54.動き出す
足を半ば引きずるようにして歩くレオナを、ある時から猫が先導してくれるようになった。
「ねえ、フィーの居場所は本当にこっちでいいの?なんだかあんまり来たことの無い方向なんだけど……」
「ミャア」
猫は振り返り、返事をするように一声鳴いた。不思議と、ともかくこの猫についていけばいいのだろうとレオナは感じた。そうして一人と一匹はフィーを求めて歩き続けた。
いつの間にか足を踏み込んでいた、どこか薄暗く、まるでわざと人を惑わそうと言うかのような方向感覚を狂わす道は、ひたすらに進むのにつれて人影がどんどんとまばらになっていく。秋に入ろうかという季節ということもあるが、ふと路地裏から吹きぬけていく風の冷たさにぶるりとレオナは身を震わせた。その風が吹き込んできた先に、猫は進んでいこうとする。レオナはそこで足を止めた。
「なんだか、ここには進みたくない……嫌な感じがする」
「ニャー」
レオナに生じた嫌悪感はそこに漂う不穏な歪みの気配のせい。猫はどこか面白そうな顔で、戸惑うレオナを眺めやって立ち止まった。金の目が赤い月明かりを反射して光る。その瞳になぜか目前にある不穏さと同等の何かを感じてレオナは訝ったが、これはただの猫なのだ、と思い直す。
「ひょっとして、ここにあるのは結界なの? それにしてはなんか禍々しいような気がするんだけど……私はここを通れるのかしら」
その言葉にまるで笑みをもらすような顔をした後、猫は躊躇なく一歩踏み出して『そこ』へ進んだ。途端、その姿が消失する。
「え!?」
思わず後を追うと、不思議なほどするりとその空間は彼女を飲み込んだ。入ってみればそこはもうただの路地の続きにしか感じられない。けれど先ほどは見えなかったものが見える。地に伏して、ぴくりとも動かないそれは、
「フィー!?」
ようやく見つけた少女の名をレオナは叫んだ。フィーの耳にあった魔よけの耳飾がはじけ飛んでしまっていることにレオナは気付かなかった。
一方同じ頃の神殿では、目を覚まさない黒髪の青年を前にして腰掛けた老人が、膝にひじを付いて手を組み合わせて一心に何かを呟き続けていた。癒術室には二人以外の気配は長らく無かった。
しかしいないはずの他者の気配を感じ取って老人はふと顔を上げ、老いてなお鋭さの消えない目で背後を睨みすえた。
「……姿を見せなさい、魔」
「ほう、流石は神官長殿」
金の髪と瞳に褐色の肌をした一人の魔がゆらりと姿を現す。
それを見て、神官長はその目を見開いた。
「イヴォルザーク!?」
「懐かしい響きだな。……しかしその名はもはや古い」
「……まさか、新たな主を得たのですか」
「然り。今の名はラエル、だ」
どこか嬉しげに目を細める魔とは対照的に、神官長は苦々しげに顔を歪めた。
「ならばラエル。またも世の理を曲げようと?あなたの力は人には過ぎる、分かっているはず」
「さてな。長きを経て、我も力を弱めたから大丈夫ではないのか」
おどけた顔で、ラエルと名乗る魔は肩を竦めた。
「それなら喜ばしいのですがね」
そんなことはあり得ないと知る神官長は険しい表情のまま、立ち上がった。
「ここにいらした目当てはなんですかな」
「石だ、と言ったらお前は差し出すかな」
「ここにはありませんよ」
そら惚けた顔をする神官長を魔は見据えた。
「魔の目は欺けぬ」
「……成程」
神官長は懐から5つの輝きを取り出した。
「やはり闇の時代にはあなた方は屍鬼を避けていたに過ぎなかったか。……それにしても、すり替えに気づかぬとは、あの魔法使いの方は余程動転していたのでしょうな」
神官長はチットと言う男を思い出す。今回の騒動の中心にいた赤毛の青年。今頃どこにいるのやら。
「愛しいものが傷つけられたとあってはそうなるものだ」
神官長の言葉を受けて魔は静かに呟いた。
魔が愛を語るとは滑稽だ、と神官長は思ったが口には出さなかった。目の前の魔を煽るのは得策ではない。相手は大の竜嫌いの、魔界の中でも屈指の力を持つ特別な魔だ。今は対立する立場にありながらも神官長と魔は旧知の仲であったから、神官長はこの泰然としている魔の手のつけられなさを知っていた。彼にとって力ずくに石を奪い、今のヴィエロアを殺して去るくらいのことは容易いのだということを、分かっていた。
「この石を渡せば、あなたはヴィエロアを傷つけずに去りますか」
その言葉を耳にしたラエルが思案げにヴィーのほうを見やる。一瞬の緊張が場を満たした。
……しかし、それを崩すように魔は神官長に向き直って笑った。
「冗談だ、我は石など求めはせぬ。それにしてもお前のような人間が孫を持ってそれを可愛がる日が来ようとは。長く生きてみるものだな、北の盗賊の子シオンよ」
どこか親しみすらこめられたその言葉に神官長は力を抜いた。
「……人が悪い。この年になって姿の変わらぬ相変わらずのあなたを目にする日が来ようとは、まったく、長く生きるものではないですな。さて、石に用が無いとは、何をしに来たのですか金の魔よ。昔語りでもしたくなりましたか」
魔は首を振った。
「否。まあ、主の最初の命を受けて来た」
「それは?」
「そこで寝こけている王との成り代わり、だ」
「フィー!! フィーってば! 死んだんならせめてそうだと返事しなさいよ! しっかりして、フィー!」
「…ん?」
レオナが何度も叫ぶ声に起こされて、どこかぼんやりとした様子でフィーは起き上がった。すると涙目のレオナに出くわしてフィーは驚いて後ずさった。
「……っフィーの馬鹿、人が何度も呼ぶのに無視してずんずん歩いて行っちゃうなんてどういうつもりよ。しかもこんなとこで真っ青な顔して倒れこんじゃってるなんて、死んでるのかと思ったじゃない」
「ああ、レオナ、か。……生きてるよ。死んでたら返事は出来ない」
「分かりきってること言ってるんじゃないわよ。ああもう心配して損したわ」
どうやら動転のあまり何を言っていたのか覚えていないらしいレオナが、ぐしぐしと涙を拭うのを見て、
「ごめん」
とフィーは謝った。そのフィーの顔を見上げたレオナが、しかめっ面をした。
「……フィー。何があったの」
「……なんでもないよ」
「なんでもない人はそんな変な顔しないわよ、フィー」
その言葉を聞いて、フィーは安心させるように微笑んだ。
「そんなに私の顔はおかしい?」
「……いや顔はむしろ好み、……違った、表情が変だって言ってるの! 闘技場といいさっきといい!」
レオナの口ぶりに、フィーは今度こそ笑った。
「もう大丈夫。振り回したみたいで悪かった」
そう、大丈夫、思ったよりはなんとも無い。
「……そうなら、いいけど」
座っていた体勢から立ち上がったレオナは、ぱたぱたと黄色のスカートに付いた埃を払った。そんな彼女の膝を見て、フィーは顔を顰めた。乾いてはいるものの、赤い血の痕がそこにはあった。
「レオナ、その足怪我したのか。歩けるか?」
レオナはフィーの心配そうな言葉を受けて苦笑した。
「ちょっとね。大げさに血が出たけどそこまで痛くは無いの。だからもう平気。
そんなことより、フィー。さっさとこんなところ抜け出して噴水前広場に行くわよ、踊ってくれるんでしょう!? 今夜はお祭り、楽しまなきゃ損よ」
何かを振り切るように、レオナは笑うと、フィーの手を引っ張った。フィーはよろめきながら立ち上がって、ふと、ロイもシライもいないことに気が付いた。目の端に猫を捉えたが、視線をずらすとフィーはレオナに尋ねた。
「ロイとシライは?」
「お嬢様方に捕まってたわよ」
「なるほど」
……ロイはともかく、シライは大丈夫だろうか。フィーは少し心配になった。
「まあ、私たちが着くころには着いてるはずでしょ。ちょうどいいじゃない。ほら、フィー。さっさと走る!私を置き去りにしたときの勢いはどこに行ったのよ」
「悪かったって」
苦笑して、急かすレオナと並んでフィーは駆け出した。こうしてレオナと過ごすことは、多分しばらくなくなるだろうなと思うと少し切なかった。
「ロイ様、聞いてくださいな。私最近ロアンという貴族に熱烈な愛の言葉を捧げられておりましたの。けれど、お断りしましたわ、だってロイ様の半分も魅力がない人に、あなたという方を知る乙女なら惹かれる道理はありませんもの」
「そのお気持ち、分かりますわ」
「私など毎晩夢を見るくらいです。あなたが月の光と戯れて青き草原で微笑まれているお姿を」
「まあ、羨ましい。私も絵師に頼んでロイ様の姿を描いていただこうかしら」
「前々からお頼みしているのですけれど、一向に引き受けてくださらないの。ロイ様だってそうですけれど、絵師のほうもとても絵には出来ないと言って」
「そうですわね、額に収まる美しさではないわ。この流れる銀の御髪、空色に煌く瞳……」
「天上の造詣のようですもの」
「地に降りた奇跡ですわ」
むずがゆいを通り越してどこか寒気すら感じながらも、ロイは黙ったまま微笑を絶やさなかった。シライは彼の兄への賛辞に頷きつつも、その様子を気の毒そうに窺っている。兄は、観賞されるように扱われるのを心底嫌っているとシライは知っていた。
「しかも今日と言う日はロイ様の弟君にもお会いできるなんて!」
「優しげな顔立ちなんて本当にそっくり」
「ねえ、シライくん。私の家にいつでも遊びにいらして?いくらでも歓迎しましてよ」
「あら、私の屋敷にも是非」
「そうよ、ロイさんとご一緒に。ああ、二人の並んだ姿を日頃見られたらどんなに嬉しいでしょう」
「……」
終わらないお喋りに、随分前からいちいち応じることを諦めたらしい兄の頬が心なしか強張っているのを見たシライは、子どもの特権を行使することにした。
「ええと、僕の兄をそのように賞賛していただけてとても光栄です。お招きくださったことも、ありがとうございます……でも、僕、今日はもう眠たいな。ねえ、お兄ちゃん」
帰りたいなあ、と眠気が耐えられないように目をこすりながらシライが呟くと、ロイがそっとシライの頭を撫でた。そうしてシライの額に一つキスを落すとき、ロイはシライにしか聞こえない声でありがとう、と囁いた。その後、ようやくこの場を立ち去れる嬉しさからだろう、見蕩れるような笑みを浮かべて彼は言った。
「さて、弟ももう眠る時間です。それにこの場に居りますのも我々だけとなっては、夜風を遮るものもありません。皆さまの大切なお体を冷やされるのも良くありませんし、そろそろお暇させていただきたい」
今宵は仮装して踊る日であるが、女性は殆どが花の精の格好をしている。そんなわけで実に色とりどりの花に囲まれていたロイは、その花々が上げる嘆きの声に構わず一つ流麗な礼をすると、シライの手を引いて踵を返した。
彼にとっての唯一の花を探しに。