42.同情と遭遇
「ロイ?」
少年が去った後長いことロイは硬直していたので、フィーが思わず呼びかけるとぎこちなく彼は動き始めた。ようやくフィーのほうを向いたロイは、真っ青な顔をしていた。
「フィー、なんともない?」
ロイはフィーの肩や腕をそっと触って、ふと顔をしかめた。
「見ての通り健康そのものだが。どうしたんだ、先程は固まったりして。……まさかあの少年に惚れたのか」
確かに可愛らしかったな、とフィーは思う。どこかたどたどしくて、地に足がついてなくて、ぼんやり屋台を眺めながら時々驚いてびくりと小さな反応を見せるところなどが。
「そうか、惚れたのか。うん、可愛い少年だったからな、そう言うこともあるんだろう。ナンテスに対するお前の態度を慮っても、同性愛の前途は多難そうだが応援している」
「違うよ」
「なんだ、そうなのか? 驚かせてくれるな、紛らわしい」
「……フィーと話してると、本当色々とどうでもよく感じられて困るね」
少し気が抜けたようにロイは言う。
「貶してるのか?」
「いや。……フィーはそれでいいと思うよ」
ロイはフィーに苦笑してそう言った。そして彼は、どこか真剣な眼で虚空を見つめた。
「王様に少し確認したいことが出来た」
「石のことか?」
「まあそんなところ」
ロイは言葉を濁したが、フィーは追求しなかった。再び始まった詩吟に、彼女は気をとられたからである。
ヴィーについて紡がれるその詩人の歌の中では、前王を追うようにして命を落とした少女のことには一切触れられていない。そこにあるのはヴィーの偉業と功績を讃えるもので、彼の煩悶などまるで何一つ無かったかのようだ。そんな歌を聴いて、詩人の声にぞくぞくと集ってきていた人だかりは揃って誇らしげな顔をしたが、フィーはそれになんとなく居心地の悪さを覚えた。……一人の少女の墓の前に立っていた王様を想った。あの時、それまではどこまでも逞しく不遜と感じられていた彼がとても脆く見えたのをフィーは思い出す。
フィーだって、ヴィーからその過去について聞かされなければ彼のことを何も知らず、集っている他の観衆と同じように良い意味でも悪い意味でもヴィーをただ「王」として見ていただろう。でもヴィーは、王たる資質を持って生まれたにせよ、王として生まれついたわけではない。それをフィーは知っているようで知らなかった。彼と会い、話し、触れるまでは。
フィーは思う。
闇の支配者たる前王を屠り竜の血に認められ王になろうと、ヴィエロアはけして全き存在でなくあくまで「人」である、と。
それなのに彼の偉業に隠れた苦しみはないものとして扱われていくに違いない。
ヴィーがソラに纏わる話を国民に隠したことは確かにその一つの原因ではある。闇の眷属でない存在として埋葬されたソラ。彼が意図的にソラの存在を隠したのは、闇に与したとして彼女が貶されないためだろう。愛した少女の遺骸を火口などでなく海や空に近いあの場所へ葬るために、彼は黙っている必要があったのだ。
けれどもそれ以上に、人というのは一度自らの心の中に築いた理想的な偶像を壊されるのを望みはしないということが大きい。それが、生身の「ヴィエロア自身」が省みられず忘れられていく一番の原因ではある。闇が消えて以降の国民は、偉大な「英雄」で「王」となった彼と言う存在を、自らの柱と誇りにすることで立ち直ってきたし、これからもそうしてやっていこうと考えている。それなのに王の偉業に傷が悪戯につくことを人は望むだろうか。愛していたとはいえ、たった一人の少女を亡くしたことから、国民が望み続け、なされたことへ深く感謝し、祝したその偉業すら自ら否定し、贖罪の意識から憎まれたいというばかりでなくその結果としての死をも望んだ彼のいわば人らしい弱さを、この国の民は見たいと望まないだろう。
たとえ自らの意思でそれを選んだにしても、そうやって線引きをして特別視される囲いの中でヴィーは息苦しくはないのだろうか。それすらも受け入れて、あのように笑っているのだろうか。
竜の血を通わせることになった自分自身に別段変化があったわけでない、そうフィーは感じた。同様に、平民として生まれ育ったヴィーだって自分とたいして違いはなく、感情面において劇的に人間離れしたわけではないだろう。それなのにヴィーもフィーも、随分と厄介なものを背負ってしまった。神と呼ばれる竜に関わった名ばかりの名誉と、ひたすらに重い責任と言うやつである。その上竜の血に監視を受けて、常に殺される危険に身をおくこととなった。
そしてなによりも、フィーとヴィーに求められるのは至高としてのあり方であること。それは精霊の頂点たる竜に認められたものとしての、人の頂点。
フィーとて自らの細工に誇りを持っていないわけではない。自分で言うのもなんだが、人を彩るものに関しては国一の細工師であると、そう自負する。それでもそれよりなお上の高きをこの国の民もこの国の竜もフィーに求めている。ヴィーも、正しき王としての在り方から外れることは許されない。恐らくそれに耐えうると思って、それぞれ竜の国の王と竜細工師として祭り上げられたのだとは思うが、フィーとしては首を傾げたい。
……まあそれはさておき、ヴィーと自分は境遇が似ているな、と彼女は思う。
だが、竜の血を受けたその瞬間から周りの人々が彼我の境を明確としてしまうことへの恐怖や孤独感といったものは、表立つことの殆どないフィーより、ヴィーは余程強く感じるに違いない。フィーが目の当たりにした脆さを持ち合わせたヴィーならきっとそうだ、とフィーは確信した。それでも彼は、平気な顔をするのだ。人より「王」として在ろうとする。それは民を想ってのこと以外の何物でもない。
そこまで考えた末、今、彼女は王様に同情している。……こんなことを思う日が来るとは思わなかったが、とフィーはぼやいた。
もし詩人の声がこのようにあまりに美しくなければ、フィーは罪無き詩人に皮肉の一つでも吐いたかもしれない。詩吟に脚色されない偉業などないのだな、と。
やがて英雄歌が終わり、割れんばかりの拍手が詩人を讃えた。
「いい声だったけど……聴いてた?フィー、眉間に皺ができてるよ」
拍手喝采の中、ロイが呟いたのはそんな言葉だった。細長い指が伸びてきて、フィーの眉間をそっと伸ばす。彼女は自分がどうやら考えすぎていたことに気がつき苦笑して答えた。
「皺ができるその時は、その時だ。まあ、いい歌だった、ちゃんと聴いてたさ。来てよかったよ」
ひょい、とフィーはロイの手から逃れた。
一応は女として万一眉間に皺が残ったらショックだろうが、そうなったなら気難しげな職人と見えて渋くていいではないかとフィーは早々諦めていた。もとより頓着するほど彼女は自身の容姿にこだわりはない。ロイやヴィーのような人間を見れば分かるが、いくら手入れしようと凡庸が及ぶべくもない天与の美が存在するのは明白なのだから、自分ごときの容姿にはこだわるだけ時間の無駄だとフィーは思っている。そもそもフィーの天職たる細工師業はあくまで他を飾るものであり、もとより己を飾る必要など微塵もない。
「うん、私はいい才を与えられたものだ」
「……フィー、またろくでもないこと考えてたでしょう」
「私は誰かが私の細工で輝きを増すならそれが最も本望なんだよ、ロイ。私のことは、まあいいんだ」
「ニャー」
ロイが何かを言いかけるのを遮って、その時二人の足元から猫の声が響いた。
「ん、虎猫か?」
フィーは立ち止まって、金の目をした虎猫をしげしげと眺めた。そんなフィーの足に虎猫はまつわりつき、ごろごろと喉を鳴らしている。フィーは普段動物になつかれることなどないので困惑し、猫好きなロイは毛並みのいい猫を見て撫でようと手を伸ばした。
「可愛いね…って、痛っ」
ロイの手が触れた途端猫は毛並みを逆立てて、ロイを引っかいた。フィーの足の前に立ち、怒ったような鳴き声を上げる。
「大丈夫か?ロイが動物にそんなに嫌われるなんて珍しいな……どれどれ」
獣から過去避けられ続けてきたフィーは、おっかなびっくり猫に手を伸ばす。すると虎猫はぺろりとフィーの手を舐めた。
「おお。見てくれ、ロイ! 普段と逆だな、私がこんなになつかれるなんて。うわあ、猫、お前いいもの食ってるんだろうな、すごく触り心地がいい」
フィーは嬉しそうに猫とじゃれ始めた。なんだか憮然とした思いで、ロイは自分を引っかいた猫を眺める。もみくちゃにされているのに猫はやけに幸せそうだ。
「動物に嫌われるなんて初めてだ……」
「もし」
振り向くと、そこにはピンクの帽子の詩人がいた。どうやら詩人は、フィーとロイが猫に構っている間に今日の舞台を終えたらしい。彼は滑らかな動作で帽子を取って頭を下げる。
「ご静聴いただき、ありがとうございました。失礼ですが、その猫はあなた方の飼い猫で?」
「いや、違うけど」
いきなりなんだというのだろう。
「そうなのですか……やけに懐かれていらっしゃるように見受けられたので思わずお声をおかけしました。ならば正直に言いましょう、その猫は、不吉です。離れた方がいい」
「そんな、ただの猫じゃないか」
フィーはわけが分からないと言う顔をしている。それと対照的に真剣な顔つきになったロイは、詩人を睨むように見つめるフィーに抱かれた猫を眺め、静かに尋ねた。
「……それは半精霊としてのあなたの意見ですか?」
「ええ。精霊としては半端ものの私でも分かります。この猫は恐らく魔に属するもの。それもひどく強力な」
「な」
フィーが呆気にとられた顔をする。猫は平静な様子だ。ロイは目つきを鋭くし、問うように詩人を眺めた。
「間違いありません。恐らくこれは仮の姿ではないでしょうか。…魔は、主と定めたものにしか懐かないと耳にしたことがございます。しかし解せない、あなたにはなんの力も感じないのに」
ロイはその言葉を聞いて目を伏せる。…思い当たることがあったから。目立つ詩人の格好とあいまって、多少耳目を集めていることを理解してロイは言った。
「……詩人の方。場所を変えてお話ししませんか。勿論あなたの恋人もご一緒に」
「我々の宿でよろしければ」
「では参りましょう」
話の流れに納得がいかないフィーは、猫の喉をかいてやった。ごろごろ、と心地よさげに猫は目を細める。どう見てもただの虎猫。
「魔、なのか?お前」
「ニャー」
どうやら猫は、人語を解するわけでもない。
彼らの懸念が単なる勘違いとしかフィーには思えなかったが、動き出したロイたちを彼女は猫を抱いたまま追いかけた。