閑話4
ナンテスの見送りから戻ってみると、宴会場、もとい舞踏会場はほとんど準備が終わりつつあった。職人の方々も鷹揚に構えているし、立食の用意がなされ、後は客を待つばかりといったふうに先ほどはなかった白い豪奢な生花が活けられて揺れている。赤い絨毯に華やかな天井、ピンクの壁と来て、白と緑は目に涼しくてよかった。
「フィー!! 大丈夫だった? さっきローズ嬢に謝られたよ、なんか斬りかかられたとかって!? 怪我はない?」
「大丈夫。大げさだな、刃に触れてもいないのに」
持ち場では、ロイが立ち上がってうろうろしていた。私の姿を見つけるなり駆け寄って、確かめるように頬に手を添えられた。熱気の中でも彼の手は冷たい。
「……ごめん」
そのまま、そっと謝られた。
「どうして」
「僕が余計なことをしなければ」
「いいって、ナンテスは行き過ぎなところもあるし、なに言っても聞かないし。ロイが遠ざけたくなるのも分からなくはない」
「……でも」
「まあ、ちょっとは優しくしてやれよ。悪い奴じゃないんだ。そのうちロイのことも分かってくれるさ」
多分な。
「彼の人柄が嫌いなわけじゃないんだけど。あんなふうだし、あんまり男扱いされないから苛々してて、それがピークに達しちゃって」
私なら女扱いされなくてもいらつかないしむしろ喜ぶのだが、彼と私では事情が違うからな。
「そうか。まあ最近、ビスクさんには中性的とか言われてたし、工房の奴らにも分かってて相変わらずプロポーズしてくる奴とかいるしな」
納得してしまう。しかしいつも平然としてる割に怒っていたのだろうか。長い付き合いなのに、分からなかった。
「まあそれもあるけど」
なんだ。じゃあ、他に何かあったか。
「いい。なんでもない」
「いいのか」
「ともかくフィーが無事帰ってきたからどうでもいい」
それでいいのか。
「なあ、とりあえず手を離して欲しい。そして櫛を貸してほしいんだけど」
先ほどから彼は私の頬に長い指を添えたままだ。もう彼の手には私の頬の温みが移ってしまっているくらい時間が経っている。
「あ。ごめんね、つい」
手が外されてほっとした。実は見上げる体勢で首が痛かった。
つい、か。そういえばお前は天然にそんなことをする奴だった。作為的な王とは違って、いいことだ。
「櫛ならこの辺にあったと思うけど。あ、あった。どうしたの櫛なんか……って、随分髪が乱れているようだけれど?」
「ナンテスを送ってきたんだが、外の風が激しくてな」
全く心地よさから程遠い嫌な風だった。大きな手と粗暴な手つきを思い出して溜息をついた。なんなんだ、私が身なりを整えているのは滑稽とでも言いたいのかあの王は。
「……風、ね」
「なんだよ」
「ううん。ねえフィー、僕が梳きなおしてあげようか?」
櫛を手に、ロイがにっこり笑った。なんだか怖いがどうしてだろうか。
「い、いや、自分でやるよ、それくらいは出来る」
手先だけは器用だからな。自分の髪を扱うのはあまり得意ではないが。ただ髪をすくだけのこと、器用さを発揮するまでもない。
「綺麗にしてあげるのに」
「いや、適当でいいって」
少し落ち込んでいるロイをいぶかしげに見つめながら、私は髪をさっさと整えた。結ぶほどの長さではないので、することはほとんどない。ロイって、そういえばトリミングが好きだったっけ? 昔、近所から預かった犬の毛を率先して優しい顔つきで梳いていたのを思い出す。梳きながら、「フィーの髪に似てるね」とか、そういえば言っていたような。……というか、私は犬のような髪なのか?
「そうだ、フィー、職人の人たちで実演のために呼ばれた人たちも、最後の30分は舞踏に参加してもいいんだって言ってたけど……」
「うん、踊らない」
手はともかく足は結構疲労している。ナンテスを追いかけて再発した筋肉痛のためだ。
「私は休んでるよ。ずっと彫金した後になるだろう。その頃にはきっと、くたくただ」
ロイは、風の悪戯が何者か知っていた。
フィーが王に会ったというのは、ローズ嬢が教えてくれた。不思議そうな顔をして。「なんだか嫌がるロイの髪をかき混ぜていたわ。誰かと思ってよく見たら王様なんだもの、びっくりしちゃった」、と。
それを聞いたのは、フィーはまだ帰っていないときのことだった。彼女のことだ、たぶんナンテスを送りに行ったのだろうと思った。それにしても王、彼は、フィーをどうしたいんだろう。彼女に寄せるのは、単なる興味か、それとも、好意なのか。そんなことを考えていると、王は、説明係となっているらしい彼の補佐のクェインと共に現れた。クェインが進行の具体的な説明をするのを聞きながら、王の様子を伺う。銀糸で末端に細やかな縫い付けのなされている以外、無駄がとことん排された白い衣装。黒い髪と白い服のコントラストは、その精悍さをストイックに引き立て、彼によく似合っている。王の蒼い目は、楽しげに場内を眺め回し、やがて自分に止まったように思われた。
視線に気付いたのだろうか。
僕の近くにフィーがいないことを少し訝しんだようだったが、彼は笑ってこちらに手を振った。回りの人たちが驚いたようにこっちを向いてくる。当然だ、何を考えているのだろう。放っておくわけにも行かずに、仕方なく手を振り返す。……相変わらず、陽気なことだ。補佐が咎めるような視線を向け、彼が苦笑して受け流しているのをぼんやり眺めていた。クェインが再び話し出すのに合わせたように、不意に、その存在感が嘘みたいに消える。人々は王からその補佐へとに注目しなおす。
相変わらず王様は、気配を断つのが得意なようだ。今日の彼は、冠を嵌めていた。フィーが今も欲しがっている冠。あれが全ての発端で。
クェインの説明を聞きつつ、そんなことを考えながら彼を眺めていると、注目が完全に収まった頃になって、彼はこちらにまたもや目を向け、「フィーはどうしたのかな」と口の形だけで聞いてきた。そしてなんとも挑発的な笑みを見せてくれた。その意味は。
多分問うまでもない。本当は分かっている。あまりに認めたくないだけで。
ヴィー。過剰な好意をフィーに寄せないで欲しい。彼女をかき乱さず、そっとしておいて欲しい。
そう思いながらも、彼女が何に傷つくかを分かっているから身動きを取れない自分が歯がゆく、彼女を傷つけてもなにかを動かして行く彼に憧憬と期待と憎悪と、そして哀れみが混じった複雑な感情がある。何も知らなければ何の枷もない。だが彼女は振り回されて、傷ついていくだろう。彼はそのどちらも理解していない。だから望むままに動くだろう。聡明と言われる彼ならいずれその意味が分かるかもしれないが、その時には、多分すでに手遅れだろう。もう、どうしようもなく傷だらけなのに、さらに深く傷ついてしまったら、彼女はどうなるだろう。そんなことを思う、幼い頃からただひたすらに彼女だけが好きだった自分は、彼女を誰より知っていて、だから動けない。
やはりがんじがらめに過去は自分を縛っている。
それを自覚するから、居心地の良い今は、もう崩れ始めているのを最近感じて焦ってしまう。彼女を『少年』と偽ることは年を経るごとに難しくなる。彼女は気付かないだろうか、ゆっくりでも確実にその体がその本来の性に則った成長を続けているのだと。
ただ穏やかな関係。彼女にとても近いのにどこまでも遠い場所。そこにずっと居たいかと言われれば正直よく分からない。
けれど、だれより傍にいたい。これだけははっきりと変わらないもの。
そう思っている自分がいる限り、王が現れなくても、長くは、楽園は続かなかったのかもしれない。
ナンテスにいつにも増して苛立ちを覚えたのは、自分が昔から変わっていないような錯覚を覚えたから。彼女にとっての自分が、いつまでも兄で、気取らずいられる中性的な友達であることに不満を抱いていたと気付き愕然とする。けれど今のたち位置が王によって揺らいでいくのを見て、それが全てなくなったとき彼女にとって自分は何になるのか、今度は怖くなった。臆病にも。
だから、もっと別な存在になろうとしても、いきなりには難しくて。
かといって自分の望むとおりに動けば、間違いなく彼女を傷つけてしまう。
傷ついて欲しくない、それなのに。
王だけでない。
無情に過ぎていく時間は、人をそっとしておいてくれない。