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小麦の短編集

本当の幸せ

作者: 小麦

「……はあ」

 私は椅子の上で大きくため息をついた。嫌なことがあったというわけではない。むしろ世間一般からしたら非常に羨ましいと言われるような状況だろう。だが、私にとってそれは何の意味もなさない。

 私はある国の王子である。名前自体はあまり知られているわけではないが、もうじき戴冠式を控えた身の上であり、間もなく私は王となる予定だ。世間一般からすれば私はいわゆる勝ち組というやつで、誰もこの状況に文句を言うものなどいないことだろう。もっとも、それはあくまで一般論であり、誰しもが同じことを考えるわけではない。実際私はもう間もなく明けてしまうであろう夜空を見てひたすら息を吐くだけの時間を過ごしていた。

 私は今日までそれこそ普通に時間を過ごし、悠々自適な生活を送ってきた。束縛されることがもともと好きではなかったこともあってか、何度かあった国務について勉強するような機会も全て話半分で聞き流していた。だが、時間とは残酷なもので、何も覚えようとしていない私とは反対に、家臣たちは次々に私に地位を引き渡すための準備を進めていたらしい。その結果、私は何も知ることなく、こうして明日の戴冠式をただ待つばかりの身の上となってしまった。

 世間では王というのは自分の思い通りに国を動かせるだとか、玉の輿結婚ができるだとか好き勝手言われているらしいが、そんなものはまやかしに過ぎない。国を動かすのは結局のところ私ではなく私の付き人や部下であるし、金がいくらあったところで自分で使うことができなければ意味がない。言うなれば今の私は地位に縛られたただのお飾りである。そんな考えを持っている私にとってはこの今の1人で過ごしている時間は最後の自由な時間なのだ。

(……この時間ももうあと半日で終わってしまうのか)

 私は今度は心の中で大きくため息をつく。私の趣味の1つに散歩がある。のんびり何に縛られることもなく、自分の時間でのんびりと過ごせる散歩が私の一番好きな時間だった。もっとも私が1人になれることはほとんどなかったので、隠れてこっそりと出かけることが多く、その度によく怒られていたのはまた別の話だが。

(外の空気でも吸うとするか)

 私は椅子から立ち上がると、大きな窓を開け、ベランダに出る。そのまま目の前の白い策に手をかけ、空を見上げる。清々しいほどに綺麗な夜空だった。そのまま少しだけ下に目線を移すと、そこには夜空の黒を映した美しい湖と、そのすぐ手前には青々とした森が広々と広がっていた。だが、それとは裏腹に私の顔は酷く沈んでいた。実際気分はとても最悪だったし、これから立ち直ることもおそらくないのだろう。何せ私は明日には王となってしまう身の上なのだから。

「王子、失礼いたします」

 その時、ノックと共にそんな声が部屋の外から聞こえる。私はベランダから部屋に戻ると、椅子に座り直した。

「どうぞ」

 そう一言だけ返すと、中に一人の人物が入ってきた。声で分かってはいたが、その人物は私の教育係を務めていた初老の男性だった。

「明日の資料になりますので、目を通しておいてください。それと、くれぐれも脱走しようなどとは考えないように。怒られるのはあなたではなく私たちなんですから」

 初老の男性はそう言うと部屋を出ていく。この様子だと大方彼は私の様子を確認しに来ただけで、私のことなど何も考えてはいないのだろう。自分の役目がしっかりと果たせさえすればあとはどうでもいいのだ。もっとも、これは世間一般からすれば普通の考え方だろうし、私もこの男性にそこまでの愛着はない。彼の名前すら知らぬままに育ってきたのだ、感動も何も互いにあるはずがない。とはいえこの男性はまだ私と会話しようとしてくれるだけマシな方なのかもしれない。王国きっての問題児である私と会話したがる変わり者はいなかったからだ。そう考えるとこの教育係もさぞ私に手を焼いたことだろう。もっとも私は彼に同情などしない。居心地が悪かったのは私も同じだったからだ。ただ、今の対応は私にある決意をさせた。その点では彼に最初で最後の感謝をせねばならないだろう。

 私は部屋を出て行った教育係の男性を確認すると、再びベランダへと舞い戻る。もちろん書類に目を通そうなどとは考えない。今度私がしようと考えたのは至極簡単なことだった。

「よっ……と」

 私は手すりに両手をかけると、勢いをつけて思い切り飛び降りた。

(誰がお前らの思い通りになんかなるかってんだ)

 私はやはりこんなところに居てはいけない。改めて逃げ出すことに決めたのだった。



「はあっ、はあっ……」

 私は全力で地面を蹴る。先ほど見えた湖、あの湖こそが王宮と一般の土地を境とする目印なのだ。あそこまで走るのにおそらくそう時間はかからないだろう。だが、そう上手くはいかないのが人生というものらしい。

「王子が逃げたぞ! 急いで追いかけろ!」

 王宮の辺りからそんな号令が聞こえた。刹那、私の後ろは数千を超える兵隊の山で埋め尽くされてしまった。

(……やはり、逃げることは叶わないか)

 私はそんなことを想いながらも全力で駆ける。たとえどんなに絶望的な状況でも、こいつらに捕まってしまえばその瞬間に私の人生は終わってしまう。あの狭苦しくも堅苦しい空間に閉じ込められてしまうのだから。

(ああ、いっそ鳥になれたら良かった。空を飛ぶことができる鳥に)

 私の憧れの1つに鳥があった。美しい羽で空を舞い、優雅に宙を滑空する地上で唯一の動物。何度夢見たことだろう、あんな風に自由に生きることを。

(今さらこんなことを考えるなんて、私も自棄になったものだ)

 こんな希望を持てない状況でそんな夢物語を考えてしまっているのは、おそらく明日のことを考えすぎて気でも狂ってしまったのだろう。そうこうしている間にも私の真後ろには兵隊が迫ってきている。それでも私はひたすらに逃げ続けていたので、森が視界の端を駆け巡っていた。

(……しかし、何だろうこの妙な感触は)

 だが、そんな危機的な状況において、私はなぜか自分の体が妙な感触を持っていることに気付いた。振っていたはずの腕が前よりも空気の抵抗を多く受け始めたのだ。

(……これは?)

 私が腕を見る頃にはその腕は上下にしか動かせなくなっていたのだが、そんなことは些細な問題だった。というのも、私の腕だったはずのものは白い体毛の生えた別の何かに変わってしまったからだ。

(まさか……)

 それはどこからどう見ても私が先ほど思い描いた鳥の白い翼だった。そして、それを認識した瞬間、私の体は次々と変わっていく。

「お、おい何だあれは!」

「王子の身に何があった!?」

 後ろの方ではあまりに驚いた兵隊たちが何やら叫び声をあげているようだったが、私はもうそんなことより自分の体の変化に意識が集中してしまっていた。そして、それに気付いた時、そこから先の返信はあっという間だった。その翼を一振りするたびに、私の体は白い体毛に包まれ、さらに一振りすると足は細く短く、それでいてしっかりと体を支えてくれていた。さらに一振りすると、足に水かきと口には小さなくちばしが形成された。時間にしてわずか数十秒、あれよあれよという間に私の体は一羽の白鳥へと変化してしまったのである。

(体が軽い。私の体ではないみたいだ)

 私はその体で優雅に空を舞う。もう話すことなどできなかったが、今の私にそんなものは必要ない。

(これはいい)

 私は代わりに退化した声帯で大きく一鳴きすると、遠くの方で少しだけ明け始めた空に向かって羽ばたいた。

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