない。
彼が慕う兄の魔力と、彼が嫌う精霊の頂点たる竜の力を混在させる奇妙な存在を男は静かに睨み据えた。
ようやく二人の少女と一匹の猫は噴水前広場にやって来た。噴水のすぐ傍で楽隊が奏でる音楽に合わせて、それを囲むように輪を作った人々がくるくると相手をかえて踊り続けている。今流れる曲は、耳馴染みのいいこの地方に古くから伝わる民族舞踊の定番曲だ。ふくよかな淑女の歌い手が、渋みはあるけれど良く通る声を響かせている。
今宵ばかりは忘れましょう
あなたの罪も私も罪も
今宵ばかりは忘れましょう
あなたの身分私の身分
何者だとて構わない
夜が明け光が差すまでは
あなたも私もおんなじに
尊き竜の勇ましき
イオナイア国の子ども達
さあ臆さずに目の前の
かわいい人の手をとって
踊り明かして忘れましょう
日頃の業も苦しみも
「今宵限りは忘れましょう、貴方に起こったその全て」
フィーはそっと歌詞を呟いて、なにやら思案している様子だった。
「フィー?」
レオナに呼ばれて、フィーの鳶色の目がはっとした。
「なんでもないんだ。…さて、ロイとシライはどこにいるかな」
「そうね、まだ来てないのかしら」
来る途中は見当たらなかった2人を探すうちに、ふと猫が足を止めた。それにフィーとレオナも立ち止まった。
「どうしたの」
「…」
レオナの問いに答えず、フィーにのみ猫は一瞥を投げかけた。それを受けてフィーが頷いたのを見ると猫はさっと噴水の方へと駆け出して行った。
「どうしたのかしら」
「…美人の猫でもいたんだろう。そのうちに戻ってくる」
フィーはどこかそっけなく呟くと、猫の去った方を見ることなくロイとシライを探して首を巡らせた。
「…ん? あれ、ロイたちじゃないか」
「え、どこっ?」
「ほら、あのあたり」
「あ。本当だ、間違いないわ。ロイさん、シライー!!」
フィーが指差す先に、道化師の少年の手を引いた目立つ銀髪の青年がいた。どうやら向こうもフィー達に気付いたらしく、呼びかけるレオナに手を振ってこちらへと近づいて来る。それにつれて、フィーの顔を見つけたときには安堵していた銀髪の青年の顔が曇った。
フィーの目の前にやって来たロイは、彼女の耳飾をなくした耳にそっと指を伸ばして柳眉を顰めた。
「フィー…君まさか」
「…悪かったな、せっかくくれたものを」
「違う、耳飾のことじゃない」
すまなさげに答えるフィーに、真剣な目をしたロイが糾弾するように言う。
「…言いたいことは分かってるよ。せっかくロイのくれた耳飾も忠告も無駄にしたって意味」
「…」
ロイの表情が険しくなる。
「お兄ちゃん?」
「ロイさん、どうしたの」
レオナとシライに構わずロイはフィーを見つめた。見た目には彼女は変わらないけれど大きくその内実は変わってしまっていると彼には分かった。
「…猫は? いないのか。
君から目を離した僕がいけなかった」
俯くロイに、フィーは首を振った。
「元よりはぐれた私が悪いさ、ロイは悪くないだろう。…何よりこうなることは私が選んだんだから」
ロイはフィーの目をじっと見る。そこには揺らぎも歪みもない。
「後悔は?」
「しない」
「そう。…なっちゃったものはしょうがないね。でも頼むから、あまり力を使わないように」
「ああ」
ぽん、とロイがフィーの頭を撫でると、二人はその話題をお仕舞いにしたらしかった。フィーはレオナへ向くと、その手を掴んで踊りの輪へと歩き出した。
「さて、踊ろうか、レオナ」
「ええ!? ちょっとフィー、今のは」
「ほら、早くしないと時間が無くなるぞ?」
「待ってよ、フィー! ああもう」
そうして踊りの輪へと加わりこむ少女達を眺めながら、シライはどこかぼんやりとしている兄を見上げた。猫がいれば猫に尋ねただろうが、ここにはこの兄しか聞く相手がいない。シライは申し訳無く思いつつ兄の思索を遮ることにした。
「お兄ちゃん、フィー、は」
「ああ」
魔女になった、と静かにロイは呟いた。
一方猫は、淡い金髪の男の元へとやって来ていた。
「久しぶりだな、ゼダ」
「兄上。どういうつもりです」
ゼダと呼ばれた男は陽気に笑う猫に向かって顔を顰めた。フィオナの方に向かう途中、この兄に遮られたのだ。
「兄上はまたも人間に肩入れするのですか?失敗に懲りない人だ…しかもあれは貴方が嫌う竜の血が宿る細工師ではありませんか。あんな貧相な女に何故兄上ほどの魔が誑かされたのです?どいてください、あれを葬って兄上の目を覚まして差し上げよう」
ゼダの目は苛立たしげな殺気に満ちている。それを猫はたじろぐことなく真っ直ぐ見返した。
「そうなるとなおさら、どくわけには行かないな」
猫は不穏に輝く金の目を細めてゼダを見つめた。
それだけで、ゼダは動けなくなる。この光景に気付くものがいれば滑稽に思われただろう。だが、一人と一匹の周りを不可視の結界がいつの間にやら囲っていた。そのために、誰にも気付かれないまま、ゼダと猫の間に緊張が走る。猫が発した気迫を受けてぴりぴりとゼダの頬に痛みが走るほどだった。
「…仮にも我の主に向かって酷い言い草だ。主を貶すことは、たとえそれがお前の言葉としても許さない」
「本気ですか。…本気で、貴方は敵対すると? あの竜の味方につくと?」
「阿呆か。竜の奴は嫌いだ。そもそも我は中立の存在だ、忘れたか」
「ですが!」
あの少女と契約を結ぶということがどういうことなのかこの兄が分かっていないはずがない、とゼダは兄を見つめた。
「…主のみ、我の中では例外なのだよ、ゼダ。主が望むなら竜でも闇でも味方することはありうる。…我はあの者に賭ける」
どこか遠い目をする猫のその言葉にゼダは絶句した。
「『赤の時代』が到来するのですよ。貴方が気づいていないわけがない。何故今、そのように不利な賭けを! たかだか一人の少女に」
「…魔の本質は気まぐれなもの。我の気まぐれと思え」
「気まぐれで私よりあの少女を選ぶと。私と対峙すると、そう仰るのですか」
猫はくつくつと笑った。
「まあそうなるかな? 最も主は精霊にも魔にも闇にも味方する気が有るとは思えんがな。そこが面白い、主が、細工師として、新たな王が立ち月の染まるこの時代の竜細工師として、フィオナとして何を選ぶか見ものではないか…そういう訳だ、分かったなら帰れ。主に手を出すものならここで討つ。兄弟のよしみだ、殺しはせんが」
猫はぺろり、と鋭い爪を舐める。
兄の向ける目に、ゼダは戦慄した。
「…分かりました。しかし私はあれを葬るのを諦めるつもりはありません。お忘れなく、我が親愛なる兄よ」
兄の本気を読み取って、悔しげに呟くとゼダは消え去った。
「さらば、我が弟よ。
……当分顔をつき合わせる機会がないといいんだが。あれは何でこの無精の兄に入れ込むか分からぬな」
猫はやれやれと首を振る仕草をする。
「それにしても体を分けるのは疲れる。主の『女神』も一応やって来たようだし戻るか」
うんざりとしたように呟くと、ラエルの分身たる猫はゼダ同様姿を消した。
「フィー、フィーってば!」
「ん?どうしたんだ、レオナ」
フィーの笑顔にいらいらしたのは初めてだ。こんなフィーを見るのは初めてだ。
次の踊りの輪に加わるべく列に並んだその間、フィーはレオナにただただ楽しい話ばかりした。闘技場でいきなり賊に向かって行った訳も、何故あんな路地裏で先ほど倒れていたかも、王とやけに親しい訳も何も語らない。細工のこと宝石のこと、職人達や貴族についての噂話、ロイやシライ、レオナとの思い出話をいつものどこか皮肉気な口調で、けれど楽しそうに語った。いつもなら楽しいと思うはず。それなのにまるで表面を取り繕うような何かを感じてレオナは苛々したのだ。…違う、フィーが何かをただ覆い隠して見せようとはしていないことに対して、悲しかった。
「フィー。何で言ってくれないのよ…」
「何が」
見返してくるフィーの顔はやっぱり笑顔。表情を崩さないフィーにレオナはとうとう切れた。
「フィーが黙っていたいならいいと思ったけど。でももう我慢できないわ。何でそんな作り物の顔をするの、私を遠いところから見るような目をするの! 失礼しょうが!」
その言葉にフィーの顔は苦笑いに変わった。
「…ごめん。楽しまなきゃ損ってレオナは言うしさ、確かにその通りだな、と思って」
「確かにそう言ったけど。…私はフィーに心から楽しんで欲しいのよ、そんなふうに謝って欲しいわけじゃない!」
レオナはいきなりフィーの耳を引っ張った。
「痛いんだけど…」
フィーがレオナのこめる力のあまりの強さに涙目になったがレオナは手加減しなかった。
「これならよく聞こえるでしょう。フィー、一応私たち友達なのよね? 教えてあげるわ、一人で抱え込んで苦しむのなんてちっとも美徳じゃないのよ。特にフィーなんかうまく隠したつもりなんでしょうけどばればれなんだから。そんなに隠されたらむしろ気になってしょうがないじゃないの。
…フィーは私に女だって黙ってたとき、私があなたを嫌うかって気にしたでしょう? 今は一体何を気にしているわけ?
言っとくけどフィーが実は女の子だった以上の衝撃は、あなたが何を言おうと受けない自信があるわよ、私」
レオナは豪快に笑った。
ふとその時、フィーは何で彼女の笑顔が好きか気付いた。その笑顔は、師匠に似ていた。
「吐け」
その優しい脅迫にフィーは結局屈した。
同じ頃、癒術室で一人の青年が目を覚ました。闇の中ですらその黒さの際立つ艶やかな黒髪に、深い海の色をした目。ヴィーである。
「つっ…」
起き上がろうとして、彼は電気が走ったように体を駆け抜けた痛みに呻いた。
「おお。思いの外、早く目覚めたな? 国王」
とりあえず無理にベッドの上で身を起こしたヴィーに、かけられた声は彼が予想していた神官長のものではなかった。
声の方向に目をやったヴィーはしばし押し黙った後、尋ねた。
「…ここは神殿の癒術室で間違いはないよな? 悪趣味な鏡などここに置いてあったか?」
「口はよく回るようで安心したよ」
ヴィーの目の前の、ヴィーと瓜二つの男はにやにやと笑った。自分はこんな感じの悪い笑みは浮かべるはずが無いとヴィーは溜息をついた。
「お前は魔、か。こんなときにやって来るとは…いや、こんな時だからこそか」
ヴィーは痛みを押して立ち上がると、珍しく気の利いた狸爺が傍らに置いて行ったらしい長年の相棒とも言える剣を手にとってふらりと立ち上がった。
「やるか?」
青白い顔をしながらも、目は死んでいないヴィーに、彼と対峙する同じ顔が呆気にとられた。
「その様で精霊に向かったときと同じ選択をするか。死にかけとは思えんな、恐れ入る」
「生き意地が汚いものでね。まだ死ぬ気などないな」
ヴィーは笑ってすら見せる。
どこからこの青年の自信は来るのだかさっぱり分からないのに、戦うにせよこのまま助けず放置するにせよ、なぜだかこの青年は生き延びるのではと魔に思わせる何かがそこにはあった。
「…成程、我の主の心を動かすだけはあるな」
小さく呟いたラエルの言葉は、半ば意識朦朧としたヴィーには届かなかった。
「なんだ?」
「なんでもない。…そう構えるな、と言いたかっただけだ。我は今時分、おそらくお前の味方だ」
「精霊嫌いの魔が、この精霊の国の王の味方を名乗るとは随分と笑えない冗談だ…ん? お前、ひょっとしてフィーに付きまとってた猫、か」
「ほう、腐っても英雄だな、どこぞの抜けた術師とは違うようだ」
魔は面白そうに笑んだ。
「当たり、か。何の用だ、石か、王の座か、それとも俺を殺しに来たか」
「我はそんなものに我は興味が無いと言うに。…全く、お前はお前の祖父の若い頃と顔がそっくりでやり辛い」
「あの狸爺に欠片でも似ていると思うとうんざりするが」
「そっくりだよ…立っていることすら辛いようだから用件を端的に言おう。我は主の命でここにいる」
ヴィーはその言葉に眉を寄せた。
「主に命を受けた、と? お前、フィーと」
「ああ。契約した」
ヴィーは、頭を抱えた。
「…やってくれたな。畜生、俺をだしにしたのか」
「理解が早いな」
魔は笑う。
ヴィーはそんな魔に向かって言った。
「その姿でそれを言うか。…俺の術力の回路が修復し、器に術力が戻るまでお前が成り代わると言うのだろう」
「ご名答」
「できるというのか」
「我は術力を扱えぬが、魔も闇もこの国に寄せつけぬことはできる。あまり我に立ち向かうものなどおらぬからな」
それを証だてようとでも言うのか、ず、と魔から立ち上がる力にヴィーは息を呑んだ。ゆらり、とその力は魔を中心として一瞬で国を覆っていった。
「お前は、何者だ?」
「…今は主から名を受けてラエルと言うな」
おどけて喋るラエルは、それ以上答える気はないらしかった。
「さて。もう結界に回す力を器に戻して構わない。よかったな、ヴィエロア王。死の淵から脱却だ」
「良いわけがあるか!」
ヴィーはぐしゃり、と髪をかき上げた。
「何故怒る?」
分かっているだろうに、あえて魔は問う。
「精霊国の人間なら、自分にとって大事な人間が魔の力に歪んでいくことになるのを喜べると思うか」
「…主が歪むのを厭う、か」
くい、とラエルは首を傾げる。
「当たり前だ!」
ヴィーは声を荒げた。
「ふむ。我は楽しみだがな」
三日月形に口をゆがめる魔を眺めたヴィーは、彼らの嗜好への嫌悪を募らせた。魔は気に入りのものが自分と同じに歪んでいくのが堪らなく好きだと一般にいう。
「…フィーとお前の契約条件は、なんだ」
「極めて良心的だ。主の死後にその肉体を頂く」
魂を取られるわけでも、今肉体のいずれかを代償に捧げるわけでもないということにほっとしつつもヴィーは尋ねた。
「解除、できないのか。俺はこんなことは望まない、一番初めの命を果たさぬうちは可能だと聞いたことがあるが」
「それは即ちお前が死ぬことを主が認めない限り不可ということ。つまり、無理だな」
「だろうな。……フィオナ。くそ、どうにかならないのか!」
ヴィーが声を上げた時。
「話は終わりましたかな?」
扉を開けて、神官長が現れた。
「ああ。大体終わりだ、シオン」
ラエルが神官長に振り返って答えた。
「そうですか、ラエル。ご苦労様」
どこか気心の知れた様子に、ヴィーは訝った。
「先程も感じたんだが、まさか知り合いか」
その言葉に、老人はなんてことのないように頷いた。
「生きていればいろいろとあるものです…それよりヴィエロア、これほど良い申し出に何故悩むのです?」
「…狸、お前の血は何色だ。フィーはどうする」
「私の血は勿論温かみのある赤ですよ、分かり切ったことを聞くものではありませんな」
憤慨したように神官長は鼻を鳴らした。
「フィオレンティーノのことが不安なら、彼の旅する道中、彼が魔法を使わぬよう守ることです。要はお前が生き延びて、彼が歪むことのなきよう常に守ればいい話。命を救われたのだからそれくらいが妥当でしょう」
「道中?」
話についていけずに、ヴィーは顔を顰めた。
「おや、魔に聞いていないのですか。フィオレンティーノは師の冠を盗った人物を追うつもりらしいですよ?」
「な」
反論しようとして、それが可能な力を得たのなら彼女はやりかねないとヴィーは悟った。いや、絶対にそうするだろう。戴冠式の時だって、彼女は実際命懸けだったのだから。
「ついでだからそれに便乗してあなたは石を鍵にして来なさい。せっかく『5つの涙』も揃ったのだし、こうなれば竜の思惑に乗るのも一興でしょう」
すらすらそんなことを述べ、賊の目を欺いて守った『5つの涙』を取り出して見せた祖父を、ヴィーは睨んだ。飄々と神官長は責めるような孫の視線を受け止める。
「いつもの覇気が感じられませんな、ヴィエロア。本当にあなたは今危ういところにいるのですよ。
先程、やれるだけあなたの術力の回路を修復しましたがそれでもずたずただ。このように結界を張り術力を使い続けるのなら治ることは無く、そう時を待たずお前は死ぬのです。
諦めてさっさとその空っぽの器に竜の力を蓄えなさい。
…どれだけ綺麗ごとを叫ぼうと世界は生きて何ぼのものです、生かそうとしてくれる手があるなら迷わず掴みなさい。その手はあなたが生きることこそを望んでくれているのだから。それが振り払われ、生かすはずの人間が死ねばその手の持ち主がどれだけ苦しい人生を辿るか、お前なら想像できるはず。フィオレンティーノの手を掴みなさい。その後すべきことは、感謝を忘れず、差し出した手の持ち主が死地に陥ったときは必ず手を差し伸べる覚悟を持つこと、それ以外にありません」
結局視線を逸らしたのは、ヴィーだった。彼自身死ぬ気が微塵も無くとも、仮にも神官長である祖父がヴィーは今危篤だとそういうのなら間違いないのだろうと彼は思った。それに彼には、祖父がその命を削って自分を生かすために尽力したのだ、ということも分かっていたから。なんだかんだ言って孫馬鹿の彼の祖父は、ヴィーに生きろ、と言っているのだ。要は、それだけなのだ。
「分かった」
歯を食いしばって、ヴィーはそれだけ言うと、神官長の手から5つの石を奪った。
「フィーを守り抜いて、このわけの分からない冠と石の因縁も全て解いて戻って来てやる」
そう呟いて、ばたり、とヴィーはベッドに倒れこんだ。
しかし器に力を入れ始めた所為か、血色が戻り、たてる寝息は健やかと言えた。そっとそれに神官長は毛布をかける。そして、今まで黙りこくっていた魔に歩み寄った。
「…人が悪いですね、ラエル」
「なんのことかな、扉の外で聞き耳を立てていた地獄耳の神官長」
「ばれていましたか。やれやれ腕が落ちたかな。
…人が悪いと言うのはあなたがヴィエロアに『主が歪むのが楽しみだ』と口にしたことですよ」
「魔として当然の言葉だろう」
神官長はこの魔の過去の断片を知っていたから、その言葉を素直に受け取る気にはなれなかった。
「私はてっきり我が孫を試したのかと思いましたがね」
「…さてな」
にやり、と神官長の孫の顔をした魔は笑った。
「いろいろあったのねえ。
それにしても。ねえ、フィーは王様が好きなの?」
「…なぜ、そうなる」
フィーは、魔と契約を結んだ経緯についてレオナに語った。ついでだから端的に冠に纏わる王との間の出来事も、ソラのことはぼかしつつ端的に語っておいた。それを聞き終えたレオナの第一声がそれだった。
「レオナは、私がこの国で忌避される魔女になったことには何か感慨は無いのか」
「フィーはフィーじゃない。違うの?」
けろりとしてレオナは言う。
「そうだけど」
ここまであっさりとそのことを受け入れられるとは思っておらず、フィーはむしろ戸惑った。なんと言うのか、こういうところはレオナは大物ではないのかとフィーは思う。彼女のような人間が公爵になっても、面白かったかもしれない。
「フィーが男になったと言うのでなければ私にとってどうでもいいことなのよ、それより」
どうでもいいのか。
「今大切なのはフィーの気持ちよ。だって、それ次第では、」
レオナは言葉を止めた。まるで何かうっかりと口を滑らしかけたかのように。
「それ次第では?」
「ううん、なんでもない。ともかく好きじゃないの、王様のことは?」
「……だから何故」
「だって、ライバルでもないのに誰か異性に対して同等であって欲しい、なんて普通思う? それにフィーが王様を見る瞳は恋する乙女のものだったわ!」
「そうだったか?」
どんな風にヴィーを見ていたか、自分ではよく分からずフィーは首を傾げた。ヴィーのことをどう思うのか。フィーは考え込んだ。
「そうだな…ヴィーを見るのは夏に海を見ているのに、どこか似ているかな」
「…なんか壮大ね」
「ロイを見るのは昼下がりのゆったりした空を見るのに似ているし、レオナは太陽のようだと思うし、シライは森みたいな」
「…そう。私は、太陽かあ。ありがとう。…って、呆気にとられてる場合じゃないわ」
ようやく並んでいた列は、順番を迎えて次の踊りの輪を組み始めたところだった。輪を作り終えると相手をかえながら踊るので、レオナとフィーも一旦踊ったら一度別れることになる。
レオナはだから矢継ぎ早にフィーに尋ねた。
「なんだか相手を見ていると胸が高鳴ったり、とかしないの」
「目が合うとなんとなく嫌な予感がすることはあったが」
「相手を思うと切なくなったりとか」
「作ると約束している創作のアイディアが沸いてわくわくするな」
「…相手が他の異性と並んでいると嫉妬したり、とか」
「まあ、女好きで有名な男だからな、相変わらずだとは感じるだろうが」
レオナは溜息をついた。
「…フィー」
「なんだ?」
「私は今なんだか、王様と、ついでにロイさんへの同情の気持ちで一杯になった」
「なぜ」
「なぜって……うーん」
輪が出来上がり、レオナとフィーも手を取り合って踊り始めた。考え込んでいたレオナは、顔を上げてフィーと向き合う。
「ねえ、フィー」
「なんだ」
「あのね、私。今日フィーと踊りたいって言ったのは、今日でフィーへの想いに区切をつける為だったの。情けないでしょ、フィーに振られてもまだどこかでうじうじするのが抜けなくって。ずっと好きだったから」
フィーは静かに首を振った。レオナがくるりとターンする。
「ありがとう。もう、大丈夫だからそんな顔しないで。…でもこうやって気持ちを切り替えられるのも、フィーが私の気持ちを受け止めてちゃんと答えてくれて、今はフィーと友達になったから」
レオナは笑う。もうすぐ次の相手と交代だ。
「振られちゃったのは残念だったけど、それは嬉しかったのよ、フィー。ねえ、だからさ。これからもうちょっと、王様やロイさんの気持ちとも向き合ってあげて。私の気持ちに向き合ってくれたように。王様と話し合ったように。あなたの中でいろいろと完結してしまうんじゃなくて。そしてあなた自身の思いに目を背けるんじゃあなくて」
「私は、」
「お願い、ちょっと考えてみてよ、フィー」
ウィンクすると、レオナは次の踊りの相手へと向かって行ってしまった。
「わたし、は」
なぜか今まで考えようとしなかった何かに、レオナの言葉が触れてしまったようでフィーは思考を停止させた。
ロイや、ヴィーの気持ち?
そして、私の気持ち?
だがフィーは、結局考えるのを止めた。
「祭りが終わったら、あいつらとは会わなくなるのだから」
フィーは決めていた。
祭りの終わる日、明後日には、この国を出ようと。