31.男嫌いの理由
目覚めると、そこには年季の入った木の天井があった。
見慣れた天井だ。ここは、そう、私の部屋。私は確か、ロイの使いで宝石店に行って、それで…それで?
思い出せない。
「フィー、大丈夫?」
「…」
「フィー?」
「シライ、か。私はどうしてここにいるんだ?」
「倒れたんだよ、フィー。覚えてないの?なんでも宝石店が強盗にあったって…」
「強盗? なんの、ことだ?」
頭が、割れるように痛い。シライは私の言葉に訝しげな顔をした。見ると、彼は私の素足に消毒液を塗っていた。少し、染みる。
「え、だって、フィーが追い払ったって聞いたよ」
「私が…?」
顔に違和感を感じて手を持っていくと、絆創膏が張られているのが分かった。腕を見るとぐるぐる包帯が巻かれている。なぜか腹に打ち傷があるような鈍痛が走る。なぜ私はこんなに満身創痍なんだ?まるで誰かと喧嘩でもしてきたようだ。わけが分からない、と傷を見ている私に労わるような微笑を浮かべながら、シライは、消毒の済んだ私の足に包帯を巻いていき、それが終わると立ち上がった。
「…ちょっと混乱してるのかな。もう、大丈夫だから。お手柄だよ、フィー。『乙女の涙』は 無事だって。いろいろあって宝石店のおじさんはここにいないけど、すごく感謝してた。…フィー、しばらく休んでて。僕は、ちょっとロイ兄ちゃん達にフィーが一度は目を覚ましたから安心してって伝えてくるね。とっても心配していたから」
「そう…」
『乙女の涙』?
何かが頭にひっかかる。蘇るのは、冷たい緑の瞳。血ぬれた…?
ずき。また、頭が痛む。
…今は、考えたくない。よく分からないが。体がまだ辛かったので、ありがたく眠らせてもらうことにした。
「お兄ちゃん」
「シライ、フィーは!?」
シライが階段を下りていくと、工房には二人の男がいた。どちらも、顔を上げて問うように真剣な眼でシライを見つめた。
「うん、手当ては終わったし、目が覚めたよ。また寝ちゃったけどね。傷は深くないみたいだったから、大丈夫だと思う。ただし、」
「ただし?」
「うん、なんか何も覚えてないみたいなんだ。ショックで混乱しているのかもしれないけど…」
シライの言葉に、二人の男のうちの一人、ロイはしばらく目を瞑っていた。何かを思い出すようにして。
「…そうか。うん、フィーはもう大丈夫だと思うよ。シライ、ありがとう、手当てしてくれて。僕には、出来ないから」
「ううん。じゃあ僕、ちょっと学校の課題を済ませに行くね」
シライはそう断ってその場を去ったが、気を使っているのだろうとロイは思った。シライは気が利くから。
…そうして、シライがいなくなってから、ロイはもう一人の男に目を向けた。
「フィーが無事でよかったよ。あなたが血だらけの彼女を抱えてここに飛び込んできたときには一瞬あなたを絞め殺そうかと思案した」
ロイは、そこに佇むヴィーを見やって呟いた。王様は苦笑して見せた。彼も彼女の無事を聞いて、緊張が解けた表情になっていた。
「ああ、彼女ばかりでなく俺の命が永らえたようで喜ばしいことだ……そんな顔して睨むな、俺は現場にいなかったんだから。いたら当然守っていた。…それにしても彼女の手当てを任せてくれてよかったのに。これでも看病の腕はいいぞ」
「あなただけはお断りだ。あなたに頼むくらいなら元から僕が診てる」
「ちっ」
ふと、ロイは真顔になった。
「そんな話はともかく、ヴィー」
「なんだ。フィーの記憶がないって話か。…お前は何か思い当たることがあるんだろう?」
「…今も、彼女が思い出すのを拒絶するくらいだとは、思っていなくて。もう、だいぶ落ち着いてきたものと」
言いよどむロイにヴィーは目で問うた。
ロイは、ゆっくりと話し始めた。
「フィーの男嫌いの要因は2つあるんだよ。一つは彼女もはっきり覚えてるみたいだけど、両親の死後に預けられた教会で、神官の男性に暴行を受けていたこと。もう一つ、これについて彼女は故意に忘れているようなんだけど、家に引き取られてから、フィーは一度誘拐されて奴隷市場でセリにかけられたことがあった」
「成程な……」
ヴィーは呻いた。
闇が蔓延った時代、犯罪者を取り締まる機能は崩れ、治安は最悪な状態にあった。現在は、次第に神殿騎士によって回復がなされたものの、前王が倒されるまでは神殿騎士すらも屍鬼の相手で手一杯だった為である。数多くなされた犯罪の中でも、一番酷かったのが、禁止されていたはずの人身売買である。特に、屍鬼や強盗などに襲われて両親を失った身寄りのない子どもが国中に溢れ、教会に引き取られた子どもはまだ良しとして、多くの孤児が人攫いに捕まって売り飛ばされた。その扱いは熾烈なものだったと聞く。ヴィーが王位についてから、全ての奴隷市場を閉鎖して回ったが、ほとんどの子ども達は栄養失調であったり、性的虐待や暴行を受けて、精神的な傷を負って酷い場合は心を塞ぐものもいた。
フィーも同じ目にあったのだろうか。そう思うと、ぞっとした。
「フィーが誘拐された後、どこに攫われたか突き止めるのに手間取って…。でも、母が居場所を突き止めたとき、孤児たちのセリが行われていた建物は半壊状態で、逃げ惑う人々や傷つき伏す奴隷商たちに埋もれて呆然と一人座り込んでいるフィーがいた、らしい」
僕は母に閉じ込められて連れて行ってもらえなかったんだけど、とロイは遠い目をした。
「それから帰ってきたフィーは、血まみれだった。丁度、今日みたいに。でもあの時、彼女自身は傷一つ負ってなくて、ついていたのは全部返り血だった」
「……フィーが、やったのか」
「そう。力の暴発があったらしい。多分、彼女に何かやらかした奴隷商に抵抗するうちに無意識に暴発してしまったんだろう」
「だがあいつに術力は」
無かったはず、とヴィーは思う。今日は宝石店の店主の話を聞いて驚いたものだった。彼女が竜細工師になったことを聞いて多少納得したものの、ヴィーは出会ったときからそれまで、フィーから術力を感じることは無かったからだ。けれどロイは、こう続けた。
「あったんだ。無いように見えていただろう? あれ以来ずっと本人が抑え込んでいたんだ。
奴隷市場から連れ戻されてから、フィーはひたすら水で手についた血を洗い流していた。どんなに綺麗になっても、その日一日ずっとそうしていた。その後、倒れるように数日眠り込んで、目が覚めるころには誘拐されてからの記憶をなくしてた。多分、心を守るためにそうなったんじゃないかな。そして、術力もその日から全く使えなくなっていた。フィーの術力は、元は結構あったんだ。そうじゃなきゃ、力の暴発の結果、奴隷商を倒した上に、建物が半壊するほどの騒ぎになったわけがない。無意識に同じことが再び起きないようにしていたんだと思う。
彼女が最近竜細工師になってから、竜の血が呼び水になって力が少し解放された。元から竜の血は力のないものに力を与える効果もあるからね。……まあ、元から少しずつ、彼女の術力を抑え込むのに限界は来る予定だったんだけど」
不運としか言いようがないとヴィーは思った。攫われたことも、過ぎる力を持っていたことも。
「それで男嫌いか…」
そんなことがあったなら、あれだけ拒絶されたのも納得がいった。勿論、ヴィーのことをフィーが憎んでいたことも大きいだろうが。
「そう。フィーは、男性と話すのはともかく、体に触られるのは一番嫌みたいだね。今回は多分、強盗を相手に命の危機に落とされた挙句、そいつがフィーに触れようとしたのが記憶と重なったんじゃないかな、と思う」
今では随分落ち着いていたのに、とロイは溜息をついた。
「最もあなたの所為で、いつ、記憶が蘇るのかとずっとひやひやしてはいたんだけどね」
「……そうだったのか。悪いことをしたな」
ロイがヴィーにこのことを話さなかったのは、彼女が容易に他者に触れられたくないであろう過去に深く関わることだからだろう。こんなことがなければ、多分ずっとヴィーは知らないままだった。当の本人は忘れているというのだから。
ヴィーとしては溜息しか出ない。しかし知ったことが良かったのか悪かったのか、微妙なところだ。ロイが、彼女にある一定の距離を保っていたわけがよく分かった。自分は、これから彼女にどう接していくか―――
「…なんにせよ、今日のことで結果的にますますフィーの男嫌いが酷くなりそうだな。あの男、また会ったらただではおかない」
「あの男? ヴィー、ひょっとしてチットという男に会ったことがある?」
被害届と店の片付けのために既に帰ってしまった宝石店の店主から、ある程度の事情をロイも聞いていた。赤髪に、緑の目をしたチットという男のことも聞いた。
「ああ、奴は以前古文書を盗っていった」
「古文書が盗られたのか……『乙女の涙』を探しに宝石店を訪ねたということは、ヴィー、やはり鍵を開けるんだね?」
「…ああ、そのつもりだ」
「そう。そうだろうと思ってたけど」
「なんだ」
ロイが何か言いたげなので、億劫そうにヴィーは尋ねた。
「フィーに対して今話した事情から、あまり積極的に距離をつめないように。それから、彼女を守り通すこと」
「なんだ?俺が鍵を開けることと関わりがあるのか」
「残念ながら。…今から約束しておいてくれる?」
「よく分からないが、後半はともかく前半はあまり約束できない」
「ヴィー」
水色の瞳が色を強めて深い青の眼を睨み据えた。ヴィーは真っ直ぐロイの目を見返して彼に尋ねた。
「お前は、フィーが変わらないことを望むと以前言ったが、本当に本心なのか?」
「……本心、だよ」
フィーが望む限りは、とロイは言った。
「彼女の過去のことは分かった。それでも、俺にはお前の下す判断が理解できない。相手が惚れた女性ならなおさら、だ。俺は、この国を変えていくつもりだ、生きているうちにな。彼女がありのままに過ごせるような国にしたい」
「それは、」
「彼女は、別に男になりたいってわけじゃないんだろう? 歪なんだ、今の彼女のあり方は。選ぶことが出来ない状況でそのありようを望んでいるなんて彼女に言わせるのか? 偽りなど、いずれ崩れていく。俺が手を下さずとも。分かっているだろう、お前のやっっていることは守るのとは違う」
手の中のブルー・ダイヤモンドを弄びながら、王様はそう言った。
「そんなでは恋敵にすらなりえない」
「…」
「彼女を振り向かせて過去への拘泥も男嫌いも変えて見せるくらいの意地を持て。ロイ、お前の思いはそんなものか? 自分を抑えずに多少はわがままに生きてみたらどうだ? 世界が違うぞ」
しばらくして、目を逸らしたのはロイのほうだった。
「僕はあなたが正直嫌いだ、初めて会ったときから」
ヴィーは彼女が男装を始めて以来、初めて『異性』として彼女に近づいてきた人間だったから。そしてフィーの眼が、少しでもヴィーに注がれた時点で、ロイは踏み込んでくるこの男を嫌った。そこに実は羨みが混じっているのだと知っていながら。
「…でも、僕に対してそんなふうに言ってくれたことには、礼を言うよ」
「俺は心優しい人間だからな」
「どうだかね」
「今回は立場が逆だな」
ロイは苦笑した。
「とりあえず、我らが眠り姫の様子を見に行くか」
「……そうだね」
そうして話し終えた2人はフィーの部屋へと向かった。