35.それぞれの断章(2)
「相変わらず無駄にでかいな」
ヴィーは神殿を仰ぎ見て溜息をついた。長い階段の先にありながらなお巨大に見える建物。階段といえば神殿騎士時代には何遍も上り下りしたものだ。城といい、神殿といい、騎士の足を鍛えるために高台にあるのではと勘繰りたくなる。
神殿が高めの位置にあるのは国民を睥睨するためではなく、単純に天空に暮らす神たる竜イオナイアにより近い位置で祈り、祀るためである。大きさに関しては寄宿舎などを含めると城と同等の大きさはあるだろうか。これは竜の巨大さを模している、とされる。本物はこれよりさらにでかかった、とヴィーは思い出していた。山のように巨大なあれと本当に同じ大きさに作っていたなら狂気の沙汰だ。
人の想像など及ばぬ古代文明の手になるこの場所は、観光名所としてなかなかに有名だ。石造りの神殿が月の光を照り返す様はなるほど圧巻だった。
もう、日も暮れてしまったな、と呟きながらヴィーは自分が求める石について考えた。
とりあえずヴィーが持っているもの以外で、『5つの涙』のうち今からチットに奪われる可能性があるのは2つ。北にあるであろう黄色の宝石と、中央にある緑の宝石。チットにもし仲間がいれば、いずれかあるいは両方が無くなっている可能性があるが、北はどこに石があるかはっきりとわからないのだからとりあえず神官長の元へと赴くのが正しいだろう。彼なら残り一つの場所を知っている可能性もあった。容易に口を割るかは甚だ疑問だが。
やれやれと思いながら階段を上るヴィーに、ぶつかる影があった。神殿に不似合いな肌の露出も激しい美女だった。開催間近となった収穫祭の相談にでも来ていたのだろうか。軽く謝罪し、構わず進もうとしたすれ違いざま、彼女の持つ鮮やかな色をした、ごてごてした鞄にヴィーの髪がひっかかってしまう。
「ああ! すみません…」
「いや、大丈夫だ。こちらこそすまないな」
急いでいると思わず前方不注意になりがちな自分に苦笑しつつ、ヴィーは階段を上り続けた。
月を眺めていた。今夜はやけに冷える。そろそろ秋も訪れようかという季節なので、当然とも言えた。
神官長という地位について、何十年たっただろうか。随分と早かったような気もするし、まったく長くてやりきれないと思うときもあった。その間、娘と孫を一人ずつ亡くした。月を眺めていると、空へ魂を返したのだろう、彼女らのことを思わずにはいられない。いずれもこの地位の後継者たる力を持ちながら死んだのだ。年寄りの自分が彼女達より長く生きているということを考えると、巡り会わせというのは分からないものよな、と思う。美しく死ぬのではなく、皺皺になるまで生きて欲しかった。自分の見れない未来を見、その先へと命を繋ぐのも当たり前に思っていた。
けれど、今となってはこうして神官長室から月を眺めるのも一人きりである。
「憎まれっ子世に憚るってところでしょうかね」
「爺さん、独り言か?」
「ヴィー。…思ったよりも早かったですね?」
老人は部屋の入り口に立った背の高い青年を眺める。もう一人の孫だ。
彼の父の若い頃によく似ている。娘を攫っていった憎い男に。孫が可愛いと思う気持ちはあるが、思わず意地悪をしてみたくなる。
「いつ泣きついてくるのかとわくわくしていたところですよ。古文書についてですか?」
「…いや、古文書のことは分かったよ」
「おや」
だれぞ孫に親切にも教えたのだろうか。…面倒なことになった。
「さあ、さっさとお前の持つ最後の『5つの涙』を寄越せ」
「…いいでしょう」
神官長が首にかけていたネックレスについていた石を渡すと、確かに、と言って彼は受け取った。
宝石の女王と呼ばれるエメラルドのティア・ドロップ。草木の色を髣髴とさせる深い緑と月光を鋭く跳ね返す光沢を持っていた。光に透かして中に内包物が見られるのは天然の宝石である証でもある。
「『ユグドラシルの葉』、か。なるほど、美しいな」
「そうでしょう」
「くれたことに感謝するよ。ではな」
身を翻した男の手によって、パタリ、と扉が閉じられる。
「……呆気ない」
ぼそり、と神官長は呟いた。
その、数分後。
ギャアアアアアアアアアアアアアア……!!
先ほど神官長室を去った者の悲鳴が部屋まで聞こえてくるのを、老人は泰然と聞いていた。
「ヴィーは私に爺さん、なんて言ってくれませんからな、偽者さん」
……ノックの音がする。神官長はおもむろに立ち上がった。
「どなたですか」
「俺だ、さっさと開けろ狸爺」
「悪魔ではないですか」
「?」
扉の向こうで戸惑う様子が伝わって、神官長たる老人は笑った。
「……我が孫ヴィエロアたる証明をしていただきましょうか」
「なんだ、新手の苛めか? お前笑ってるだろう。…そうだな、俺はやっぱりあんたが大っ嫌いだ」
「はっはっは。よく言ったものですな、入りなさい」
老人はドアを開く。
「何事だ? …先ほどの悲鳴は?」
「ヴィー、あなたは屍鬼ばかりでなく他の魔と魔法使いについても学ぶべきですね。彼らの中にはあなたの髪1本からあなたの短期的な記憶の情報を得て、しかも化けてしまうような厄介な者もいるのですから」
「…俺の偽者、か…やったのか?」
「ええ、なかなか見事に化けた悪魔でしたが、エメラルドの真贋を見分ける目も無く豪快に吹っ飛んでくれたみたいですねえ。この間エルファンド工房で頂いてきた術具は実によく出来ていたようです」
悪魔に隙を疲れるとは不注意に過ぎますな、と神官長に罵られ、あの女か、と階段ですれ違った美女を思い出してヴィーは溜息をついた。
「戦場を離れて以来、どうにも気が鈍っていけないな。…それにしても、むしろお前が悪魔のように思えるな。どうせ表情も変えずに悪魔に応対して騙したのだろう?」
「聖人君子の最たる私に向かって何たる言い草」
神官長は惚けた顔であしらった。
「否定はしないんだな、相変わらずだ」
「…まったく、そもそもあなたが結界くらい軽くここに張ってくれれば不躾者と無縁にいられるのに。闇のための結界すら潜り抜けてやってくるのはよっぽど高位の魔です」
「お前なら何が来ようがなんともないと分かっていたからな。魔など軽く払えない人ならばこの俺がお前を狸と認めるわけがない」
ヴィーはまったく心配する様子ではなかった。むしろどこか腹立たしいという顔で、彼は祖父を見つめた。
「あまり動じていないのはこうした動きがあると知っていたからか」
冠の鍵を開けるのに関わる宝石を奪うような動きを、魔や、この間のチットと言う魔法使いが見せることを、この老人は知っていたに違いないという確信を持って、ヴィーは神官長を睨む。
「そう、怒らないで欲しいですな。確証があったわけではない」
「だがお前は竜と通じているのだろう? ご神託とやらで何か言われていたのじゃないか」
「…とりあえず、石はあなたに渡しましょう」
再び、老人は首から一つネックレスを取り出した。その先に嵌るのは、
「メノウ、か」
立て続けに貴石が続いたのに半貴石である。意外な思いでヴィーはそれを眺めた。ぬめりとした、深い深い緑の石。例にもれず涙の形を取っている。ふとその色から思い出すのは、1度だけ訪れた、竜の下るという地を囲んだ森の色。
「新緑というより、随分と年季が入った緑の色だな」
そう言ってヴィーが石を見つめていると、神官長が静かに語った。
「…その瑪瑙は木が宝石となったものが元なのです。珪化木をご存知かな? 大昔に存在した木が、河川に沈む中で腐ることなく土砂に埋もれ、やがて噴火した火山の灰の体積からその細胞に宝石の元となる成分を取り込んで、長い年月をかけて化石となった…このメノウだけでない、中には水晶やアメジストなどの宝石となるものもある。木という存在は、その寿命の長さから神代から存在するイオナイアが最も好む友人ですから、我らが神たる竜はこの石を選んだのやも知れませんな」
「他の石も、4大精霊が選んだものなのか」
ヴィーはそれぞれについた名前を思い出していた。ウンディーネの涙、火蜥蜴の涙…。残りはおそらく、ノーム、そしてシルフのものであろう。
「そう、彼らが殊更に好む石。それを遥かな昔、契約主との誓いをかわす証として彼らは選んだ」
「……契約、ね。少なくとも竜との契約はもう済ませたと思ったがな。なあ、神と通じる神官長、イオナイアは俺に何を望んでいる? なぜ魔や魔法使いが動き出す?」
神官長はそっと窓の外を見やった。相変わらず月は遠い。祭りの日を控えて、満月に近くなったそれの放つ光は、しかしどこか不吉な赤い色を含んでいる。それが意味することは。
「…ヴィエロア。あなたが望むと望まぬとに関わらず、世界はすでに動き始めている」
いずれの時代はこうなると分かっていても、それが彼と関わりのない場所で起こることならよかったのに、と神官長は思った。冠が汚されたことが発端だ。英雄が結んだ竜との契約は一度破棄された。そのために新たな王が新たな契約を元に立ったこと。彼が、選択を迫られること。他の者にとっては今このときこそが機会となりうること。
「世界? 何だというんだ、一体」
「早々に、石を取り返すことです。さもなくば」
神官長は首を振って先を濁した。
そうしてしばらく、何かを問うような沈黙が続いた。やがて青年の方がそれを破った。
深い溜息でもって。
「…早々に石を取り返せ? ならば最初から古文書の説明をしろと言うんだ」
ヴィーは呆れたように言った。昔から、直裁に物を言わない神官長を問い詰めるのは馬鹿げていると知っている。そしてその要因は。
「お前は世界が関わってなお、俺をからかったり苛めたりすることが重要なのか」
「勿論です」
その老人とは思えないほどに若く生き生きとした笑顔を見て、ヴィーは悟った。おそらくこの狸爺に、北にあるという黄色の石の在り処を尋ねようと、冠にまつわる真意を尋ねようと、捗捗しい答えは返らないのだと。そして、この老人は当分誰が殺そうとしても死なないだろう、とも。
「…帰る」
「おや、聞きたいことも多いでしょうにお帰りですかな」
「お前が答えないだろうことはよく分かった。石は貰っていくからな」
「礼の一つ寄越さないとは…誰がこんな子に育てたのでしょうか」
「全部お前のせいだと思っていいぞ」
そう応じると、ヴィーは扉に向かって行った。それを少し寂しげに見守っていた神官長だったが、
「ち、少しは心配してやって来て損をした」
去り際の青年の、小さな声で落とされた独り言を、その地獄耳で耳にして老人は微笑を浮かべた。
「やはり本物の孫はいいものです」
今日彼の孫は、どことなく機嫌がよさそうだった気がした。
ヴィーが気になる女性と言っていた、あの娘のことと関わりがあるだろうか。
神官長は思い出す。戴冠式の日に飛び込んできた少年のような風貌の天才細工師のことを。その薄茶の髪は老人の亡き孫と重ねられて、彼は賭けてみた。だから少女を戴冠式でヴィーの元へ乗り込んで来れるところに居させてやった。ヴィーはこの少女に取っ掛かりを覚えるに違いないと思ったから。その後に、王と細工師、あの二人が傷つけあうにしろ、恋をするにしろ、それによってヴィエロアが冠に真に興味を抱くかどうかは分からなかったが…。
結局、今は竜の思惑通りに事は進んでいるが、神官長たる彼は自覚しているほどにひねくれている為に、神託を賜ろうが、別に進んで竜に協力をしたわけでもない。となると。
「こういう言葉は嫌いですが全ての出来事は、運命、なのでしょうかね、イオナイア」
空の向こうに、竜は今日も居るだろうか。
ふとそれが笑った気がした。確かに聞こえた。
「…しかし、物事というのは最後までどうなるか分からないものですよ」
そう、神官長が呟くと、笑い声がやんだ。
―――ひねくれ者め
「光栄ですな」
老人は笑った。神の思惑に逆らうのも人間ならではであろうと彼は思っている。
…この国の神官長の地位についている男はとんだ不信心者であると国民はあまり知らない。