33.ある少女
フィーが宝石店で盗人と邂逅していたのとほとんど同じ頃。
鼻歌を歌いながら、時に空を見つめ、
「ああ、今日の美しき淡き湖面のような空は我が恋しい人の瞳に同じ」
…などとうっとり呟く男が、どこか地に足がついていない足取りで大通りを行く姿が、人々の不審を買っていた。ウェーブがかった濃い茶色の髪、泣き黒子に垂れ目の男は、その挙動さえなければ色男の部類に入るのに、と彼の友人や道行く乙女にため息をつかせることしばしばだ。彼は気にもしないらしい。相変わらずの調子で、踊るように人ごみを縫って歩いていく。その手には鍵つきの箱が抱えられている。
彼、ナンテスは、ローズ嬢の屋敷に向かっていた。
舞踏会の折、城であった一連の粗相の話が、どういうわけか彼の父親にばれてしまったためである。長引く風邪から回復した父親は、それを知ったときナンテスに力強い拳骨を一発飛ばして吹っ飛ばしたあとに、
「詫びて来い」
と店の中からごそごそなにやら取り出し、彼に手渡したのだ。
「これはとっておきのウルトラマリンだ、ローズ嬢って言ったら絵がお好きというから詫びついでにお渡しすれば喜ぶだろう」
と言って。
たかが絵の具と侮れない。
ナンテスの父親は宝石店を営む傍ら、半ば趣味でラピスラズリを粉末にした顔料も作っている。純度の高い原石ですら不純物が混ざるので大変だが、その分この青い半貴石から作られる純粋な本瑠璃色は大変美しく希少であり、画家の間ではかなり人気がある。
現状、王ですら入手するのは困難というほど手に入らないそれならば、確実に詫びのしるしになろうというものである。
ナンテスとしては、謝罪に赴くことに正直納得がいかなかった。ロイに心酔している彼としては、ロイ以外のいかなる女性の足であれ、いくら美しかろうと興味の端にもかからないのに、変態の汚名など着せられてはかなわない。そもそもローズ嬢自身も気に留めても居ないのだ。しかし仮にもローズ嬢は公爵家の娘であるため、彼女に厄介をかけたという汚名を背負ったままでは下手をすると仕事もままならなくなってしまう。そんなわけで、仕方なくナンテスはローズ嬢に正式な謝罪をするために彼女の屋敷に向かっている。王との端から端への移動は長く、次第に彼は散歩気分になっていたので、謝罪する態度としてはいささか適切とは言いがたかったが。
ようやく大きな屋敷に辿り着くと、呼び鈴を鳴らし、出迎えてくれた執事に用向きを告げ、ナンテスは中に入ることを許された。初めに異変を感じたのは、彼が今にもドアを通り抜けようとしたそのときである。
チリ。
一瞬、彼の首筋に痛みが走り、ナンテスはそれまでの暢気な調子をさっと切り替えて辺りを注意深く見回した。
……何も居ない?
彼は剣の腕だけはそこそこあるので、気配には敏感だ。特に、何らかの悪意や邪な気配には。勘違いとも思えず、しばし辺りを見回していたが、結局もう何も起こらなかったので、首をかしげながら彼は執事に従った。
通された部屋は趣味が悪くない程度に、豪奢だった。
「まあ、ご丁寧にわざわざこちらまで赴いてくださるなんて。ようこそいらっしゃいました」
ナンテスを迎えて、その名に相応しく今日は真紅のシックなドレスを纏った少女は花の咲くような笑みを浮かべた。彼女は相手が誰にしろこのような態度を崩さないので、フィーをはじめ、他の王都の平民にも比較的人気があった。気安い人柄なのである。
そんな彼女をじっと見つめると、ナンテスは慇懃に深く頭を下げて謝罪の言葉を述べた。
「本日は、先の舞踏会における私のご無礼を詫びに参りました」
ナンテスはあまり貴族に敬語を用いるような人間ではないと舞踏会の日に知っていたので、その態度の変わりようにローズ嬢はくすくす笑った。
「気にしておりません。むしろ、私の悪戯のせいであのように騒ぎが大きくなってしまって申し訳ありませんでした。あんな噂まで立ってしまって……私何度もあなたの不名誉な噂を否定したのですけれど」
「存じております。……あの場ですぐに、私が謝罪すればよかったのです。あなたの恋人まで怒らせて申し訳ないことをいたしました」
「ナンテスさんとおっしゃったかしら?」
「ええ」
「ナンテスさん、私はむしろ感謝していますの。あの一件でよりあの人と仲良くなることが出来ましたもの。彼もきっと私と同じで感謝していますわ」
そう言って彼女はとても幸せそうに笑った。そんな彼女に、父の手製の顔料を手渡すと、彼女は嬉しそうに頬を上気させ、何度も礼を言った。ロイとは比べ物にならないが、ローズ嬢も確かに可愛い人だとナンテスは思った。
そうして、持って来た箱をあけた彼女が、顔料の鮮やかな青を目にして騒いだ興奮がようやく冷めるころ、ふと、ナンテスは切り出した。
「その、何か命を狙われるような心当たりはお有りですか?」
「特に今はございませんけれど……」
困惑気味な彼女を置いて、彼はドアに歩み寄った。首に感じるちりちりする痛みが我慢がならないほど増し、辺りがやけに静か過ぎるからだ。ばたん、とドアを開く。開かない。
「そんな」
ナンテスが無理にドアを押し開くと、確かにそこにしっかりと立っていたはずの騎士が倒れてドアの前に折り重なっていた。
「おい、どうしたんだ!!」
「く……ろ…」「い、……むい…や…」
うなされている彼らから、確かな言葉は聞き取れない。生きている上に外傷もないらしいと知ってほっとするが、彼らの苦しみようがどうもおかしい。
「誰か!!」
ナンテスは叫んだが、誰もやってこない。周りを見回すが、騎士をこんなにした犯人の影すら見当たらなかった。けれど、彼はこの辺りから確かに気配を感じた。すぐそばで今は、姿を隠しているらしいとナンテスは判断し、
「……大丈夫です、これでも少しは使えますからあなた一人くらいなら守れます」
そう言って、後ろを振り返った。ローズ嬢が怯えているのではないかと思ったのだ。しかし違った。
「賊が入ったようですね……私の身なら私で守ります」
部屋の奥の方からやって来て、短刀と剣を手にした少女は、はっきりとそう言った。おそらく、短刀もそんなに使えるわけではないだろうに、その気丈さにナンテスははっとさせられた。手は多少震えていても、ナンテスを見る緑の目は震えていない。
「だからあなたはこれを。賊が狙うのは私でなくこの石でしょう。亡き祖母の形見です」
そう言ってナンテスに剣を差し出すと、彼女は胸元のネックレスをぎゅ、っと握った。そこにあるのは、涙の形の――
「5つの涙の一つですか?」
その大きさや輝きや形は、色は違えどナンテスの家にある『乙女の涙』と遜色ない。世界にそんな石はたった5つだ。
「え? ……この石は、『太陽の欠片』と言われていますね。そう言えば、他にも涙型の美しい宝石があると聞いたことがありますわ。ひょっとしてそのことかしら」
その美しいシェリーカラーのインペリアル・トパーズは、確かに斜陽の光を封じ込めたように煌いていた。古代、太陽神の光を受けたなどといった話にも確かに頷けるとナンテスは思った。
「そう、別名を、『ノームの涙』というのです」
「ノームの、涙?」
「ええ。とても大切な石です」
ナンテスは頷いた。それと同時に、ぴりぴりとした痛みが、頂点に達した。
「よかった、やっぱり間違ってないのね」
まるで先ほどから居たかのようだった。それくらい自然に、けれど唐突にそこに少女は現れた。
身に着ている淡い青の服のためにどこか希薄に感じられる外見を裏切って、酷く痛い刺さるような邪気を纏いながら、彼女はそこに立っていた。まるでその存在そのものが歪んでいるような奇妙さを彼女から感じて、ローズ嬢とナンテスは思わず身を引いた。
間違いなく、ナンテスが屋敷に入ったときから感じている気配は彼女のものだ。そう断じて、ナンテスはローズ嬢を後ろに庇い、剣を抜く。ローズ嬢は多少抵抗したがそれに構っている場合ではない。
「君は誰だい?」
「知る必要があるのかしら」
問いに答える少女はどこまでも無表情だ。その目は酷く、澱んでいる。けれどローズ嬢は、ナンテスの後ろから彼女を見ていて、どこか悲しい目だ、と思った。
「ああ、知りたいからね。だって君はとてもおかしい。何かが狂っている。まるで無理やりそこに居るような、君の存在に似たものを僕は一つしか知らない」
「何と、似ているの?」
居ないはずなのに。今は、日も高いのに。
「闇、にとても似ている」
そう言うと、少女は顔を歪めた。
「君の正体は、なんだ?闇ならなぜ昼に、竜の結界に阻まれずここに居る?」
「なにも、分からない……」
少女は、しばらく俯いていた。戸惑うように。しかし、次に顔を上げたときには、再び澱んだ目のまま、しかし真っ直ぐにローズ嬢の胸元の宝石を眺めやった。
「私が分かっているのは、私という存在はその石を求めていることだけ」
「鍵を、開けるつもりか?」
闇が鍵など開けようものなら。いや、そんなことをやらせるわけには行かない、とナンテスは眼前の少女を睨んだ。少女は動じない。
「…どいて、別にあなたを傷つけたいとは思わない。石を渡してくれたら何もしないでここから去るわ」
石を渡すわけにはいかない。そして、人ならざる存在なら斬ることに迷いはない。
「断ろう。石はいずれ王に渡ると定められているんだよ。彼が求めたときにないのは困るからね」
一流宝石店の長男としては譲れない。石の定めを知るものの一人として、彼は少女を遮った。
「残念だわ」
少女が手を掲げた。
次瞬襲いかかってきた黒いものを、ナンテスが普段の彼からは想像もつかない俊敏さで、ローズ嬢を抱えてすばやく避けてみせた。彼女をすぐに下ろすと、ナンテスは言った。
「ローズ嬢、ここから逃げて」
「……分かりましたわ」
足手まといになるとすぐに判断したのだろう、ローズ嬢はドレスの裾を抱えながら、ドアに向かって走った。
「だめ」
ドアの前いっぱいに、触れることを忌避したくなるような暗闇が広がった。
「その石を渡して?」
ナンテスは助けようとしたが、彼の目の前から数頭の闇の獣が襲いかかってきて、それに足止めを食らう。
ローズ嬢は少女と対峙して首を振った。
「……大切なものと、聞きましたわ」
「命よりも?」
短刀を構えるも、手つきが少々危なっかしいローズ嬢が後ずさる。しかし、後ろにあるのは、闇だ。どこまでも深い――
「待て!!」
現れた闇の獣を全て払いきったナンテスは少女に向かって剣を払った。ローズ嬢に近寄っていこうとした少女を、豪快に凪ぐように一閃する剣が裁断してしまったかに見えた。しかし。
「……やはり、闇か」
「少しは術力があるのかしら」
服が裂けその下に薄く斜めに傷が走ったものの、避けようともしなかった少女の体は無事だ。弱い術力であってもそれをうまく通わせた剣を使い、数頭の屍鬼程度なら屠る力があったために、ナンテスは知った。彼女が闇とすると相当強い、と。
「分かったでしょう、あなたでは敵わない。相手がチットならあなたでも少し戦えたかもしれないけど……」
「チット?」
「……なんでもないわ。ほら、早く渡して。そうしたら大人しく去るから。そうじゃなきゃ」
「!」
「ナンテスさん!?」
ナンテスの首筋に、艶やかな黒の鎌がかかる。
「首を取るわ」
ローズ嬢と目があって、ナンテスは首を横に振った。そして彼は、この状態では役に立たない剣に術力をいっぱいにこめてドアに投げた。闇が裂かれる。
「逃げろ!」
一瞬闇の避けたほうを見て、それでもローズ嬢は留まった。
「命より大切なものなんてありませんわ」
そう言って、彼女はネックレスを首から外す。
「どうか彼を放してあげてくださいませ」
すると、少女はそのとおり鎌を消して、ローズ嬢のほうに寄っていった。
「これを、差し上げますわ」
受け取ると、少女はふわりと消えた。
「ナンテスさん、大丈夫ですか?」
「僕は、大丈夫だけど石が」
ナンテスは酷く悔しそうに目を瞑った。あの為なら命を懸け守るべきだったのに。父がこの場に居てもそうしたろう。
「ごめんなさい」
彼女が謝ることはない、とナンテスは思うのに、ローズ嬢は潔く頭を下げてくる。
「あなたは武器を捨てて、命を懸けてまでこの石を守ろうとしましたのに」
「……いえ、ローズ嬢。むしろ私が守るといいながらあなたの身を危険にさらしてしまいましたね。怖い思いをなさったでしょうに、あなたは一度あの少女に向かって拒否してみせた。強い方だ。……何よりあなたは私の命を優先してくれたんですから。ありがとう」
そう言ってナンテスが苦笑すると、ローズ嬢は少し頬を赤らめた。
「?」
「な、なんでもありません。とりあえず、屋敷の様子を見なくては」
「ああ、私も行きます」
2人は今は暗闇のなくなったドアへ向かって歩き出した。