53.魔の誘惑
気付けば知らぬ場所へ迷い込んだものらしい。
フィーは行き止まりの道にぶち当たって煩悶した。ここは、一体どのあたりだろう。見回せば、一人だ。いつの間にかはぐれていた。祭りの喧騒が届かぬ裏路地となると迷路と名高いナンテスの親父さんの宝石店のある辺りだろうと彼女は見当をつけ、やれやれと首を振りながら歩き出した。騒がしそうなところに向かえば、そこで人に道を問うことも可能だろう。
王都は馬鹿にならぬ広さを持っており、特に道に迷いやすい自分などは下手に考え事などしながら歩き出すと大変なことになるのに、と、うっかりしていた自身をフィーは笑おうとして、失敗した。ふと目の前に現れたショーウィンドウのガラスに映っていた自分が、随分とひどい顔をしているのを見たからだ。
「はあ」
変わろうと、決めたのになとフィーは溜息する。あの瞬間、ヴィーに思わず八つ当たりしそうになった自分がいた。
師匠が命懸けで作った冠も、この国を、ひいては世界を左右しかねない宝石も、奪われてしまったことへの憤激と、そしてヴィーと民に対する複雑な思いがごちゃごちゃとこみ上げていたから。
その複雑な思いを一つで表すなら、多分、失望だろうか。
一つはヴィーに身勝手な望みを抱いた自分に責がある。彼に抱いたのは同情などと思っていたが、本当は自分と同列にあの人を置いて、同じ高さにいてほしいとフィーは勝手に望んでいたのだ。そんな自分に気付かされてフィーは愕然とした。フィー同様竜に望まれながらも、ただの民としてある高さにヴィーにもいて欲しい、と望んだこと。でも人らしいぎこちなさと脆さをフィーと同じに抱えながら、ヴィーはあの瞬間たとえ強がりでも笑ってそれを超えた。彼が精霊に向けて剣を持って立ったとき、その手がかすかに震えていたのを知っている。がたがたの体だったに違いなかった。それでも立ち向かう勇気を見せた人。失態はあれど、自らを律し民を守り、対峙するものを見据える目。確かにヴィーは、王の器だ。竜細工師に必須と言われる術力すらうまく操れず竜細工師に相応しくない自分と違って。そのためにヴィーにあの瞬間取り残されたような、失望と寂しさを感じたのだ。
もう一つ、冠無くとも王たり得るという彼の言葉。冠無くして王になり得ずと言ってもそれは正しい。不安に駆られる民をいさめる言葉としてそれ以上の言葉も無かろうが、それを他でもないヴィー自身から聞いたことでフィーに生じた複雑な感情の波は否定できない。
そして冠の象徴としての意義しか知らず、其処にかけられた一つの命など知りもしない民の姿に対する思いがあった。
師匠はきっと、名を遺したり栄誉を授かることを決して望まなかっただろう。ひとかけらの感謝すら期待しなかった。ただ彼女は選ばれた細工師として、そして自らの意思でもって彼女自身の命より冠を作ることを優先し、この国に王を立てることでこの国の民が少しでも早く安楽に暮らすことを望んだ。けれど彼女が守ったものが彼女の存在を顧ることは無いということが、フィーは悲しかった。師の遺した美しい冠をまざまざ思い浮かべられる人間が果たしてどのくらい、いるだろう。あまりにも報われない。
でもその想いはそのまま、今や竜細工師となった自分への自己憐憫ともなりうる。
それらの、自分の中に生じた身勝手な思いがフィーにとっては滑稽で、愚かしくて、厭わしかった。
今回、冠と石が奪われたこと、それはやはり所有者の王であるヴィーに責があるのは間違いない。だが、フィーは気付いたのだ、盗人のチットが連れたあの少女はおそらくヴィーの想い人ではないのかと。ソラと言う少女の墓場の前にいたときと同じ顔をしていた彼。この上ない哀切と後悔と、計り知れない愛おしさがこもった顔。思えば、ソラ、と少女のことを呼ぼうとしていたようだった。あれがもし、ソラだとしたら。違ったとしても、彼女を愛した彼ですら見違えてしまうくらいに似ていたなら。
そのために不覚を取った彼を、はたして責められようか。
フィーだって両親や師匠がもし目の前に現れたなら、動揺し、失態を犯して、その上追わずにはいれないだろうと思う。他の何をかなぐり捨ててでも、きっとそうしてしまう。
けれど失態を犯そうと、追いかけようとして彼は止まったのだ。あの少女を傷つけたらしい魔が、主と慕う私を背にして守ろうとしてくれた。
そんな彼に何を言えるだろう。何を、言おうとした?
そうした他者の思いを汲める人間になろうとしながらもまだまだ未熟で、竜細工師としての覚悟も中途半端で、民を想いきれず、いまだ力を満足に扱えない私が、一体何を。
頭を振る。
今はとにかく、師匠の冠を奪われたことが、悔しかった。私はあの場で、何もできなかった。あまりに無力だった。
フィーは立ち止まる。
私に、もし、
それを望むと、つきり、と収まったはずの頭痛が蘇ってきた。何故だか人っ子一人いない薄暗い通りで、フィーはあまりの痛みにうずくまって頭を抱えた。ずきんずきんとこめかみが脈打つのを感じて呻く。頭が割れそうだ、と思う。
「力が、欲しいか」
唐突に、まるでフィーを蠱惑するような声が、空気を歪ませるような響きで耳に忍び込んできた。ぞっとして、力ない動きで顔を上げたフィーの目に飛び込んできたのは、金の髪に不吉に光る金の目をした、褐色の肌の一人の男。
「だ、れだ」
「分からぬか」
くつり、と男は笑った。その顔の歪ませ方に、一匹の獣の姿を思い出す。
「お前は、猫…?」
「ご名答」
満足げに男は頷く。
「あれは分身のようなものだ。あちらは今、レオナと言う少女の傍にいるぞ」
「分身?では、お前は」
「大元だよ、主。これが本来の我の姿だ」
「人型とは驚いたな……では、あの姿は油断を誘うためか?」
猫の姿ならともかくこの姿を一目見れば、高位の魔であることはもはや間違いようも無い。一定の距離を保って男はフィーの前に立ち、警戒するように彼を睨み上げる彼女を面白そうに見下ろした。どうやら、ロイの魔除けは有効らしいと知ってフィーは少し安堵すると、なんとか立ち上がって対峙した。相手はかなり背が高く、結局見下ろされることに変わりは無かったが。
「まあ、いろいろと事情があってな……今はどうでもいいことだ」
話す気はないらしい。
「主、力を欲するか。我と契約するなら少なくとも主の器の片方は制御できるようになろう」
金の目が不気味に光った。ああ、頭が痛い。思考力が鈍ってくるのを感じながらも、フィーは首を振った。
「冗談」
「つれないことを言う。我を従える機会など、滅多に無いぞ?主が我と契約を交わすというなら、無上の快楽、性の転換、他者を翻弄する美貌、尽きぬ力、富、長寿、すべて望むがままだ。しかも死後に主の魂で無く肉体をくれるだけでいいと言うに」
毒のある蜜のような男の声がフィーの思考を侵す。
これが魔か、とフィーは思う。人が誰しも一度は望むだろう欲で釣って代償として相手を喰らう。なるほど、男性となること、そして、力。それらはフィーがどうしようもなく望むものだ。それでも、やめておけ、と言ったロイやヴィーの声が頭に蘇って彼女は首肯しなかった。
「胡散臭いな。上手い話には裏があるって言うだろう」
「ふむ。誘惑では駄目か…大抵の人間は乗ってくれるのだがな、仕方ない、脅迫は気に入らないんだが」
その指が、伸びて来た。
「な」
フィーは立っているのがやっとの力の入らない体を叱咤したが、動かない。ただ、震えた。
「主を傷つけはせぬよ……今は記憶を閉じておけ」
ロイの魔除けを通り抜けてしまったその指はそっとフィーの頭を撫でた。と、頭痛が止み、体に力が戻ってくる。
「何をした?」
魔は笑う。
「冷静に話し合うための準備を。さて」
フィーは身構えた。何を言われるのだろう。
「取引材料は王の命だと言ったら、主よ、どうする?」