26.回想
あれから、城のそばに来て、
「俺はここで帰るよ。またな」
と言ったヴィーに、
「……何かあればな」
と答えて別れた。ヴィーは私と別れるとき再び会うような言い方しかしないな、とふと思った。ただの口癖かもしれないが。
去り際に笑みを浮かべる彼を、初めて完全に憎悪から離れた目で見た。もう傾き始めた日が王様の青い目を照らしているのを眺めながら、ソラはきっと彼の目を好きだったろうと思った。本当に美しい蒼だったから。
それから帰る道すがら、ふと、彼が私に「拝めるかもしれない」と言っていたデマントイドガーネットのことを思い出した。そして少々騙された気分になる。この国では産出されない、あの鮮やかな緑の石の名前にかけて含まれていた意味は、おそらく、『真実』。それならば、確かに目の当たりにした。彼が私に何を見ていたのか、ようやく分かった。
彼の愛したソラという女性のことを思う。想い人を追って死んでしまった女性。それくらい、男の人を愛するのって、どんな気持ちなのだろう。想像もつかなかった。師匠を想う気持ちとそれは、違った種類のものだろうか。
……よく分からない。
思いあぐねて空を見た。雲があったのを忘れたように、素晴らしく晴れ渡っている。この天気同様に、人の関係というのもいきなり変わることがあるものだな、と思う。時間が何かを変えていくこともある。けれど私たちは、時が経つのをただ待つのでなく、自分の意思で今まで互いに向けていた感情を変えていこうという決意をしたのだ。ヴィーも私も、今なお愛しい故人を忘れることはできないけれど。
それでも、始めよう、と彼はそう言った。それは、私は師匠を通さずに彼を見ること、彼はソラを通さずに私を見るという、そういうことだ。
しかしそうしてみると、そこにいるのは本来なら関わりを持たないはずの一国の王様と、ただの一人の細工師だ。またな、とあの人は言った。しかし。
「正直接点がない気がする」
ああ、でも彼に細工を作ると言ったか。今なら少し、進められそうな気がして、工房に帰ったらデザイン画をいくつか描こうと思った。
それから、寄り道もせず私は真っ直ぐ家へと帰った。少々急いでいたのは、体調を崩していたロイが心配だったのもある。それでも、私が工房に着く頃には4時を回っていただろうか。随分遅くなってしまった。城からここまでは結構離れているのだ。
見慣れた工房の扉の前につくと、そこで途方にくれている女の人を発見した。彼女はノックをして、待って、を繰り返している。とりあえず営業用の声をかけてみることにした。
「お客さまでしょうか?」
そう尋ねると、はっとしたように女性は振り向いた。手に、何かの袋を持っている。
「あ、いえ、私は薬屋の遣いで。あなたがロイさん?」
「いえ、この工房の者で、フィーと申します。薬屋の方ならノックなどせずとも中に入ってくださって構わないのに……」
「ああ、そうだったんですか? 恥ずかしい」
私は首を振った。礼儀を弁えた人なのだろう。
「いえ。そういえば、いつもの方とは違いますね?」
「ああ、いつもは私の夫がお届けしているんです。はじめまして。
今日は夫の代わりにこちらに伺ったのですが、お休みの日だからとりあえずノックをしてみたら、返事が無くて。もし、お留守なら引き返そうかとそう思っていたところなんです。でも今日お届けすると、お伝えしていたはずでしたし……」
返事がない?
「おかしいな、ロイがいるはずだけど……まさか」
私は慌てて扉を開いた。
「ロイ!」
案の定、カウンターの椅子から崩れ落ちるようにして倒れたロイの姿がそこにあった。
「おい、ロイ! しっかりしろ」
叫んでも、蒼白な顔は人形のように固まったまま。息はしているが、意識が無い。まずい。
「そこの薬屋の奥さん、薬を出してくれ!」
「は、はい! 今すぐに」
その間に奥から水を持ってきて、薬を受け取るとロイの口にそれを流し込んだ。この薬は確か即効性だったはず。
「ロイ……聞こえるか」
ぼんやりと水色の瞳が開いた。ゆっくり私に焦点をあわせると、彼は眉を寄せた。
「フィー? あれ、僕なんで……もしかして倒れてた?」
「ああもう、馬鹿。一瞬死んだかと思ったじゃないか。薬が切れてるならそう言え! 知ってたなら、出かけたりしなかったのに」
「ごめん。今日持ってきてもらう予定だったから大丈夫と思ってたんだ。それに死ぬわけないじゃない、知っているでしょう?」
「それでも心配した!!」
「ごめんごめん。もう大丈夫だから。ありがとう」
彼はむくりと起き上がると、微笑して私の頭を撫でた。それから、こちらを心配そうに見やっていた人のよさそうな薬屋のほうへ向くと頭を下げた。
「薬屋さん、すみません。お休みの日なのに無理をさせた上、驚かせてしまいましたね。お陰で助かりました」
「いえ、ご無事でよかった。お得意様だから、と夫が申しておりましたし」
構いませんよ、と薬屋はほっとした顔で笑った。間に合ったことに安堵したのだろう。薬を受け取ったロイが支払いを済ませると、彼女は出て行った。
「なあロイ、珍しい女性だな」
「何が」
「ロイの美貌に何一つ反応を示さないとは」
「何を考えてるのかと思えば。彼女の旦那さんは素敵な人だからね、僕など眼中にないのだろう」
「なるほど、その人ならお前と違ってうっかり薬を切らしたりしないんだろうな」
「フィー、冷たい」
ロイがやれやれと溜息をつくのを睨みつけてやった。
「ひょっとして、フィー怒ってる?」
怒っているとも。腹が立つ、立っているのも辛いくせに隠しているところとか。
「平気そうな顔だけは相変わらず得意なんだからな。私はそんなに頼りないか。店番くらい出来るぞ、部屋でとっとと休んで来い」
「……ありがとう」
部屋に向かうロイを見送った。反論一つ出来ないのは、相当体がきついんだろう。
手に持っていた薬包紙を捨てようとして、毒々しい紫色の粉粒がぱらぱら落ちるのを見た。体に悪そうだが、当然だ、これは本来毒なのだから。けれどロイには薬になる。なんとなく指についたそれを舐めてみると苦かった。苦味というのは、そう言えばもともと毒を判別するためについた味覚だったっけ? 良薬口に苦しという。薬と毒は完全に区別できるわけでもないのかもしれない。
「それにしてもあいつは病気じゃないのに、病人みたいだな」
蒼白なロイの顔を思い出す。後ですりおろしりんごでも持って行ってやろうかと思った。多分喜ぶだろう。
「ハーブティーは?」
開口一番、今は俺の補佐をしている友人はそう言った。
「ない」
「頼んだのに」
「ハーブティーをもらってこいと言うお前に、俺は悪いな、としか言っていない」
ちょっと忘れていただけだ。後で気付いたから、別の茶葉を買ってきてやったじゃないか。
「そういうのを屁理屈というんですよ。残っていた仕事押し付けられた上に望んだだけの報酬はなしですか。人が働いている間、自分は散歩とはいい気なものです。
……ずいぶんと晴れ晴れした顔をしていますが、気は済んだのですか」
「まあな」
「それはようございました」
皮肉のように聞こえて、これは本心なのだろう。浮かぶ表情はクェインにしては柔らかかった。
「クェイン、お前が気に病むことはもう、ないんだからな」
はっとクェインが顔をあげた。
ソラが死んで以来、この男は今も、彼女が攫われるときに立ち向かわなかったことを悔やんでいると知っていた。それについてクェインは何も言わなかったが。もしそれについて何か言ったら、俺が否定すると分かっていて、だからクェインは何も言わなかった。俺から否定されることで、何も無かったことにするような、俺のような卑怯さはこの男にはない。
「ソラを死に追いやったのは俺だ。前王を抜きにして、それだけ彼女に憎まれたのも愛されたのも俺以外にいないのだから。俺以外には許さない」
「そう、ですか?」
クェインの顔が何か言いたげに歪むのを遮った。
「そうだ。だからもし俺を見限りたくなったら遠慮することはない」
「……」
クェインの苦しみを知っていて、俺から何も否定しなかったのは、こいつを恨んでいたわけでなく、自分ただ一人で彼女の死を背負っていくのが辛いと思ったからだ。そうやって否定しないことで、俺に向ける罪悪感でクェインを縛り付けてしまうと分かっていても黙っていた。全く自分は弱いな、と思う。なんでこんな男が王となったか不思議なくらいだ。
「それにここはお前にとって居心地の良い場所ではないだろう?」
クェインが貴族社会を疎んでいるのは知っていた。ここはこいつにとって息苦しいところだ。その上、こいつはここでなくとも好きなように生きていけるだけの能力を持った男だ。
「好きなところへ、行ってくれていい。今まで、悪かったな」
クェインはじっと俺を見ていたが、ふと昔の口調で呟いた。
「……罪悪感だけで馬鹿な友に付き合い続けていたわけじゃない。それなりにこの仕事は気に入ってる」
「いいのか?二度と言わないぞ」
こいつがいなければ、正直王国は破綻しかねない。
「ああ」
「……ありがとう」
「礼を言われる覚えはないがな」
そう言って、クェインは笑った。
「……それにしても、あなたがそんなことを言い出すとは思いませんでした。フィオレンティーノと、ソラのことを話したのですよね」
「ああ、全て」
クェインは、俺が彼女にソラを重ねていると気付いていたようだ。
「それで彼はなんと言ったので?」
思い出す。こちらを真っ直ぐに臨む目を。怒るかと、罵るかと、そう思った。けれど彼女の出した答えは違っていた。
「生きろと、言われたよ」
「それはまた随分と飛躍していますね」
全くだ。そんな言葉が彼女の口から出てくるとは思っていなかった。いっそ殺されて贖おうとした俺を、否定した。
「そして、俺をもう憎まないのだとそう言った」
「許す、ではないんですね」
「そうだな」
もし、許す、と言ったならそれはフィーが俺に抱いていた憎しみを肯定することになるからだろう。憎まれるのに十分な理由はあると思う。それでも、彼女はその言葉を言わなかった。ただ、もう憎まないとそれだけ言った。
フィーは、一体どんなふうに生きてきたんだろう。
あの若さで、細工を作らせれば誰をも夢中にさせるような一流の品を生みだす。器用でいるようで、どこか抜けている。醒めた顔をしているくせに、憎んだ相手の話でぼろぼろ泣いて、そうかと思えば凛とした顔であのような言葉を寄越す。まだ彼女のことを、よく知らない自分に気付かされる。以前、「今を生きろ」と彼女と同じことを言ったロイは、やはり彼女に最も近しい人間なのだろう。
少し、それを羨ましいと思った。苦笑する。……どうやらまだ、俺は彼女に惹かれているらしい。彼女がもう俺を憎まないとしても。
彼女の師匠のことを、聞いてみたい。彼女の男嫌いのわけを、考え方を、彼女という人を、もっと知りたい。そんなことを思う。
「またな」と言った別れ際に、「何かあれば」と彼女は言った。会いたいと言う理由だけでは不足だろうか。
そう言えば。
彼女との接点は残っている。いささか不安な話題ではあるが。
「王様、何を考えていらっしゃるので?」
「冠だ」
「はい?」
「謎解きを始めようじゃないか、クェイン」