40.祭り前夜
夜がやって来た。
昼間の大騒ぎに比べて、今はさざめきがそっと流れている。ほんのり涼しくなった空気が肌に心地よい。
書き連ねていた細工のデザインから目を離し、工房の2階から開いた窓の外を眺めると、静々と行く行列があった。収穫祭の前夜祭の行列だ。
「この行列、随分久しぶりだな。うんと小さいときに見て以来だ」
「10年ぶりになるね」
窓辺に座っていた私の傍に、術具の手入れをしていたロイもやって来て懐かしそうに外を眺めた。
今夜は夕食後、ロイの部屋で、2人でただぼうっとしていた。私達はよく、何も語ることなくただ傍にいてぼんやり好きなことをしているというときがある。
これがなんだか居心地がよい。静かに満ちているこの空気が嫌いではない。
本当は自分の部屋に帰って眠ってしまってもよかったけれど、収穫祭の期間中に一度は一緒にお祭りに行こうと言って騒いでいたレオナが工房から帰ってから、なんとなく一人は寂しかったのだ。だからロイに断って、彼の部屋の窓際で作業していた。1刻ほど前まではシライもいたけれど、前夜祭に誘われたと言って出かけていった。どこにいるかは分からないが、シライもきっとフードを被ってあの行列の中にいる。
月光の中、連なって人々は行く。土絵の具で顔に竜紋を刻んだ町の有志の人々だ。貴族も平民も関係なく、行列にいる人はみな深い緑の衣を羽織り、美しい白い灯を掲げて一路神殿を目指す。
竜神祭とも呼ばれる収穫祭。
明日からは無礼講で大騒ぎだが、前夜祭だけは特別だ。収穫されて人々の糧となり、神たる竜のいる空の果てへ還ってしまった命へと祈る前夜祭の儀式は、静謐な空気の中で行われるのが古くからの慣わし。亡くなった故人を偲ぶ儀式でもある。
神殿に辿り着くと階段に並んで、そろって黙祷を捧げる。術師が授けた火が元である白い灯は、その間ゆっくり天に昇っていく。黙祷の長さは一定の時間の決まりはあるけれど、それ以上祈るも祈らないも個人の自由。昇る白い灯が月の光に溶けて見えなくなる頃には大体の人が帰って来る。
行列の中に、丁度シライくらいの背格好の子どもを見つけた。その人影を見つめながら呟く。
「なあロイ、シライは」
「うん?」
並んで外を見ているロイも、私と同じ子どもを見つめていた。
「師匠のことを想うのかなあ」
「多分、ね」
あんな小さいのに、母を亡くして。でもシライは私のように憎しみに逃げたりしなかった。それを想うとシライには敵わないなあと思う。それでも。聡いし、芯から優しい子だから私達に寂しいそぶりなんて見せないけれど、想うことはきっといろいろあるのだろう。だって師匠が死んだ日はあんなに泣いていた。シライの透明な涙を思い出して目を閉じる。
……ふと、ロイが言った。
「フィーも行きたかった?」
「どう、かな」
そう答える私を、ロイは罵ったりしなかった。彼は私の気持ちを知っている気がしたけれど、答えを濁す私に、黙っていてくれた。
……行きたかったと想う反面、やめてよかったと想う気持ちもある。
逃げたのだ。
死者への祈りを捧げるならば、師匠の死がまざまざ蘇ってきてきっとまた追体験してしまう。まだ、それに耐えられないと思った。その衝撃に立ち向かい、受け入れるというのは難しい。
レオナといい、シライといい、強いな。自分が情けなくて溜息が出た。昼間の貴族はどうしただろうか。彼にはあのように説教しながら、自分を騙っていた私。それでも受け入れてくれたレオナの笑顔を思い出す。
私も、変わっていこう。そっと心に決める。
「来年は、行くよ」
「大丈夫?」
頷きながら、ロイはどこまで私を分かっているだろうとそんなことを思った。彼はいつも私の気持ちを汲み取ってくれる。
でも、私は?私の方は彼のことをよく分かっていないと思った。実は彼は表情を隠すのがうまいのでよく分からないことが多い。例えば今日はどうして前夜祭の黙祷に行かなかったのだろう。
「ロイは、行かなくていいのか?」
「……シライは多分僕がいると泣けないから」
「確かに、そうだな」
彼らはやはり兄弟だな、とこんな時思う。その距離感が少し羨ましい。決して離れてはいないけれど、寄り過ぎるでもない距離。ロイがシライを理解するように、シライもロイを理解しているように思う。私はどうだろう。ちょっと寂しい。
そんなことを思っていると、ロイはふんわり微笑んだ。
「それにフィーが寂しそうだったし」
悔しい。
「なんで、分かるんだ」
「なんででしょう?」
珍しく意地悪い顔でロイは笑った。なんなんだ。
「フィー。明日の祭りは一緒に行こうか」
「いきなりだな」
「駄目?」
ロイ、その目は卑怯だ。国を傾けられそうな目で私を傾けるつもりか。そのうち私は倒れて死ぬぞ。
「……いいけど。彩がないな」
見た目は祭りで男二人だ。これは結構空しいと思う。祭りでは、毎夜男女で遊び飲み踊り明かしたりするものなだけに、悪い意味で目立つ。すると別にこちらはナンパ目的でなくとも向こうからロイには人が寄ってくるし、私はどうなってしまうのだろう。私にも女性を誘えと? それでもいいが面倒だな。
「そうだ、ロイが女装するか?」
「なんでそうなるかな……前も断った気がするけど」
「だってせっかくだから踊りたいし」
祭りの踊りの男役なら任せて欲しい。あれは得意だ。レオナとは踊る約束をした。
「ああ、でも女装のロイにも人が寄ってくるな」
どうしよう。
「すごく有名な詩人が来るって噂聞いたからそれを見に行こうよ、フィー」
「詩人?」
「そう。世界中をもう何十年もかけて旅して周っている吟遊詩人で、とびきり声が綺麗なんだって」
「ふうん。ロイより歌が巧いのか」
「それで食べてるんだからそうだろうね」
ならば聞いてみたいな。
「じゃあ行くか」
「うん、行こう」
ロイは嬉しそうな笑顔を見せた。きらきらしている。
……まあ、彼は歌が好きだからな。なんだか私もわくわくして来た。
祭りにわくわくするなんて、なんだか子どもの頃を思い出す。
そう言えば祭りに繰り出すたびにナンテスに見つかってロイが閉口していたっけ。明日はどうなるだろうな。
そんなことを考えていると、ふと、外が昼のような明るさになった。
振り向くと、数え切れない白い灯が月を目指して往くのが見えた。始まったらしい。
神殿の元で目を閉じているだろうシライが心に浮かんだ。私も、少しだけ。そっと瞳を閉じてみた。
『相変わらずねえ』
「!」
「どうしたの、フィー」
「……なんでもない」
幻聴だろうか。
ゆっくり、ゆっくり灯は昇っていった。どこの家も明かりを消して窓辺から天を行く灯火を眺めている。静かだった。沈黙の中で、人々はどんな思いを抱えているのだろう。
それぞれの、10年があったのだ。生き延びたり、失ったり、長い10年が。
「綺麗だね」
「そうだな」
ロイも私も、多分一瞬、少し目が潤んでいたと思う。
「さて、明日は祭りと決まったんだからさっさと仕事は済ませるか!」
灯が見えなくなった頃に私は腕まくりを始めた。
「フィー、徹夜するつもり?」
「そうしなければ明日の夜は空かないぞ」
「・・・頑張ろうか」
ゆったりと静かな夜は更けていった。