27.ロイと竜
ロイは夢を見ていた。
薬を飲んだ後、内臓が焼け付き、血が高温で煮え滾るような苦痛から逃れるように眠った後のことだった。あの「薬」は彼の過ぎた術力を抑えるのに非常に役立つが、同時に劇薬でもあった。
夢の中の景色は、緑深い森だった。絡み合った木々の群れはどこまでも続くかのようにロイの目の前に広がり続け、彼はただひたすらにその合間を縫うように歩いていた。何かに呼ばれているような焦燥感があって、それに引き付けられるように次第に足が速まった。緑一色。木の幹すら隙間なく苔で覆われ、足元にも茶色の大地を覆いつくすように丈夫な草が茂る。森は長い年月存在していたかのようにくぐもった孔雀石色をしていた。
どこまでもきりがない緑に酔ってしまいそうなほど、ロイが疲れを感じたとき唐突に森は開けた。そこは円形に開けた空間だった。木が、壁のようにその空間を囲っている。振り返ると、自分が通ってきた隙間も、埋められてしまったようで、もう戻れないと分かった。
進むか、止まるか。
辺りを見渡せば、背の高い樹木の壁に囲まれてなお、息苦しさを感じないくらいにそこは広かった。山が一つ入るのではないかというほどに。ただそこには何もない。草すら生ていない、赤い大地がただ広がっていた。星をちりばめた夜空がその上にある。
自分は一体、何に呼ばれたのだろう。その円形の地の中心まで彼はあてどなく歩いていった。しばらくして、ようやく目的の場所へとたどり着く。しかし何も起こらない。
どうしようか。途方にくれたように、ロイがそう心で呟いたとき。
「ロイ・エルファンド」
頭上から降ってきたその言葉に、大地は震えるようだった。
「……イオナイア?」
いきなり吹き付ける突風から身を庇いながら、見上げた空にそれはいた。天空から、それこそダレンシアの絵から抜け出したように現れたのは、このイオナイア王国の名を冠する、巨大な竜。遠くに浮かんでいるのになおその大きさを感じさせるそれは、上空で羽ばたきを続け、滞空している。星空がほとんど見えなくなった。大地に落ちた黒い影は、この広い空間を埋めるほどに大きかった。
やがて、風が収まり、ロイが神とされる竜に言ったのはこんな言葉だった。
「久しぶり、ですね」
「そうだな……大きくなったものだ。大昔お前が幼き頃母と共に会って以来、か。私を覚えていたか?」
「忘れていましたよ、先程までは。そう言えばこんな不便なところだった気がします。ところで降りていらっしゃらないので?」
「その予定ではあったが、お前を潰してしまうからな。それとも潰されたいか?」
「いえ、結構です。好きなだけ浮かんでいてください。……あなたが私を呼んだ?」
「ああ。そうだ。眠っているところをすまないな。」
「私は実体でしょうか」
「いや。精神だ」
そう、なのか。ならば潰されはしないと思うが……いや、やはり嫌だ、自分が透けるところなど見たいものではない。
「お前は精霊になりうるほど濃い術力を持っているようだからな、体があるかないか大して感覚に違いはなかろうよ」
「そうですね」
たしかに今までそうと分からなかった。それにしても。
「今日は、どうしてわざわざ会おうと思ったのですか?ここまで私を呼び寄せずとも夢の中で、会話なら出来るでしょう?」
いつもそうしているように。
ロイがこうして、体を伴わないとはいえ、面と向かって竜の前に立つのは母が死んで以来初めてだった。竜細工師の母に連れられて一度だけこの竜に会わせられたことがある。それ以来、顔を合わせることはなかった。
しかし物心ついて以来、夢の中ではこの竜はよく自分に話しかけてきた。姿はお互いに見えない。一度何故そんなに自分に構うのかとロイは尋ねたことがある。すると、ロイの中の飛びぬけた力と美しさに興味を抱いたからと竜は答えた。なるほど、竜と言うのは収集癖もあるものだ、人もその対象に含まれるのかとロイが納得すると、竜が黙り込んだのを覚えている。冗談のつもりだったが、なんと的を得たらしいと知って、あなたの傍にいく気はない、居並ぶ収集品の列へと加わる気はないのだと懸命に説得した。未だにこの竜は傍で暮らさないかと誘うが、竜の暮らすという雲の上の世界など人の身である自分には合わないと断ってきた。勿論、フィーの傍を離れたくないと言う理由もある。断るたび竜はなんとも残念そうに大きな溜息をついた。
ロイと竜の間で夢の中で交わされるのは、たわいない会話のみでなく、時に頼みごとをされることもあった。竜細工師の母が生きているうちは竜に収める細工についての注文ごとだった。死んでからもいくつか頼まれた。闇の動きの報告をすることもあった。例えばヴィーに冠の話をしたことも、実際はこの竜に頼まれたからだ。神官長に言えと何度抗議したか分からない。「あれは素直でないからな」と言って、聞いてもらえた試しがないが。だから、ロイにとって竜は、特別な存在ではなかった。
恐れ多いと言うよりむしろ、下手な隣人より馴染んだ存在だった。
「今日は、成長したお前の姿を見たいと思ってな。この森の外に現れることを許されない私からお前の元に赴くわけにはいかないものだから、お前を呼ぶしかなかった。しかし、忙しそうであったから術力を抑える間の、精神と体の結びつきが弱くなったらしいところを狙って精神のみ呼び寄せた」
それは実は自分が死にそうだったことを意味しないかとロイはぞっとしたが、遠くに浮かぶ竜の巨大な口は笑みを佩いていた。
「大丈夫だ、死ぬことはないだろう」
「ならばいいのですが」
ともかく会えたのが嬉しいと言うように竜が笑う。何故だか照れくさかった。それを隠すように、ロイは尋ねた。
「何の用ですか」
「伝言がある……新たな竜細工師となるものに」
「やはり、フィーですか」
「ああ」
その言葉に、少しロイの胸が疼いた。それに気がつかないふりをして、ロイは言った。
「彼女は竜細工師となることを望まない、とそう言っています」
母がそれゆえに死ぬのを見て以来、特に。
「我はあれの作ったものしか認める気はない。国を潰したいかと問え。責めろ」
「……あなたのその傲慢さは嫌いです」
この竜、イオナイアは友人であった古の英雄の築いたこの国を愛している。この国の国民が竜の子どもなのかどうかは、竜は明言しなかったが、この国の人間を愛してはいる。しかしやはり人と対等では、ない。
「フィオナに伝えろ。竜細工師の継承の儀を済ませよ、と。それから、まもなくヴィエロアが旅立つ。旅に、伴うように伝えろ」
「なぜ、フィーが彼に伴う必要が?」
「……必要なことだ」
竜は全てを語りはしない。
「分かりました」
「また、夢で会おう」
そして空の彼方へ竜が消える前に、自分の名を呼ぶ別の声がして、それに返事をしようとしたロイは体へと戻ることとなった。
「……イ、ロイってば」
「……フィー、かな」
「そう。なんか呻いてたけど大丈夫か?」
「うん、平気」
目をあけてフィーを見ると、彼女は大きな器を抱えている。酸味のある、けれど甘い匂いが漂っていた。
「ロイ。すりおろしりんご持ってきた。好きだろ、りんご」
「すごく。フィーが、作ったの」
「そ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
頭に手をやると、濡れたタオルがあった。看病していてくれたらしい。
「店は?」
「予定していた客はみんな来たからもう閉めてきた」
「そっか。ごめんね」
「いいよ。ロイが倒れるなんて滅多にないし」
店を閉めたなら、時間はある。精神だけで動いていたせいか気だるかったが、今聞いておきたいことがある。ロイと出かけて、どうなったのか。いっぱいのすりおろしりんごを食べながら、フィーから彼女とヴィーとの話を聞いた。二人は、和解したらしい。フィーは、心持、嬉しそうな顔をしているような気がした。さっぱりしただけなのかもしれないけれど。
「そう」
よかったじゃない、と続けようとして、そうは言えなかった。もうフィーとヴィーに接点がないだろうと思うから、人を憎んでフィーが傷つくなら早く辞めさせたかった。けれど、竜はなんと言った? 接点がないどころか彼女と彼はいずれ共に旅に出る。恐らくそれはもうすぐだ。身勝手にも、それならフィーが彼を憎み続けていてくれたほうがいいと思ってしまった。枷をなくしてヴィーはフィーに近づいていくだろう。フィーは、異性を嫌っているから、早々ヴィーとどうにかなるとは思えないけれど、嫌な予感がするのはどうしてだろう。
僕は?彼らについていくことは出来ない。この工房を、シライを、一人には出来ない。
「どうした、苦しいのか?水、替えてこようか」
フィーがこちらを心配そうに覗き込んだ。大きな鳶色の瞳が瞬く。自分は一体、どんな顔をしていただろう。
「いや、熱はないよ。タオルのことは構わないから」
やけに疲れていた。
ただ、眠るまで傍にいて欲しいと。そう言って、離れていきそうなフィーのその手を気付けば掴んでいた。
「ロイ?」
何かを彼女に、言おうとしたけれど。
掴んだ手の温もりにほっとして、そのまま、僕は気を失うように再び眠りに落ちた。