29.盗人
「神官長!」
「どうしました」
静寂が馴染む灰色の石の壁に赤と青を基調としたステンドグラスが埋め込まれた礼拝堂に飛び込んでくる年若い神殿騎士がいる。この場所の主たる老いた白衣の神官は、咎めることも無く微笑んだ。
「地下書庫の鍵が破られました!!しかも確認いたしましたところ“竜の古文書”が盗まれてしまったようです」
「おやまあ」
おやまあ、じゃありませんよ、と騎士は崩れ落ちた。
「大方あの馬鹿孫が忍び込んだのではないのですか」
「はい?」
「誰が馬鹿孫だ」
「うわ、国王陛下!?」
神殿騎士の後ろにぬっと背の高い影が差した。王に似つかわしくないほどの軽装だが、彼の顔を知っていたらしい騎士は彼を王と気付いて驚いている。対して神官長は平然と王を見上げた。
「おや、ようこそいらっしゃいましたな国王陛下。城暮らしも半年、早速懺悔することでも出来ましたか」
「違う。俺はいつでも清廉潔白な男だ」
「ほう、そうなのですか?書庫に侵入したのはあなたでないとすると誰ですかねえ、まったく思い浮かびませんが」
「世には悪人が五万といるのにお前にとっては俺だけ常に被疑者なのか? ……それにしてもたまには慌てることを覚えたほうがいい、こんなやり取りをするうちに犯人は遠ざかるぞ」
「構いませんよ」
「なにを言う」
「レプリカですから。あんないかにも何か隠しているようなところに大切なものを置くのは愚かというもの」
「……本物は?」
「なぜあなたが気にします?」
にっこりと笑う神官長に、
「俺もそれに用がある」
と短く王は答えた。
「……どうやら本当に王が盗んだわけではないみたいですね」
「神官長、何をなさっているのですか」
老人は王の懐を一通り探っていた。そして満足したらしい。
「検査ですよ。しかし針金を持っていたとなると正直お前が一番怪しいのですがね……どうやら他に盗人が出ましたか」
やれやれと神官長はヴィーの懐のどこから取り出したのか、1本の針金を掲げ眺めている。
「神官長……?」
まるで生粋のスリのように鮮やかな手際であったことに、神殿騎士は一抹の不安を覚えたように上司の名を呼んだ。
「騎士殿。言っておくが俺の盗みの腕はこの爺の手ほどきによるものだぞ」
「ええ!?」
「人聞きの悪い……」
「事実だろう? そんなことはどうでもいい、おい狸、“古文書”を見せろ」
「祖父に敬意を示すなら考えてあげないこともないですな」
「面倒くさいな。全く、お前に会うとこうなるから盗めば手っ取り早いと思ったのに、隠し場所が他にあるなら仕方ない。なんだ、跪いて靴でも舐めろというのか」
「下劣な発想をするものです。人の靴を汚らしい唾で汚す行為のどこが敬意を示す行為になるというのですかな」
「……お前がクェインと仲がいいわけがよく分かった気がするよ。気に障る敬語口調といい慇懃無礼が肌に馴染んでいるあたりそっくりだ」
「私どもはあなたと異なりただの無礼でない分、マシでしょう」
「あのう、早く古文書の本物の方の安全の確認をしたほうがいいのでは」
騎士が思わずといった様子でそう言ったのに、老人とその孫の二人は顔を見合わせた。
「そうだな。はあ、『親愛なる我が祖父上、イオナイア唯一の尊き神官長、日頃の無礼を心より詫びましょう。そしてもし孫を想う気持ちがその爪の先ほどでもあるのなら、この度古文書を拝謁したく、またそのためのご協力をお願いしたく存じます』」
「私の深爪度合いを見て、なおそう言ってのけるあたりが、本当に嫌な孫ですな」
「お互いさま」
「やれやれ……ついてきなさい」
「よろしく頼む」
「あ、私も共に参ります。もし犯人がそちらの方にいたら捕縛はお任せください!」
2人のやり取りに呆気に取られていた神殿騎士はぴしっと背筋を伸ばした。こうして3人はぞろぞろと移動を開始した。
そうしてやってきたのは、教会の鐘撞き塔の天辺だった。風が強い、尖塔の足場の不安定な屋根の上に、王はともかく全く危なげなく飄々と立つ老人の方を、神殿騎士は恐ろしげなものを見る目で見た。この人は何者だろう、と。
「で、本物はここのどこにあるんだ」
見たところ隠す場所はなさそうに見える。すると、神官長はおもむろに跪いた。
「ここですよ」
屋根にかざされた手が淡く光ったかと思うと、切れ目が無かった屋根の一部がぱこん、と四角に開いた。
その中からふわり、と何かの紙がひとりでに出てくるのをさっと王が掴んだ。
「これ、か」
王は黙ってしばらく紙を見ていた。神殿騎士は思わず、と言った様子でこっそり覗き込む。
「あれ?」
そして首を傾げた。王も訝しげな顔をしていたが、神官長に向き直って尋ねた。
「……文字が一つも見当たらないが」
「然様ですな」
「どういうことだ?昔俺が見た、お前が言うところのレプリカには言葉が刻まれていたと思うが」
「だって仮にも古文書に文字が刻まれていないとおかしいですからね、あれはあくまでレプリカですから私が適当な詩文を」
「おい神官長」
「いいではないですか。軽いユーモアです」
「……よくはないが。まあお前のその振る舞いは今に始まったことじゃないしな……ともかくこの古文書は、どうしたら文字が出る?」
「何も書かれていないように見えるのならお返しくださるか、王」
「お前には見えるのか?」
「……盗まれていなかったのだから、もうよいでしょうに。あなたにそこに書かれたものを読み取る覚悟と確かな意思はおありで? 無いから、そのようにその瞳には何も映らない」
「なんだというんだ」
「鍵を、開けるのですか」
唐突な問いだった。
「また、鍵か……。開けるというのは一体なんだ? 知らぬから意思も覚悟も俺にはないな」
「では……」
「ただ、この冠の謎に正直興味はある。今一番気にかかる女性に纏わる物だからな。いきなりこれについて彼女に尋ねるにしろ語り合うにしろ、何も知らずに下手に傷つけるわけにはいかないから、まずは知りうることを知り尽くしたい。そう思って城の書物を読み漁るに、大して手がかりは見つからなかった。以前、ロイという男が言っていたこと以上の何かは見出せなかったよ。ただどうやら冠の鍵を探すのにその古文書が必要だというくだりを見かけたから、探しに来た」
「やれやれ、あなたの原動力は昔から何かしら女性が関わっているように思われますな」
嘆かわしそうに神官長は言った。
「放っとけ。……調べるほどに中途半端な事実しか見えないから、当初の目的を忘れるほど調べつくしたよ。それでも分からない。先代王の黒の冠には確か黒い宝石が嵌っていたように思う。あの冠は火の山の火口にその先代王の亡骸と共に捨ててしまったから確認できないがな。冠に嵌められていたのはただの宝石なのか? 鍵はやはり宝石なのか?
ただ一言、英雄は鍵を開けたと歴史書にいう。開かれて出てくるものはなんだ? 詳細は何一つ記されていなかった。意図的に隠しているとしたらその目的はなんだ? 分からない、竜と竜細工師と王とこの国と、この冠はどう関わっている?鍵を開けることは何を齎す?」
老いた神官長はすぐには何も言わなかった。
「今日は空がいやに青いですな」
「……そうだな」
大白鳥が空を渡っていくのがよく映えるくらいに。もう元通り、といえるほどに復興しつつある街中からは、心地よいざわめきは届くが悲嘆の色はない。老人は空を見上げて何を思ったか。彼は小さく一息ついた。
「もうすぐ収穫祭の季節ですね、10年ぶりの。ようやく訪れた穏やかさだ……私は、平和ならそれでいいと思います。悪戯に、それを乱すことはない」
「探れば、乱れると?」
「さあ、どうでしょうか。何もかも、あなたが選ぶことですがね」
答えをはぐらかすように神官長は言った。
「彼女の師匠が、命をかけても創った王冠の本当の意義を知りたいんだ。俺が王位に就くまでに、失われたものは多い。生きているうちにせめて出来うる限り一つ一つその理由くらいは理解しておきたい。そしてそれを知った上で、この国を治めたい」
その時、ふと。
王の手にあった紙がびくり、と震えた。そこに浮かんだのは5つの宝石の絵。赤青黄色無色4つの宝石が円を描く線上にあってその中心に一際大きい緑の石が一つあるという配置だ。
<まず石を。そしてそれを契約と共に鍵に。全てに認められたならば道は開かれるだろう。その後に選べ……>
一瞬浮かんだ文字はすぐ消えた。
神官長が言った。
「……石は、この国に散ってしまっている。欲しいのなら、探すことです。そのことはそう難しくはない……。石を見つけるまでは私がその紙を預かりましょう」
そう何かを諦めたように神官長が言って、王の手から神官長に紙は渡されようとした。その時。
「ふーん。冠の伝承ってそう言うことなの。それにしても綺麗な絵だね~」
今まで、2人から少し距離をとって立っていた神殿騎士が、にこりと笑ってそう呟いた。ひょい、と2人の手から紙を奪う。
「な……?」
ただそれだけの動作なのに、いやに速い。王が一瞬動けなかったほどに。
「書庫に忍んで盗った紙切れ、わっけわかんない詩が書いてあったからひょっとして偽物かもしんないやと確認とって大正解。オレ、まじで賢いわ。んじゃまあ、これは頂いてくね、あ、石も全部貰う予定だから。そこんとこよろしく。そんじゃご案内ありがと。チャーオ!!」
先ほどまで真面目な神殿騎士だったはずの男は実に陽気に消え去った。
「……盗られましたね」
「……消えたな」
残された二人の間には、気の抜けた空気が漂った。
ふ、と神官長は笑う。彼は慌てることもなく落ち着いている。
「石を探すのはどうやら難しくなったのでは?」
「お前まさか気付いていただろう、あいつが盗人本人だと」
「あなたもでしょう、人が悪い」
「……捕まえ損ねた。まさか消えるとは思わなかった」
「私も消えるとは思いませんでしたよ。まあ正直、あなたが鍵を開けないなら私はそれで構わない」
「なるほど、それで狸は大事な古文書をしっかり受け取らなかったというわけか」
「いやいや、偶然です」
王は、誠実な顔をしてそんなことを言う神官長を信じる様子が無かった。恐らくいつもこの老人に遊ばれてきたのだろう。
「まあ、がんばることです。ああ、あの紙がないと鍵を開けるのなんて不可能ですからな。冠の謎を解きたいなら、あやつを探さねばなりますまい。果たして何者かは存じませんが」
「面倒なことに……こうなったら石の在り処くらい吐け、狸爺。なんか知っているだろう?」
「そうですな。宝石店にでも行ってみたらどうでしょう? 一つくらいはあるかもしれませんよ」
「本当だろうな」
「木を隠すなら森といいますから」
「お前が隠したんじゃ」
「失敬な。いたいけな罪のない老人を疑ってかかるより、城に戻って冠の番でもしたほうがいいのではないですかな。そろそろクェインも怒り出しますよ」
「……もういい、とりあえず俺は行く。ここにいたって仕方ないからな」
王様はガリガリと頭をかきながら立ち去った。己の能力に似合わない失態を犯したのが悔しかったらしい。
紙の方は盗まれてしまったとはいえ、ヴィーのことだから、あの紙に表れた石の、それぞれ特徴的な形をあの一瞬でしっかり記憶してはいるだろうが。
「さて、本当に何者ですかな」
問題は盗んだ人間である。王が、反応できないほど速い動きをするとは誰であろうかと残された神官長は首を傾げる。世の中は広い、そんな人間もたまにはいるだろうが、まあ、ろくな人種ではないだろうと彼は呟いた。
神官長は、彼の纏う白く分厚い神官服に隠れて、外からはそこにあると分からないペンダントをそっと握った。ペンダントの先には、緑色の大きな石が連なっている。盗人やら王が見れば、剥ぎ取っていたかもしれない。
「鍵を開けるのですか、ヴィエロア……。我が神である、竜イオナイアよ、あなたが望んでも、私はあの子にそれを望まなかった。ヴィエロア、あなたの中の小さな欲が育たないようせめて私はいつも祈っておりますよ」
王はこの国と人を愛している。それで十分だ。国よりも大きなものなど、彼が抱えることが無くてすむように、ただ、老いた神官長はそっと祈った。
王都の外れのしなびた宿屋で、興奮したように叫ぶ青年がいる。こんな宿に似合わない、神殿騎士の白い衣装は彼のどことなく感じられる幼さにも似合っていないように、それを見ている少女は思った。青年の髪は赤い。瞳は深い緑色だ。どちらも少女の好きな色ではない。でも、彼女は青年のことは、嫌いでなかった。
「ギルぅ、褒めて褒めて。オレちゃんと盗ってきたー!!」
「……」
「ねえ、王様って格好いい人だね。でももちろん俺のほうが100倍は格好いいけど」
「……」
「ギル、なんか言ってくんないと寂しくてオレ死んじゃうよ。ああ、胸が痛い。そして寒い、日が昇らない北国みたい!!」
「紙、は?」
「ああ、これこれ。ほいよ。ん?うわ、真っ白じゃん! あれえ、確かに絵が浮かんでたんだけどなあ……本当本物だよ、信じてよ、そんな目でオレを見ないで!」
「貸して……」
ばたばたとやかましい少年に動じもせず、静かな少女が紙を受け取ると、白い紙は黒く変わった。
「うあ、不思議」
やがて、その黒い紙の中に絵が浮かぶ。それは確かに青年が鐘撞き塔で見たものと同じ。
「すご。そっかあ、意志と覚悟がいるとかなんとか、あのおじいさん言ってたな~。オレそう言うのと無縁だし! あ、でもギルはちゃんと守る!!」
「うん、本物みたい。ありがとね、チット」
「えへへ、どういたしまして」
チットと呼ばれた青年は幸せそうに笑う。少女は、相変わらず無表情だったけれど、心からお礼を言っているのだと彼には分かったから。
「あとは、石、探さなくちゃ……冠、も」
「どっちもこの俺に任せて! ぱぱっと盗って来ちゃうよ~、あ、ギル俺の手際に惚れちゃうかも。うわ、照れるなあ、そしたらどこで結婚しようか」
「手伝ってくれて、助かるわ」
「愛しいギルのためなら何でもしちゃう。よし、手始めにとりあえずはこの目立つ服着替えて来よっかな~。ギルは? 今からいろいろ動くなら、その色はちょっと目立つから淡い色のほうがいいかも。似合ってるけどね!」
「そうね・・・着替えようかな」
少女は、鮮やかな青い色の服を着ていた。