(85)天才少女と壁ドンの使い手/そよちゃん視点
雨が降りだした。
今日は降らないと思っていた。
下校でキクチさんを使えない。これは面白くない。
私は、ため息をついてキクチさんを地下のドックに置いていき、生身のまま廊下を歩く。
完全下校時間は迫っていて、もう殆どの生徒は下校してしまっている。
高崎先生との課外授業は、いつも学校が締め出されるギリギリまでやっている。
先生は忙しいはずなのに、私に随分と構ってくれる。
私が「元不登校生徒」だからなのか分からないが、そういう事を考えると気が沈むのであんまり触れないようにしている。
私は、あまりキクチさんを脱いだこの姿を見られたくない。
なぜなら、横浜の倉庫に眠る仲間の居ないキクチさんの時と違って「みんなと違う」から。
きっと、普通の人なら私が「みんなと違う」と気づいてしまう。
だから、品川で一般人と会った時も怖かった。
周りの知らない人たちに見られてる気がして、ひそひそ話なんか始めて……きっと私が「普通じゃない」事がバレたんだと思って泣きそうになった。
そんな中で、一般人を見つけた時、安心して泣きそうになった。
一般人といれば普通になれる気がして、ずっとくっついてたけど――アイツ、迷惑じゃなかったかな。
それでも今もショートメールのやり取りをしてくれてるから、意外と面倒見が良いのかもしれない。
が、それとは別のアカウントで取っている「キクチさん」として接している通話アプリのやり取りも、気さくで接しやすい。
つまり、私は今、一般人と2つの名義を使い分けてメッセージのやり取りをしているわけだが……。
正直、もどかしい。
一般人の言う「キクチさん」も「そよちゃん」も私だ。同一人物だ。
「何やってんだ私」感がものすごい。
量産型一般人のくせに、会話するのは、機械をいじってるより気の遠くなる程大変だ。
「はあ……」
思わずため息が漏れた。
パソコンでメッセージアプリ、携帯電話でショートメールと使い分けるんだが……「そよちゃん」としての自分はどう振る舞えばいいか分からない。
分からなくて「メール 女子 かわいい」と何度もキーワード検索をした。
これが他人の事じゃなくて自分の事だと自覚する都度ゾッとした。
一般人の言う「かわいい」であろうと思ってしまった。
何のために?
……わからない。
一般人とはロボットについてあーでもない、こーでもないと話していたいのに、絵文字・顔文字なんかを織り交ぜて「女っぽく」「かわいく」しようとしている。
一体この文面の女は誰なんだ。
「かわいい」って一体何なんだ。
昇降口に差し掛かった頃。
「うわっ」
一人で悶々と悩んでいたら誰かにぶつかった。
「やあ」
なんて挨拶され、不審に思って顔を上げると見慣れた顔。
一般人の友達のチャラついたヤツだった。
名前は確か……えーっと…………敷。ナントカ敷。鉄工所とか有名な岡山県の地名のナントカ敷……。うーん、思い出せん。
「どうしたの? 何か悩んでるみたいな顔してるけど……」
彼はウィンクする。
ウィンクだと?! それを自然にやってのけるなんて、何者だ、コイツ。
絶対タダ者じゃないぞ。
「君みたいな女の子が悩んでると僕も心穏やかじゃない」
うわ、コイツ何言ってんだコイツ。
やっぱりコイツ、タダ者じゃない。
エリコの彼氏のキンパツが「どこの里の者だ!」とか言ってきそうだ。
いや、多分既に言ってると思う。アイツは恋愛以外は素早いからな。
とにかく、それくらいこのナントカ敷は異様だ。言ってる事とやってる事がおかしい。エイリアンかもしれない。
「……なんなんだお前。キモイぞ、チャラ敷」
「わーお、君、僕の名前、知ってるんだね。ひょっとして僕の事、どこかで見ててくれた?」
しらねーよ。半分間違ってるのに何サラッと知ってる扱いしてんだよ。
キモいな、コイツ。マジでキモい。
「まあ冗談はともかく」
「……冗談だったのか。キモいからそれ、やめた方がいいぞ」
「そんな事言われると傷ついちゃうな~。でも、キミみたいな子にそんな目をされるのはきらいじゃないよ」
チャラ敷は訳のわからない事をペラペラと言う。
キモイっていうか凄いな、コイツ。キモイを通り越した何かだよお前。
だけど、彼はそのヘラヘラ顔を急に改めて、真剣な表情で私を見つめた。
「菊池原さんでしょ、キミ」
「は?」
心臓がギュッと縮こまり、背中に嫌な汗が垂れる。
これは恐怖だ。「なんだコイツ」の域を越えた何かが体の中に押し寄せる。
「な、な、誰だそれ!」
知られたくなくってとっさに嘘をついた。
チャラ敷は唇をぺろりと舐めてさっきとは別人のような妖しい笑みを浮かべ、顔を近づけてきた。
後ずさりした私は壁際まで追い詰められ、チャラ敷は空いた手で壁に手を突く。
知ってる! これは噂に聞く「壁ドン」だ。
エリコの弟のメガネが習得しようとして相撲の張り手みたいになってる例のアレだ。事実に最初見た時、メガネは相撲の練習をしているんだと思っていた。
本当の壁ドンはこんなにスムーズなのか。
壁にドンってするのも力任せなんかじゃないし、第一コイツ全ッ然緊張してねえぞ! さも当たり前のように壁ドンをしてやがる!
おのれ、こんな所に「壁ドン」の使い手が居るなんて……。
「やーめーろーー!」
私の顎に手を伸ばし、顎をクイと上げ、優雅に微笑んだ。
責めてもの抵抗に拳でチャラ敷を叩くが、相手はびくともしない。
「何すんだ! キモい! あっち行け!!!」
「心外だな~。キミみたいなカワイイ子、ほっといたらバチが当たっちゃうだろー」
なんだコイツ。呪文みたいにペラペラと変な言葉吐きやがって。
「やーーーめーーーろーーー! カワイくなんてない! お前はキモい上に頭がおかしいのかーーー!!」
「こっち見てよ、“そよちゃん”。ちゃんと気づいてたよ、俺は」
チャラ敷の顔が迫る。カワイイって言われても全然うれしくない。むしろ怖い。なんなんだ、なんなんだコイツ。
その時。
「たああああああっ」
稲妻の如く、横から何かが一直線に飛んできて、チャラ敷は遠くまでふっとんだ。
何かの正体は、中西玉枝だった。
読みながら歩いていたんだろう、参考書手を持ったままの彼女は吹っ飛んだ倉敷を一瞥してフン、と鼻を鳴らす。
「かわいそうに。怖かったでしょ」
中西は私の手を取ってスカートの埃を払ってくれた。
そのまま下駄箱へと連れられ行く。
「平気だ」と言いたかったが、情けないことに足に力が入らない。
「玉ちゃんは手厳しいなあ~」
チャラ敷の声が聞こえた途端、彼女は立ち止まってツリ目を更に釣り上げてサッと振り向き――。
「次、玉ちゃんって言ったら殺すから」
チャラ敷、じゃなかった。倉敷は「とほほ~」と情けない声をあげていた。
漫画以外で「とほほ」とか言うヤツなんて初めて見た。
なんなんだ、アイツ。
中西は下駄箱に入った分厚い本をカバンに詰め込み、「さ、行きましょ」と私の手を取った。
「あ、あの……また親切にしてくれて……あ、ありがとう」
中西はきょとんとする。
「……傘」
「ああ、そんな事もあったわね」
なんだコイツ。こんな淡白な反応しやがって。
――カッコイイじゃないか。
カッコイイ。うん、カッコイイぞ。
コイツからは鉄砲のネエサンみたいなタイプの豪胆さを感じる。
もっと――この人の事を知りたい。
私は、握られた手をギュッと掴んで顔を伏せる。
「お、おい。お前の事……姐さんって呼んでいいか?」
中西姐さんは「は?」と不可解そうな顔をした後に
「ま、いいけど……」とぷいと目を逸らした。
いかすな。さすが中西の姐さんだ。
★今治くん視点
「あれ、倉敷くんこんな所で何してんの?」
俺は廊下で猫のように寝そべる倉敷くんを発見する。
「おぉ~誠一、心の友よ~」
「誠一じゃなくて聖夜な。誠一は竹原な」
「ああ、そうだった」
そうだったじゃねーよ。お前絶対わざと間違えてるだろ。
「……とにかく、何してんだ」
「別に……ヒーローの御膳立てに失敗しただけ。でも――これも役得かなあ」
なんて、幸せそうに目を閉じて脇腹をさすっていた。
うわ、気持ちわるっ。