43.器の話
「彼はフィー、僕はロイと言います。先程は大変素晴らしい歌をお聞きかせくださってありがとうございました、……ええと、ヒルカさんにキキさんでよかったかな」
「ええ。我々の名まで覚えていただけたとは、光栄です」
詩人のヒルカと小粋な老女のキキは顔のつくりはまったく違うのにとてもよく似た顔で笑った。
あれから、詩人の泊まる宿屋の一室にロイとフィーは招かれた。薄い白いカーテンがかかった窓一つ隔てただけで、祭囃子は随分遠ざかって聞こえ、そのせいか部屋はやけに静かだ。
ロイの髪の銀と詩人の髪の金色が並んだ部屋の中は質素なのにやたら豪華に見えるな、などと思いながら、フィーはロイの隣に腰掛けて、黙って二人の会話の行く先を見守ることにした。取りあえずは彼らの言い分を聞かないことには反論のしようもない。猫に関しては、フィーの足元にうずくまってのんびりと毛づくろいをしている。
「こうして見ていると本当にただの猫ですね」
ロイはそう言いながらも、険しさの取れない顔で猫を見つめている。
「魔というのは実に人を謀る術に長けているものですから……ロイさん、お話をお聞かせ願えますか? 私にはあなたのお連れのフィーさんのことが理解できないのです。なぜ彼は力なくしてこの魔に主たりえるのか」
ヒルカの金髪が、首を傾げる彼の動きに合わせてふわりと揺れた。
「フィーのことですね。……端的に申し上げましょう。今力が見えないようでも、彼は、魔力と術力と2つの力を内包している」
「馬鹿な」
ロイは過日ヴィーに告げた言葉を思い出す。嘘ではないものの、あの時ロイは事実を全て彼に告げたわけではなかった。今から詩人に話すことも黙っていた一つの事情。ヒルカの目がそれに見開かれる。
「事実なんですよ、ヒルカさん」
「ありえません、生まれるときに魔と精霊のどちらに祝されるかにその力は因るはず。魔と精霊が共に一人の人間を祝するなど起こりえません。それらは相反し、反発しあう存在どうしなのだから……万一仮にそうだとすれば今のフィーさんの状態にも納得いきますが」
「何の力もないことに関して?いや、彼には力はあるのです」
「どういう、ことですか」
正負のように対となる力。同じ器に収まらないはずの力。それが術力と魔力である。その容れ物を『器』と呼ぶ。
普通の人はまず、器を持たないものだし、持ったとしてせいぜい一つである。器があり、かつその中に魔力や術力になる大元の本人の生来の『力』があれば、生後にいずれかに祝されて術師か魔法使いになるという。これがいわゆる仮の契約である。祝された本人が自覚を持つにいたって、実際に契約を結ぶかどうかを決める。人間に対する嗜好が異なり、お互いが忌み嫌いあう魔と精霊が共に一人の人間を祝すことはまずないし、仮にあったとしても器の中で相反する力が打ち消しあい、まるで力のないような状態になってしまう。しかしフィーはこれに当てはまらない。
「……フィーには、例外的に受け皿が二つあったようなのです」
かといって、仮に器が二つあったとして、そもそもその両方が生来の本人の『力』で満たされていることなど有り得ないと言っていいのに、とロイは思った。一つの器に納まった力を過ぎれば、人の体など持ちはしないのだから。フィーだって、生来の力の収まった器は一つだけだった。
「その片方を満たすフィー自身の力は精霊の恩恵を受け、もう片方は空のままで本人も周囲も下手をすると生涯もう一つの器の存在に気付かないはずだった」
「ではなぜ」
詩人の問いを聞いて、ロイは猫を見た。
「むしろこちらが聞きたい。なぜ自らの力を与えてまでフィーを主とした、魔よ?」
猫は大きく欠伸をした。まるでロイの言葉になど関心がないといった様子で。ただずっと、猫はフィーから離れる様子がない。ロイは溜息をついた。
「なあ、ただの猫なんじゃないのか」
自らの力に関しては大昔にロイから少し聞いていたこともあり今まで反駁もせず黙っていたフィーが、それだけ呟くと詩人は首を振った。
「それはありえません、証拠に半精霊である私とこのように反発する」
詩人が手を伸ばすと、いきなり猫と詩人の間には青白い火花が激しく散った。フィーはそれを見て息を呑む。
詩人はそっとその手を引いてフィーに向き直った。
「魔でなければこのような反応は起こりえない」
「そうか。なるほど、初めて動物に好かれたと思ったら動物でなかったとは」
フィーは心持しょんぼりしている。
「あなたが今まで動物に嫌われたとしたら、魔の特有の匂いがそれに敏感な彼らを遠ざけていたのかもしれません。……理由は分かりませんがロイさん、フィーさんは魔に力を与えられたとそうおっしゃいましたね。だから彼女は2つの器それぞれに術力と魔力を内包すると、そういうわけなのですね」
ロイは頷く。
それを聞いたヒルカは、むしろ憐れむようにフィーを見た。
「なんとも驚くべきことです。まさかそんな人間がこの世に存在するとは……フィーさん、ひょっとして力を使い辛いのではないですか」
「ああ、そういえば未だに扱いがよく分からない。……今はしかも全く使えないがな」
フィーはまるで自分の力を窺うように、女性にしては少し大きく男性にしては小さいその手を握ったり閉じたりした。
「私など術力を扱うだけでも困難なのです。あなたの場合はなおさら、魔の力など内在するなら区別する面倒が増す分、術師や魔法使いよりもその力を使いこなすのが大変だろうと思います」
フィーはヒルカのその言葉に一瞬呆然とした後、ロイを睨んだ。
「ロイ、お前からその話を聞いた覚えがないのはなぜだ」
「さてね、言わなかったっけ」
ロイはそらとぼけた。
「……お前、俺がそれを理由に術力の訓練を怠らないよう黙っていたな」
「へえ、言ったら何もしないつもりだったの?」
「……」
黙りこむフィーに溜息をつくと、ロイはヒルカに向かって言った。
「まあ、それはいいとして。納得していただけたでしょうか、ヒルカさん」
「ええ。踏み込んだ話を、半ば好奇心から伺ってしまって、申し訳ない」
「構いません、あなたの歌声とフィーへの忠告に関する礼です。……ありがとうございました、私はきっとあの猫が魔とは気付けなかった」
「しかしあなたは」
何か言いかけたヒルカに対して、ロイはそっとその薄い唇に長い人差し指を添えて微笑んだ。ヒルカはロイの表情に、続けようとした言葉を飲み込む。
「さて、フィーのこと、他言無用に願いますね。ご存知のように精霊の頂点たる竜を神とするこの国で、魔力を持つ者と知れればいらぬ反発を招きますから」
そう言うと、ロイは立ち上がってフィーに手を差し出した。
「そろそろお暇しようか、フィー」
彼女はその手を掴んで立ち上がるとヒルカとキキの方に向かって軽く頭を下げた。
「ああ。ヒルカさん、ありがとう。……詩、よかったよ、キキさんとあなたの幸福を願う」
「おやまあ、ありがとう、フィーさん」
キキは嬉しそうな顔をした。
「では私も、あなたとロイさんの幸福も願ってるよ」
「え」
「ふふ」
「……行こうか、フィー」
「あ、ああ」
2人が歩き出すと、半ば忘れられたようであった猫もフィーの後を追って駆け出した。