6.帰宅
フィーは工房兼我が家へと帰ってすぐ、手を洗いに行った。そのことはいつも通りの行動だったが、彼女はずいぶん長い時間流水に手をひたしてぼうっとしていた。それを食堂からロイは眺めていた。
これと同じ光景を数週間前にも見た。
あれは、彼女が王冠を巡って王と問答した日の真夜中。
これと同じ光景を数年前にも見た。
その時の彼女は血だらけで、その行為の理由はよく知っていたけれど、今と数週間前は何が原因か分からない。
おそらくは、あの王が何かやらかしたのだろう。気に入らない。
「ロイ兄ちゃん、フィーどうしたんだろう」
小さい弟が心配げに彼女を見守っている。それを見て、こわばった自分の顔が解けた。ああ、これが多分純粋で正しい姿なのに、僕は。
「…シライ、そっとしておいてあげよう」
「でも」
「相変わらずロイさん優しいですねー」
明るい声が響いた。今日はレオナがいる。彼女が仕事から帰ろうとする折に夕食に誘ったから。よくあることだ。基本は、フィーとシライと僕の三人だが、工房の職人やら店子が一緒に食べて行ったり、泊まっていったりすることも多いのでこの家は賑やかだ。
と、レオナがすたすたフィーの元へ行った。
「フィー!
ぼんやりしちゃって一体どうしたっていうわけ? 怪我したの? 相変わらずドジねえ、よくあることじゃない。怪我したんならいつまでも水につけてたら治りはしないんだから、さっさとこっちに来る! あら、怪我じゃないって? じゃあ、何項垂れてんのよ、元気出しなさいよ、ほら、もうご飯よ! みんな待ってるわよ」
止めるまもなく、彼女はフィーのところに行った。実のところ彼女がフィーを好きらしいというのは、みなよく分かっている。知らないのは他人のそうした感情に疎いフィーだけ。
とは言っても直情径行な彼女を快くは思っているらしいが、邪険に扱うのは今のようなときも恐れず彼女が踏み込んでいくからだろう。正直レオナのそんなところが羨ましくもある。
「…レオナか。くたばれ」
前言撤回。フィーの声は地を這うようだった。
「ひ、酷すぎる。悲しいことに慣れてるけどね!」
「フィー、女の子にそれはちょっと言い過ぎ」
咎めると、フィーの虚ろな目はこちらに向いた。
「ああ、ロイ。その目玉を今すぐにくれるなら俺の心は癒される」
「ロイ兄ちゃん、とうとう諦めるの…?」
「諦めないから」
「えー」
「えー、じゃない。フィー。ほら、もう手は十分綺麗だよ?」
彼女の手を、濡れるのもかまわず掴むと抵抗された。
「いやだ。まだ穢れているんだ」
もう、ほんとに何があったんだか。
「大丈夫だから」
しっかりとその手をタオルで包み込むと、しぶしぶといった様子で彼女はそれを受けた。
「フィーってロイには従うよね。これは付き合いの長さなの?」
レオナに問われ、緩く首を振る。それは少し違う。
「フィー。アレクサンドライトは部屋に置いといたよ」
「本当に!? やった! ちょっと行ってくる」
途端にフィーは、落ち込みを消し去って部屋へ飛んでいった。
「うん、やっぱり金づきあいの長さかな」
「利害関係、か。それならレオナ姉ちゃんも頑張ればきっと」
「そうね、でも悲しいわね」
レオナとシライが呟いた。否定は出来ないので黙っていた。
それからしばらくして戻ってきた彼女は、いつも通りだった。笑顔で宝石の礼を言って、僕にお土産の茶葉をくれて、今日うまく取れた契約のことを喜んでいた。
でも、結局何があったか告げなかった。それがなんだか腑に落ちなかった。