10.城に着いて
王城は戴冠式の行われた神殿とは少々離れた町の中心の高台にある。その大理石でできた建物は、朝の眩しい光を受けて輝いていた。
舞踏会場である其処を見上げ、フィーはただ溜息をついた。感動の溜息である。闇に覆われて以来、ここまで来ることはなかった。最後に来たのは、随分幼い頃だったか。あのときの衝撃は今も覚えている。それが、小さかったから、過去のことだから、そうなのではないかという疑念があったけれど、やはり違う。
「ダランシア、あんたはやっぱり偉大だ」
この城に畏怖しないものはいないだろう。これを設計したのは、ダランシアという一人の女性だったといわれている。遠目に見ては、この城のすばらしさは本当にはわからない。近寄ったとき、はじめて、随所に凝らされたダランシア自ら手がけたとされる数々の石像を見て人々は息を呑む。それはまるで命を持っているかのような、妖艶な悪魔、清らかなる天使、力強い人間の像。美しく絡み合う蔦模様、こぼれんばかりに咲き誇った花々、豊穣を示す稲穂や果実の装飾が壁を這う。派手になりかねないのに、長い年月を超え色あせない桜色を帯びた大理石で出来たそれらは一つの建物を彩るものとして調和している。巨大な城の外壁全てを覆っていて壮観の一言に尽きる。ちなみにダランシアは、絵も手がけた。内部では、彼女の描いた神々しい竜の降臨や英雄叙事詩を大胆にモチーフにした天井画が連なっているという。フィーはまだそこまで見たことがない。舞踏会はともかくそれらをこれから目に出来ると思うと、嬉しくてたまらない。美しさを汚すことを好む闇もどういうわけか手を出さなかった、この城の全て。
フィーのうきうきした気持ちに気付いたのか、ロイは隣で微笑んだ。親がはしゃぐ子どもを見るような視線と感じるのは気のせいか。
「なあ、ロイ、城は何で無事なんだろう?」
「・・・城そのものにも何かの力が宿っているみたいだね」
そっと壁に手を触れてロイは呟いた。術石を扱うから、彼にはそういうものが分かるのだろう。そうとう清冽な力が宿っているのかもしれないが、フィーにはそれが分からない。ただこれが、一人の人間が作ったものであることに嫉妬を超えて衝撃を受ける。一人の人間の命の短さを思うと、偉業という他ない。
二人は城に早めに着きすぎたこともあって、城の周りをぐるりと周っていた。集合場所は、使用人が使う方の出入り口がある方の、城の前。
うっとりと城を眺めてしまう。
「おや。あなたがたは貴族の方ですか?どうしたのです、舞踏会にはまだまだ早いはずですが」
黒衣に身を包んだ衛兵は二人をなぜか放っていたというか、怖いくらいに直立不動だったが、声をかけてくる者がいた。金髪碧眼の、モノクルをかけた文官風の男だ。城で働いているものだろうか。彼は仕立てのいいこざっぱりとした地味な色の服をしているが、その布が高価そうなことと、落ち着いた物腰を見て、下っ端ではなさそうだった。
「いえ、貴族では」
「……ほう?失礼をいたしました。なにやら高貴な身分の方のように思われましたもので。そんな方々が供も連れずに、このような時間にこのようなところで一体どうなさったのだろうと思い、声をおかけしたのです」
なるほど。衛兵は貴族と思って放置していたのだろうか。まあ、城に入ろうとしたら止めていたのだろうが。
「貴族の方でないとすると、ひょっとして」
「ええ、我々はお招きいただきました職人です。ただ、少し集いには早すぎたようで、せっかくの機会ですからこの美しい城を見学しておりました。それでこのようにお気を煩わせてしまって、すみません」
ロイが丁寧に頭を下げ、フィーもそれに従った。
「エルファンド工房のオーナーで術細工師のロイ・エルファンドです」
「細工師のフィオレンティーノです」
すると相手も同様に丁寧な仕草でこちらに頭を下げた。ロイがおや、という顔をしている。フィーも少し驚いた。なにせ平民に頭を下げる貴族はこの国では少ない。王が平民出身であるからこれから変わっていくかもしれないが時間はかかるだろう。そんなわけで、目の鋭さやら冷たい雰囲気だが、この人感じはいいな、とフィーは思った。
「王の補佐をいたしております、クェイン・ジュランと申します。どうぞ、クェインとお呼びください」
彼はそう言い、すっ、と手を差し出た。その手をとったロイに続いて握手すると、優男風の外見に反してクェインと名乗った男のそれは、けして労働を知らぬ手ではなく、固い手だった。向こうもこちらに似たような感想を抱いたようだったが。
王の補佐、か。あの王様を知っているから気後れすることはないが、やはり高位の文官だったようだ。
「ロイさん、フィオレンティーノさん、今日はようこそいらっしゃいました。ここでお待ちするのも退屈でしょう?一足先に会場まで私がご案内いたしましょう」
「しかし」
「いいんですか!?」
フィーとしては早く中に入ってみたい気持ちでいっぱいだ。断りの文句をさえぎられたロイが困った顔をしているのは気にしない。
「ええ」
そんなわけで、クェインに連れられて、二人は一足早く会場に入ることになった。
城に入り、クェインは2人を案内していた。職人にしては若くどこか気品もあることや、普段滅多に間違うことのない王がなぜかフィオレンティーノの名前を間違えたことが気になっていたせいもあって、なんとなく彼らに興味がわいた。浮かれている様子のフィオレンティーノはさておき、落ち着いているロイにいろいろ話を聞いた。
その一方で、王が作った職人リストになぜか女性名で記されていたフィオレンティーノを観察する。そうしてみると、首の細工師紋といい、口調といい、この人物が女性とは思えない。少々背が低く声が高めで、細いとはいうものの、まあそういう少年もいる。やはり、あれは王の間違いだろう。
それにしても、クェインは困惑していた。
稀代の細工師は魂が文字通りどこかへ消えてしまったように、ある場所で動かなくなった。それは今日の舞踏会場の中心で、ダレンシアの最後かつ最高の作品であるとされる、神々しい竜神降臨の絵が頭上に置かれているのが最もよく堪能できる場所だった。空を裂いて現れる竜の足元には渦巻く混沌が、その向こうには秩序と楽園が意匠されている。この絵は、全体的に明るく澄んだ色調で描かれている。それは、竜が長らく冬のように荒廃していたこの国に春のような繁栄を齎した瞬間を表したためだろう、と言われていた。躍動感に溢れた絵だからまあ、踊る場所には合っているのでは、と言うのがロイの淡白な感想である。それ以上に特に感想はない。そんな絵を、一心に見つめる人間。
「あの、フィーさん?」
彼は先ほど、長い名前だと呼びにくいだろうし愛称で構わないといったが、呼びかけても反応が返ってこない。
「すいません。フィーはダレンシアを崇拝しているもので……と言っても僕も本当は見惚れたりきょろきょろしたいんですけどね」
「いえ、構いませんが。まだ時間はありますし。それにしてもここまで感動している方は初めて見ました」
絵を眺めていたいと言ったロイは、だが、連れの少年の方を先ほどから温かく見守っていた。兄弟にしては似ていないが、先ほど少し聞いたところによると彼らは共に暮らして長いらしい。だから、ロイにとってフィーは大切な弟分なのだろう。そうクェインは考えた。
真紅の絨毯に立ち尽くして、シャンデリアの眩しさに負けず一心に天井を眺めるフィーは一見、若いというよりただ幼い印象を受ける。どうしたら、彼のような少年にあの細工が生み出せるのだと思ってしまう。
そう思っていた。
しかしよく見ると彼の茶色の瞳は、貪欲に目に映るもの全てを飲み干そうとしているようにどこまでも透明で。思わず引き寄せられるようにその目を覗き込んでいると、自分まで吸い込まれてしまいそうな不思議な錯覚を覚え、クェインはぐらついた。
「っ!?」
……なるほど。これがフィオレンティーノか。
しばらくすると、硬直が解けたようによろよろと動き出した彼に「フィー、満足した?」とロイが尋ねると、彼はこっくり頷いた。
「すっごいな」
一言だけ幸せそうに言うと、はっとしたようにクェインの方を向いた。
「ああ、クェインさん、すみません。つい見入っちゃって。こんな機会、滅多にないから浮かれてしまった」
「いえ」
「それにしてもここで働いている人はいいな、毎日これだけのものが見られるんだから」
心から羨ましそうに、フィーはそう言った。クェインは首をかしげて苦笑した。
「私など会場で動き回っているうちに見飽きてしまいましたよ。あなたからすれば贅沢なことですね」
「それは…羨ましいです」
苦笑するほかない。
どんなに価値あるものでも、人の受け皿はそれぞれだ。フィーやロイのような芸術に携わる職人は、きっとそれが巨大なのだろう。それなりに美しいものを見たい気持ちはあるが、クェインは自身の受け皿はそう常人と変わりないだろうとそう思う。残念だが、こればかりはしょうがない。まあ、あの馬鹿王が意外と自分よりもそういった、ものを見る目があるらしいのは癪だが。そう思いながら、クェインは首を振った。
「私の方こそあなたが羨ましい。あなたが特別な人なのだと言うのが分かったように思います。今日の細工作りが楽しみです。
……おや、皆が来ましたね」
どうやらそろそろ、予定した時間のようだ。職人達が部下に連れられてやってきた。
フィーは目を見張った。
「うわ、なんだかすごいな」
やってきた集団は、なるほどどこか一癖ありそうな者が含まれていた。
全身が職人紋で覆われた人や、随分奇抜な髪をした人、いかにも職人気質のおじいさん、筋骨隆々としているが口紅を引いていてどこかくねくねしている人など様々だ。凡人然とした人も勿論いたが。
「俺たち、浮いてないか」
この中ではなんだか、平凡な気がする。いや、ロイはある意味で非凡だが。集ってきた人々もロイのほうに自然と目が行くらしい。当の本人は平然としている。
「平気さ。非凡さを求められるのは見かけじゃなくて中身だよ、フィー」
「まあ、ね」
それもそうだ。見た目からして非凡の人に言われたくはないが。フィーがそんなことを考えていると、
「あなた方は大丈夫ですよ」
と、まるで見抜かれたようにクェインに言われた。
「どうも」
どの意味で彼はそう言ったのかひっかかったが、フィーは素直に受け取ることにした。
「さて、では私は全体の案内をしますからこれにて失礼します」
「ああ、ありがとうございました」
ロイと並んで礼を言うと、彼はどういたしまして、とにこやかに去った。
それからしばらく待っていると、クェインの声が少し遠いところからした。
「ようこそいらっしゃいました。
早速ですが、この度みなさんの技を見せる場は、舞踏会場の壁に沿って用意してあります。あちらをご覧ください。事前にお預かりさせていただいたそれぞれの作品や用具が展示されていると思います。どうぞ、それを目印にして準備を始めてください。午前一杯時間は差し上げます。午後には一度、舞踏会本番の流れと注意点を説明する予定です。それから早めの食事を取っていただいて、6時から舞踏会を始めます」
なるほど、とフィーは頷いた。
準備することはそんなにないらしい。結構時間は余りそうだ。しかし料理人などは鮮度が命と言うから、今日食材の仕入れをしたり、それを下ごしらえしたりするだろう。職によるのだ。
「ロイ、どうしようか」
「そうだね、時間は結構あるししたいなら城内見物でもしてきてもいいよ。迷わないようにね」
「ロイは?」
「僕らも使う宝石類は今日届くから、僕はここで待っていたほうがいい……ってフィー、話したと思うんだけど?」
「……そうだっけ」
「そうだよ。やっぱりあの時酔ってたんだね。まったく、君が実際に作るのに、大丈夫?」
「多分」
大丈夫だと思う。作ることには心配ない。
そう答えるとロイは苦笑した。
「フィーのそういうところ、悪いとは言い切れないけど、緊張感ないなあ」
「まあね。私はこの両手がある限りは緊張しないからな」
もし、例えば踊らなければならないのだったら緊張しただろう。しかし、唯一のとりえともいえる好きなことを、思うままに披露するだけ。フィーとしては、誰の前でどこであっても恐れはない。
「さて、今からどうする?」
「ロイが動けないんなら、ここにいるよ。まだここの天井見ていたいし」
「そう」
心なしかロイは嬉しそうだ。ひょっとして、一人になるのが心細かったのだろうか。
「心細かった?」
「ん。いや、違うけど。フィーが傍にいないのはちょっと淋しいな、と思ったのは事実」
「それを心細いと言わないか?」
「そうかな」
そうだと思うけど。違うのか?
「まあ、いいや。とりあえずここでロイと一緒に待つよ。他の職人の準備にも興味あるし」
というわけで、フィーは午前一杯ロイの隣で過ごすことにした。辺りを眺めてみると既に動き始めているところも多い。例えば料理人。野菜を断つ職人の技の切れはなるほど見事だった。
そういえば彫刻師などもいるし、刃物を扱う場合はどうするのかと思っていたが、展示・実演の場はすでに結界で囲まれており、その外に一定の大きさ以上の金属は漏らさないつくりになっているようだった。どうも、持ち込むことは出来ても出すことは出来ない仕組みらしい。なるほど、これならお偉方も安全、こちらとしても準備に滞りがなくなるし、作品を盗まれることがない。
そんなことを考えたりしながら、午前はのんびり過ごしたのだが、ハプニングは午後になって起きた。