9.それは夢のような
「痛っ」
「うわ、ごめん」
「大丈夫」
舞踏会に向けた練習の最中のこと。
フィーはやっぱり相手の足を踏んでいた。
「もうかなり疲れたみたいだね、今日はもうこの辺にしとく?」
ロイの、月光を受けて淡く光る水色の目が気遣わしげな色に揺れているのを見て、フィーは微笑んだ。
「ん、確かに。でもちょっと休憩してもう一回やろう。あと3日しかないだろう。今日で最後にするんだろ?」
「……ありがとう」
城下町から少し離れた、周囲に家のない原っぱが2人の練習場所だった。どさりと腰を下ろすとフィーは草が背中に付くのも構わずに、ごろりとそこへ転がった。
「くああ。眠い」
フィーはそう言って大あくびをした。隣にロイも座って、つられたようにあくびをしている。
と、ロイが呟くように言った。
「フィー、本当にお疲れ様。おかげで万一のことがあっても恥をかかなくて済みそうだ。ありがとう」
「どういたしまして。なんだかんだ言ってるけど、私も結構楽しかったし。こんなこと無ければ、生涯女役で踊ることも無かっただろうしな」
「生涯?それはないでしょう」
「ううん、まず私相手に躍ろうって言う男は現れないだろうし。髪短いし、粗野だし」
ロイはフィーを見つめ、そんなことないって首を振ったけれど、それは事実だとフィーは思う。
短い髪をつまんで光に透かす。嫌いな色ではない。でも、これより遥かに顔の傍にある、月に照らされた銀の髪のほうが美しい。月の女神ってこんな感じかな?彼と並ぶと余計に自分の方が男らしく見えるような気がするのだ。そんなことを考えながら、フィーが思わず銀の髪を引っ張ると、ロイはなにか考え事でもしていたのか、驚いたようにびくりとした。
「あ、ごめん。ロイの髪ってさらさらしてるから、つい手が伸びちゃってさ。いやだった?」
「全然」
ふわりとロイはわらう。
「よかった。私ロイの髪が好きだな、本物の銀みたい」
許可を得たので遠慮なく手ですく。流れるそれは艶やかで。細工に使いたくなるくらいだった。
「僕はフィーの髪のほうが好きだよ。」
「へ? そう? どのあたりが」
「獅子の鬣みたいで」
褒めてるのかそれは。胡乱な目をして睨みあげると、彼はくすりと笑った。
「そんな顔して。褒めてるのに。ねえ、触っていい?」
そう言って、こちらが答えるまもなく、ロイの手が伸びてきたかと思うと、フィーの短い髪を持ち上げて口付けた。
嫌悪はないけど驚いた。そんな私になぜかどこか安堵した目をして私の髪をゆっくり彼はすいている。ロイが。ロイがこんなことしたのって一体いつ以来だろう。そう言えば子どもの頃はいつもこんな調子だったっけ。私をお姫様扱いしてくれた。変わったのは―――
「ねえ、フィー」
「ななな、なんだ?」
踊るときより顔近い。
「他の男はともかく、僕はフィーを誘うよ。フィーが望むなら、いつだって」
やめて欲しい。そんな顔をしないでくれ。
蕩ける笑みのなか普段より深いターコイズの色をした瞳が細められてそこはかとなく色気が漂う。これは犯罪だ。と、動揺したときふと思いついた。
……なんだ。
ひょっとして女らしく私を扱って励まそうと、そういうわけか。そう思うと、落ち着いてきた。そう、ロイは優しいのだ。優しさが痛い。
「ありがとう。でもほら私が女として踊ると、下手したら性別がばれてしまうわけだし、そうすると下手すると細工資格剥奪だし。だから気持ちだけ貰っとく」
「…そう? …そうかな」
ロイ、残念そうな目をしてこちらを見つめないでくれ。
「そうです。むしろ踊るにしろ逆の方がしっくり来るよ、きっと。ロイが女装してさ、私が男装。うん、しっくり」
間違いない。自信がある。完璧にエスコートしてあげよう。男どもの羨む顔が目に浮かぶようだ。頷いていると、ロイは首を振った。
「確かにフィーは女性の平均よりかなり背は高いほうだけど、僕の方がそれより高いからね」
「ぐ」
「それにフィーは可愛いと思うよ。何でみんな気付かないのか不思議なくらい」
「う」
これは、昔よく見た兄馬鹿モードだ。久々に全開だ。そんな彼に嫌な人物が思わず重なった。
「…ロイってばいきなりどうしたんだ?あの愚王みたいだ」
「……そう?」
なんだ。表情を消して黙るな。怖い。
王のこと、格好いいとか言ってたじゃないか。それなのに彼に例えたら嫌がるとは。
ロイはじっと沈黙している間、私の髪をすいていた。丁寧な手つき。こうしていると、本当に小さい頃を思い出す。心地よくて目を閉じる。うっかり眠ってしまいそうだ。
「このままでもいいけれど、フィー本当に眠そうだね。……踊りましょうか、フィオナ様」
沈黙を終わらせてそう呟くと、ロイは私の髪から手を離し、流れるような仕草で立ち上がって、こちらに手を伸ばした。何かを誤魔化されたような気がしたが、たまにはお姫様扱いも悪くはない。休憩もまあまあ取れたし。
「よろこんで」
演じるように淑やかに手を差し出すと、しっかりと冷たい手につかまれて優しく起こされる。
「ではワルツを」
彼は静かに歌いだした。それにあわせてステップを踏み出す。
ずっと今まで、彼の歌にあわせて練習していた。どこで覚えたのか知らないが、優雅なそれは私がサビしか知らない宮廷音楽の旋律を見事になぞっている。音痴な私には羨ましい見事な歌いっぷりだ。声もいいし。
長い腕が腰に回される。距離が近い。けれど、彼は体温が低いのか、暑苦しさを感じない。これだけ踊ったのにどこかひんやりしていて、その上優美で。きらきらしくて、まるで別の生き物みたいだと思う。
踊り初めの頃の緊張はずいぶん解れてきたが、見慣れている整った顔の破壊力は健在だ。いかにも楽しそうに彼に微笑まれると、気恥ずかしい。私も一応は女なんだな、とこんなときに思う。
でも、今日でそんなことを思うのも最後。3日後には本番だ。
最後くらいは失敗をしたくなくて、筋肉痛を頭の隅に追いやり、私は細工を手がけるときくらいに真剣に踊った。真っ直ぐに、空色の目を見つめて。
一晩の夢。
ふと歌声が途切れる。
「フィー」
「ん」
「あのさ」
「なんだよ」
問うように、ステップに集中していて俯きがちだった目を上げると、珍しくひどく真剣な目をしたロイがいて、どきりとした。
「舞踏会では王に近づかないようにね」
…は? 何を言い出すかと思えば。まあ、あいつが口止めしているとは言っても気まぐれにへんな態度をされたらまずいか。
「あっちが来ない限り傍にいくつもりは全くないが。あいつも暇じゃないんだ、接点はないだろ。心配しなくても大丈夫だよ」
「そう、だよね。ごめん変なこと言った」
「どうしたんだ、疲れてるんじゃないのか」
「いや、大丈夫」
変なロイ。
王、か。
……数週間前の失態を思い出す。やっぱり大通りでやりあったのは人目を引いていたらしく、変なのに捕まってたなあ、だの、女にあまりもてずとも男にもてるなあ、だのさんざからかわれた。最悪だ。だが何より、冗談なのだといつものようにうまくかわせない自分も嫌だった。
ああ、あんな男にあんなふうに扱われるなんて!
慣れているロイはともかく、やたらと女扱いを受けるのは正直好まない。細工師の資格の話だけではなくて、男装を始めたのにはそれなりに理由がある。嫌な思い出が、王と会ったあの日以来、夢に再現されるようになった。幼い私、傘がないのに止まない雨、冷たい床、乱暴な手、叫び声、血に塗れた私の体。断片が何度も執拗に繰り返されて、眠れなかった。繰り返される悪夢。それ以上思い出したくなくて、首を振った。暗い顔をしているとロイが心配する。彼は知っているから。
が、やはり気付かれてしまったらしい。つないでいた手を少し強く握られた。
「フィー」
気遣う声が胸に染みる。
「また、あの夢を?」
「…平気だよ。今はもう。踊るようになってから疲れて眠っちゃうんだ、もう見ない。」
「じゃあダンスも無駄ばかりではなかったかな」
「うん。
……なあ、ロイ、こんなふうに二人で踊ることがもうないかもしれないと思うとちょっと残念じゃないか? 舞踏会に呼ばれる機会なんてもうないだろうし」
せっかくちょっと踊れるようになったのに。筋肉痛がない状態で踊ってみたかった。
私がそう言うと、ロイは微笑んだ。
「フィー、舞踏会でないと踊れないってことはないんだろう。君が人ごみを嫌うならば、今、こうしてるこんなふうに、また踊ればいいよ。言ったじゃない、いつでも君が望むなら僕は喜んで応じる。誘ってくれたらいい」
「本当?」
「もちろん」
宵闇の静けさに、再び歌が混じる。もうすぐワルツは終わり。でも、いつか、また。
そう思うと、先ほど唐突に覚えた奇妙な寂しさは薄れた。
それから、満ちかけの月を眺めながら、今日の晩御飯は何か当ててみたりくだらない話をしたりして、ゆったり帰った。たまには、こうやってロイとのんびり散歩するのもいいものだ。そんなことを思う。舞踏会でロイが踊るのを見られるかもしれないと思うとわくわくした。さぞかし高貴なかたがたの視線を集めてくれることだろう。
来る舞踏会で何が起こるかも知らないこの時の私は、今思えばひどくのんきなものだった。