落ちてきた剣士
某県S市の某高校。その日の授業は終わり,ある者は部活動へ,またある者はとそれぞれの時間へ向かう。
「おーい,ジョモ」
隣のクラスから現れてそう言うコイツは,錦土範。この高校では唯一の,小学校からの腐れ縁だ。
「…錦土,いい加減その呼び方はやめろと…」
ジョモ,というのは小学校入学直後に付けられたあだ名だ。当時の流行りとノリで何となく決められた名だが,結構気にしている。
「いいじゃねぇかよ。俺たちの仲じゃねぇか」
ちなみにコイツのあだ名はディーノ。土と範を適当に読んでくっつけて,何となくカッコいい響きになるように名付けられている。自分もそうなるはずだったが,何をどう間違ったか街のパワーステーションのような名になってしまった。あるいは性格とのギャップがそうさせたのかも知れない。
「…で,何の用だ…?」
「おう,そうだそうだ…今日合コンやるんだけどメンツが足りねぇんだ。お前もどうかと思ってよ」
錦土は,こういう奴だ。どこまでも軽く,どこまでも日々を楽しんでいるような性格。どことなく品格を感じるようなディーノが定着したのも,ギャップのせいなのだろう。だが面倒見も良くとっつきやすく憎めない性格で,決して評判は悪くない。
「…すまん,遠慮しておく」
対して自分は,一言でいえば時代錯誤なのかも知れない。剛毅木訥,などと形容されることも多い。いくつかあった候補を退け,ジョモなんて軽いあだ名が定着したのもその反動だろう。実際のところこの錦土以外とはそれほど親しかったという記憶も無い。
「おいおい,また稽古か?せっかく共学になったんだし,最後の一年,お互い人生は楽しく行くべきだぜ?」
うちの高校は質実剛健を本分とする男子校だった。ところが全国的な共学化のあおりを受け,抵抗も虚しく今年から女子生徒を受け入れた。…と思っているのは実は自分も含めて少数派なのだろう。たとえばこの錦土などは,それを心待ちにしていた類である。
「…悪いな,他を当たってくれ」
それに,こういうと失礼かも知れないが,そこで過ごす時間が楽しいとも思えない。先日などは申し訳なさから顔を出すだけ出してみたが,ジョモ先輩などと古傷を無神経に抉られて辟易した。
錦土は肩をすくめて,またな,と次の候補を探しに出て行った。それを見送って,帰り支度を済ませ,家へと向かう。
◇
俺の名は森城茂。高校最後の一年はまだ三か月ほどが過ぎただけだが,十八にはなっている。部には所属していないが,実家が居合いの道場であることと,親戚が合気道,という触れ込みではあるが実際は古流柔術の流れを組む格闘術の道場をやっていることで,幼い頃からそれなりに忙しい毎日を送っている。
うちの高校は,やや落ち目ではあるが進学校だ。毎年何人かは有名大学にも進学するし,現役かどうかはさておくとしてもほぼ全員が進学の希望を持っている。しかし自分はこのままいけば僅かな例外に入るのだろう。文武両道の家訓もあって決して学問にも手は抜かなかったから,成績はほぼ十傑と言っても差し支えない。だが卒業後は道場の後を継ぐよう厳命されていたのだ。小さいころは特に疑問も持たずに過ごしてきた。だが高校に入ってからそれが揺らいできた。
現実問題,それだけで生きていけるほど世の中は甘くない。いや,世の中が甘すぎて需要が無いと言った方がいいのだろう。逆に,どんなに頑張っても銃には勝てないというジレンマもある。わざわざ多くの犠牲を払い,技術を高める必要性がないのだ。特に自分の修めた技術は,道場でのそれと言うよりは実戦向けのものだ。それが日の目を見るような世の中でもなければ,日の目を見る世の中の到来が歓迎されるわけもない。
いっそ捨てて…と思うにはしかし,愛着も誇りも育ちすぎている。かといって伝統芸能という名の見世物,お茶を濁す程度のぬるま湯にするのも忍びない。そんなことをずっと考えてここまで来た。
帰宅し,道着に着替えると二刀を差して道場へ。師範代として臨む夜の練習までにはまだ時間がある。それまでの間は,日課である自分の練習。あまり大っぴらにしてはいけないのだろうが,全く刃引きされていない真剣。それが静まりかえった道場の空気を切り裂く。
「雑念が入っているか…」
音の違いで調子は分かる。それだけ研ぎ澄ましてきた自負もある。だが,結局は集中できていないという事だ。まだまだ未熟,と自嘲する。しかし,現代においては所詮自己満足の部類ではないか。すぐにそんな思いが忍び寄ってくる。
「お前たちにとっても,俺が最後になるかも知れないな…」
無銘だが代々受け継がれてきた二刀。半端な気持ちで振るうわけにもいかない。鞘に納めると,板張りの上に正座し目を閉じる。道場を継ぐならば,伴侶を娶って子をもうける必要がある。だが,自分が今抱える悩みを子にも背負わせるのは忍びない。いや,時代の流れから見れば自分よりも苦しむのは見えている。この道場も自分で終わりになる,そんな予感がしている。そもそも,今どきこんなところへ好き好んで嫁いでくる女性など居るわけが…。
「…結局それか…」
苦笑する。認めたくはないが自分も健康な若者という事か。いっそ錦土のように気楽に生きられたら,とも思うが,自分には無理だという事も良く分かっているつもりだ。おそらく絶滅危惧種である自分を受け入れてくれる女性など,今の世では同じく絶滅危惧種だ。
「今日はやめておくか…」
とめどなく沸いて来る雑念に心乱され,とても身が入りそうにない。諦めて夜まで休憩しよう,そう思って立ち上がりかけて異変に気付く。
「む…」
世界が回る。地震,にしてはおかしい。自分の立っているところを中心にして回っているような感覚。
「!」
ここ十数年なったことのない風邪か?と思った瞬間,足下の感覚が消える。落下…というには不自然な緩やかな空気の流れ。しかし上を見れば,道場の天井が暗闇の中に頼りなく浮かぶ輪となって次第に小さくなっていく。
「馬鹿な…」
夢を見ているのだろうか。ところどころに稲光のような,しかし色彩豊かな光が走る暗いトンネル。そのなかを緩やかに落ちていく自分。全ての感覚が信じられなくなってきた頃,下に景色が現れ始める。
「城…?」
しかしそれは中世の,しかも西洋のものに見える。景色は次第に大きくなり,うっそうとした森が眼前に迫ってくる。そこが到着地か?と思った瞬間,しかしそれまで穏やかだった周囲が突然激しくうねりはじめた。
「なんだ…?」
消化器官がけいれんをはじめたような,異物を放り出そうとしているかのような動き。森の景色は消え,全くの暗闇の中うねりは続く。
「!!」
突然,視界が真っ白になった。
◇
「…」
足下に大地の感覚。肌には吹き付ける生暖かい風。その風が運ぶのは…生々しい鉄と,血の匂い。
(どういうことだ…?)
明るさに目が慣れ,徐々に周囲が見えるようになってくる。
「…ここは?」
思わず漏れる,つぶやき。降り注ぐ太陽,開けた平原,そして眼前には武装した数人の荒くれ。
(…囲まれている…?何故こんなことに?)
日頃鍛えた感覚は背後にも人が居る事を知らせてくる。しかし頭の方は状況についていけていない。そしてその混乱に拍車をかける新しい情報。じりっ,と動かした裸足がなにかに引っかかり,そちらを見て驚愕。
(し…死体!?)
無造作に横たわるそれは,腹部に一目で致命傷と分かる大きな裂け目をのぞかせている。顔に視線を移し,輝きを失った目に見つめられていることに気づいて戦慄する。
天罰か?己が技を思うさま振るえる世界などに思いをはせた報い。冷静ならば柄にもないと一笑に付すような,感傷。だがそれに浸らせてくれるほど余裕のある状況ではない。
「何だテメェは…?」
荒くれの一人が警戒もあらわに言葉を発する。
「何とか言え!」
「どなたか知りませんが,ご助力を!」
その時,後ろからも声。後ろに居るのは女か。しかしそれが状況の悪化を招く。
「やろう…邪魔するならテメェも一緒に…」
じりっ,と間合いを詰める荒くれ。待て,と言おうとしたが声が出ない。
「くたばれっ!」
剣を振り上げて荒くれが斬りかかってくる。
「…!」
死を覚悟するが,しかし鍛えた身体は主を守るため勝手に反応する。右手が太刀を握り,一閃。
「…あ」
顔に生暖かい液体がかかる。逆袈裟に斬り上げられた刀は皮鎧ごと胴を切り裂いていた。驚愕の表情でこちらを見つめた後,荒くれはその場に崩れ落ちる。
(…斬っ…た…)
あっけない結末。これほど簡単に斬れるものなのか。これほど簡単に,人の命は消えるものなのか,いや,消せるものなのか。返り血に濡れた顔から血の気が失せ,四肢ががたがたと震え始める。
「て…テメェ…」
残る荒くれはより一層の敵意を燃やす。先ほどはそれを認識する余裕も無かったが,生まれて初めて向けられた本物の殺気。
「く…来るな…退け…」
ガチガチと鳴る歯の隙間から必死に声を押し出す。
「うるせぇよ!先に仲間をやったのはテメェだろうが!」
「…!」
その言葉をきっかけに,恐怖が少しずつ,しかし急速に,別のものへと入れ替わっていく。極限まで追い込まれた事に対する開き直りと,追い込んだ者たちへの暴力的な怒りに。身の程もわきまえない眼前の輩に,なぜ自分が気を遣わねばならないのか。震えは徐々に収まり,それに代わって怒気をはらんだ気迫が四肢を満たしていく。
「な…?」
あまりにも急激で,劇的な変化は先方にも伝わったようだ。間合いを詰めようとしていた荒くれは警戒して立ち止まる。
「…退け,と言ったぞ」
じりっ,と一歩前へ出る。
「…退かねば,斬る」
これ以上突っかかってくるようなら,迷いはしない。
「や,やろおおぉ!」
「…くっ!」
荒くれの一人が剣を振り上げて突っ込んでくる。しかし気力の充実した今の自分には,それがまるでコマ送りでも見ているかのようなひどくゆっくりしたものに感じられた。
瞬時に間合いを詰めて,剣を持った荒くれの右手,その肩口を斬り上げて筋肉のほとんどを切断。続けてその刀を斜めに斬り下ろして逆の肩も同様にし,さらに斜めに薙いで両足の膝上の筋肉も切断する。
「な!?」
刀を納めながら身体を横へひねり,荒くれの脇をすり抜ける。荒くれは一瞬のうちに両手両足を動かす機能を破壊され,驚愕の表情を浮かべたまま勢いのまま前方へ倒れ込む。
「ぐ,ぐああぁ!」
転がったまま苦悶の叫びを上げる荒くれ。
「…殺した方が良かったか?」
「…うぐ…っ」
残る荒くれを睨みつけながら言う。気圧される荒くれ。
「これ以上犠牲を増やしたく無かったら,こいつを連れてさっさと去れ…俺の気が変わらんうちにな」
そう言って,刀に手をかけたまま脇へどけ道を開けてやる。
「ぐ…」
「去るつもりならば剣を納めろ。さもなくば…斬る」
荒くれは剣を納め,転がっている仲間のもとへ駆け寄るとそれを背負う。
「く,くそっ!覚えてろ…よ…?」
捨て台詞を吐こうとした荒くれの首筋に再び抜き放った刀を突きつける。目を見開き震える荒くれ。
「…何か言ったか?よく聞こえなかったが」
「い,いえ,何も…」
「ならば黙って去れ。そして…忘れろ」
「は,はい…」
すい,と刀を引くと,荒くれは一目散に逃げて行く。一振りして刀を納め,それを見守る。
「…ふぅっ…」
もう戻ってくることはあるまいと警戒を解いた瞬間,今までみなぎっていた力が抜けてその場にへたり込む。再び先ほどの恐怖が蘇ってきて,先ほどではないにせよ身体が小さく震える。
「あの…」
「!」
後ろからの控えめな声にハッとする。しまった,と思うがもう遅い。初めて尽くしの経験と緊張の連続で,すっかり心身は疲弊していた。
「危ないところを助けて頂き,ありがとうございました…」
「…」
女のうちの一人が控えめに歩み寄ってくる。とりあえず,殺気は無い。差し当たって身の危険もなさそうだ,そう判断して警戒を解くと,それと同時にやや落ち着きも戻ってくる。
「…気にすることはない。成り行きだ…」
情けない格好で何を勿体ぶっているのか,と内心苦笑する。
「…だいぶお疲れの様子…失礼しますね…」
「…?」
そう言うと,女は声の調子をがらりと変える。
〈大いなる慈愛の女神よ,この者の心に安らぎと平穏を与え給え…〉
(なんだ…?)
途端に身体の震えが収まっていき,心も穏やかになっていく。先ほどまでの疲労が嘘のように消え去り,ごく自然に立ち上がることができた。
「…ありがとう,と言うべきかな」
「いえ,こちらこそ…」
そう言って女はちょっと考え込む素振りを見せるが,ややあって口を開いた。
「あの…いろいろと事情はおありになるのでしょうが…まずは,お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ん…俺か…。俺は…」
名を明かしていいものかという,ささやかな不安。用心するに越したことはない。
「ジョウ。ジョウ=シーゲルだ」
言ってみて,我ながら情けない名づけに呆れる。これでは例のあだ名を笑えないな,と思いかけて,しかし元の世界と自分をつなぎ止めるかけがえのないものである事に気づいた。