1.戴冠式にて
とある国の戴冠式。
一歩一歩、白亜の神殿の階段を登っていく青い服の男がいる。
男、新たな王は若々しく美しく、堂々としており、これからの王国の繁栄を予見させ、この日のために集った民衆は彼に熱狂した。しかし場を満たすのは荘厳な威に打たれた静けさだった。したがって静寂の中に熱は宿り、王が壇上に上がったとき最高潮に達した。背をむけていたその顔をこちらに向けたとき、聴衆を見るその目は民を睥睨するのではなく、民の視線と想いを受け取るものだったから。
彼は為すだろう
かけらの不安もない、確信が波のようにひたひた広がっていく。
壇上には、黒く質素な服を纏った神官長が立っている。その手に持つは竜の血が満ちた神秘の石の杯。王とならんとする者と、それを見定めるような黒衣の老人の目がしばしかち合った。青年のゆるぎない透徹した眼を眺め、老人はなにやらうっすら微笑むと祝詞を唱えて杯を掲げた。
しずしずと手渡されたそれを受け取って、躊躇なく呷る。
資格が無ければ死に至ると知っていても彼は惑わなかった。
彼は為すだろう
而して『王』は倒れなかった。平然としている。
観衆はいよいよ耐え切れずに叫び出した。彼は為した、彼は為したのだ!!
空白の歴史はいよいよ終わりだ、守り神が再び我らを救う!!!もう夜に脅えることはない、我らの元に月と星と祭りが帰ってくるのだ!!
神官長は足元の崩れることのない『王』の様子を見て静かにうなずいた。それを見て、巫女達が頭を下げて退出していく。彼のための冠を届けるため。
「成程、疑っていたのだな」
ここに冠がないからもしやと思ったが。王は老人に向かって呟いた。
「ええ、あなたが屍鬼になって神聖なあれを汚すことが万に一つもないとは言えませんから」
にやり、と皺のよった、けれど張りのある顔が笑う。相変わらず食えない爺だな、と青年はこっそり呻いた。
「またなんとも皮肉なことだな。国を救ったものが国を滅ぼすことを危惧するとは」
しかもお前の育てた子どもだ。
「当然のことです。あなたが人である限り、完全ではないのですよ。生きる限り、欲と無縁なものはおらぬのです。大きいか、小さいかの違いで」
「では私の中の小さな欲が育たぬことを祈ろう。民を愛し守ろうという気持ち以上に膨らまぬように」
「私も祈っておりましょう」
珍しく含みのない笑みが両者の間で交わされた。
「…ところで遅いな、何かあったのではないか」
「いえ、大丈夫かと思いますが。確かに少し遅いですね、まさか」
「お、お待ちくださいませ、き、きゃあああ」
「あなた様はお控えにっ…ぐっ」
抑えられたうめき声が近づいてくる。
「…何かあったのではないか」
「…そのようですな。はて」
「お。あんたが『王』様?」
暢気で高めな声と共に、果たして現れたのは、なんとも味気なく、くたびれた様子の服を羽織った少年だった。
観衆も壇上の異変に気付いたらしくがやがやと騒ぎ出す。
なぜなら突然に現れた薄汚れた闖入者に驚いたこともあるし、その手に無造作に王たる者の証が握られていたこともある。
少年を引き戻そう捕まえようとする巫女やら衛兵やらを、王は「待て」、とあっさりと止めた。
少年はあわてることのない王の様子に多少つまらなさそうな顔をした。
「ふん。まったく人格者なこって、新しい『王』様は。」
「いかにも。ところでお主がそれを授けてくれるのかな」
少年の手にゆれる黄金の煌きを王は指した。彼は指でくるくると王冠を回しながら王の黒髪の天辺から足の先まで不躾にじろじろ眺めた。やがて王の凪いだ青空を閉じ込めたような目を見つめ、くりくりとした鳶色の目を細めた。
「どうしよっかな」
「おい」
「ねえ、これ欲しい?」
少年は首をかしげて答えを待っている。
「ああ、欲しくはないが要る」
「ふうん」
少年は王の答えが少し気に入らなかったらしい。
「ま、いいや。竜の血が認めたんだからあんたは資格者だろうよ。でも、それが分かっていても俺ちょっとひねくれてるから。あんたに今から1つ質問して、俺の気に入る答えを出したらこれをあげる」
どうする?
ざわり。再び聴衆が揺れる。滞りなく行くかに見えた戴冠式に訪れた珍事に、正直言って面白がっている。なにせこんなに明るい気分なのは彼らには久しぶりだったから。彼らの王が、寛容に貧しそうなきまぐれな少年に付き合っていることは、彼らの声に王がこれから耳を傾けてくれるだろうという希望を持たせた。
そんな寛大な王様は、再び試されている。
例えそれが遊びであっても、うまく答えられねば、不吉なことともなる。さて王は、どうするのか。
「承知した。」
人々が息をつめて見つめる中、王は少し面倒そうだったが頷いた。そう来なくては。ギャラリーは耳をそばだてた。
「その代わりよく答えた暁にはその手で私に冠を」
続く王の言葉に、さすがに少年はびっくりとした顔をした。目と同じ色の短い髪を、冠をもたぬほうの手でがしがし掻いた。
「い、や、それは許されることじゃないんじゃないのか?」
「私がそう望む」
にっこりと青年は笑む。
「お、王!!」
「神官長を差し置いて、そんな」
「いけません!!何をおっしゃってるんですか」
飛び交う声もどこ吹く風で青年が先ほどから沈黙を保っている老人を見やると、老いたりはいつものように笑った。
「ああ、構いませんよ」
「あんたらどうかしてるな」
呆気に取られた様子で少年が呟く。
「気にするな、昔からだ」
「そう。…分かった。いいよ。あんたの答えが気に入ったらだけど」
そう少年が言うと王は満足そうに頷いた。
「では問いをどうぞ、承ろうか」
ひとつ呼吸をして、大真面目な顔で少年は王に問うた。
「これをなんだと思う」
王冠を掲げて。