25.始めよう
「これが、ソラの話」
ヴィーが話し終わる頃には、ソラの墓があるという岬はもうすぐというところまで来ていた。
「俺は今でも、自分が正しいことをしたか分からない。でも、一番守りたい人が消えた後、俺が守りたいと思ったのは生まれ育ったこの国だったから、だから王になった。その力は、あると思った。闇を払ったら王になると、竜と約束していたしな」
ずっと黙りこんでいたために、少し先を進んでいたヴィーが振り向いてしまって私は顔をそむけ、俯いた。
「どうした、フィー?……お前、泣いているのか」
「泣いて、ない」
そうは言ったが、それは瞳から落ちてくる。
私は一体何故、泣いているのだろう。悲劇なんてそこかしこに落ちている。闇に覆われた10年、もっと悲しいことなんていくらでもあった。それでも、私はただ泣いていた。誤魔化すように目をぐしぐし袖で拭う。
「憎む奴のためになど泣かなくていい」
「別に、お前のためじゃない。私はただ、ソラさんの想いが悲しかった」
言い訳をするように言ったが、実際そうだった。彼女を愚かだと思ったけれど、それ以上に救われないと思った。ソラという人は、国王を愛しながらも、きっとまだヴィーのことが好きだったんじゃないか。そしておそらくその為に選んだのが、彼の言った結末だったのだ。
ヴィーの方をふと見ると、彼の瞳はうっすら潤んでいた。零れてくるものは無かったけれどそれはきっと涙なのだろう。誰もが見過ごしてしまいそうな、淡い涙。瞬き一つで消えてしまう。
なんだ、この男は。散々のろけて暢気なことだと思ったのに、いっぱいに悲しかったのか。今でも、悲しいのか。
「フィー、お前は泣き上戸なんだな……幼い頃絵本など読むたび泣いていたんじゃないか?」
涙が奇妙に止まらない私を見やり、呆れながらも、ヴィーの口調は柔らかい。彼はそっと手を伸ばし、珍しく優しい手つきで私の目元を拭った。無論手で払いのけてやった。彼は、そんな私に苦笑を漏らした。それから真っ直ぐ前を向く。
「もう終わった話なんだ。いや、今日、終わらせに来たんだ。……着いたぞ、あれが、彼女の墓だ」
城の高台を登って、城をぐるり回ってさらに進んだ奥の方。初めて訪れたその場所は、海を見下ろす断崖絶壁だった。ひっきりなしに季節に合わない塩辛い冷たい風が吹いている。
「ここに来るのは、もう何回目になるだろう」
王様はじっと墓標を見つめている。
「青が好きだったソラは海と空が何より好きだったから、俺はここに彼女を埋めた」
今日という日は空がひどく曇っているから見えないけれど、晴れた日にはいっぱいに2つの青が広がるのだろう。ヴィーの束ねられた黒い髪が風に揺れる。私の短い髪も舞い上がる。彼は、今日、何故私とここに来たのか。
「俺は、許されたかった」
その場所には、一つ墓標が立っていた。『ソラ・ギルファレス』とそれだけかかれた白い墓標。この下で永遠に眠る彼女の名前。
「俺は責められたかった」
どこかでそれによく似た、叫びを聞いたと思った。そうだ、あれは自分の声だ。『ごめんなさい、ごめんなさい。許して、私が悪かったの、私のせいでお母さんとお父さんは死んでしまったんだよね。私を叱って罰して、責めて、それでも構わないから』
――もう一度会いたい。
「でもそれは叶わない望みだった。彼女は亡くなったのだから」
『その命はその一度きりよ』。これは師匠の声だ。
「彼女のことを、一日も忘れられなかった。
……そんな俺の戴冠式に現れた突拍子もない少女は、俺を心底憎んでいた。そうだ。俺は具合よく登場したお前を彼女の代わりにしようとしたんだ。お前の憎しみと彼女の憎しみは、近いものだと感じたから。実際そうだったな。愛するものを奪った相手への、燃えるような憎悪」
どこか自嘲するように笑って、彼は言葉を続けた。
「すまなかった。
俺がずっとお前に関わろうとすることで、お前が俺を憎み続ければとどこかで思った。癒えるべきお前の悲しみも無視して。しかもお前に責められるたびに俺が思い出すのは、ソラが愛した男を殺してしまったことで、お前の師匠のことでは、無かったんだ。ソラに対しても、フィーに対しても、俺がやったことは最低だった。ここに来たのは、フィーにその話をするために。そしてフィーに、ソラに、謝るために」
私は、彼を責められない。だって、私は昔、彼と似たことをしようとした、同じ愚か者だから。両親の生まれ変わりに会えたなら、その人たちに私を責めさせようと、許させようと願ったのは、彼とどこが違うだろう。
ただ…そうだ。私にはその過ちを教えてくれた人がいた。死んだ師匠を思い出す。城で昔話をしたとき、ナンテスにも彼女の言葉をなぞってみせた。たしかに覚えていたのに。それでも私は亡くなった彼女のことにずっとこだわり続け、一人の男を憎み続けた。行き場のない世界への憤りと喪失の悲しみの態のよい生贄として。
知っていた。師匠はそんなことを望まないだろうって。だって、彼女はいつもなんと言ったか。
『目の前にいる人を力いっぱい思いなさい』
今まで、ごめんなさい、師匠。そこまで思って、私は呟いた。
「ヴィー、生きろ」
「なにを」
「私に、誰かに殺されることなんて求めるな。あんたは、ソラを愛したんだろう?その彼女も、お前を憎んでいたというけれど、結局殺せなかった」
そこにまだヴィーへの愛があったのかは、私には分からない。それでも、彼女は彼を殺さなかった。力を使いきって、皆を、彼を癒して自分が死んだ。他にも方法はあっただろうに。
「彼女に生かされたと思え、お前の愛した彼女はお前がその苦しみを味わって、それでも生きることを望んだんだ」
だから生きろ、とそう言った。
「フィー、お前は……」
「私の言葉は残酷か? 卑怯か? 私も、罪に苛まれて生きることの苦しみは味わった。生は死より難しと言うしな。ただ、私は今、お前を責めているつもりはない。私はもう、お前を憎まない」
気が付いたから、だからもういい。そう思ったとき、師匠が悲しむだろうからもう流さないと決めた、師匠を思っての涙がついと頬を伝ったのを感じた。なんだ私は、今日は泣いてばかりだな。
「フィー」
「なんだ」
「俺も、もうお前に憎まれたいと望まないよ」
「……そうか」
「だから新しく始めよう」
…それも悪くないか。
いびつに歪んだ、捩れた過去の連鎖から抜け出して、目の前にいる男を見ると、彼は随分と清清しい顔をしていた。私は、一体どんな顔をしているだろうか。
ヴィーはこちらに手を差し出す。いつだって憎らしくてたまらなかったそのてを私は見つめる。
ふと、厚い雲が割れて、青空が垣間見えるそこから光が差し込んできた。たくさんの天使の梯子が海に、私たちに、墓標に降りた。
「握手」
そう言って笑った男の大きな手を、私は握り返した。