(71)彼女と選んだスタンド・バイ・ミー 4
コンクリートの隙間から覗く傾き始めた西日を浴びながら、集合住宅の階段を一歩一歩登っていく。
確か三階建だった。
どの部屋だったかも、ちゃんと分かっている。
昔の記憶がほとんど思い出せない私でも、ここはちゃんと覚えている。
会社や学校が終わってお腹をペコペコに空かせて夢中で駆けていった。
アポは無い。だけど、大丈夫だと思う。
今まで、中西さんは「未来を知っている」様子だったから、今から私が来る事も何らかの形で予知しているんじゃないかと思う。
どんな顔で出迎えられるかわからない。
怖い顔をするのかな。
また、無理して自分の持ってる本当の感情を抑えてまで、刺々しく話しかけてくるのかな。
あった。この部屋ね。
角から二番目の部屋。
私は意を決してドアノブをひねる。
鍵は――やっぱり掛かっていない。
ゴクリと唾を飲み、意を決してドアを引いた。
その刹那。
中から何かが勢い良く飛び出して私に飛びかかってきた!
罠?! そんなまさか!
「おかえりパパ! 今日はパパが大好きな玉枝の特製ハンバーグだよ!」
甲高い女の子の声。
体に重たい何かがのしかかって、私は尻もちをつく。
それでも、飛び出してきた何か――それは少女だった――は私に抱きつく。
「あ、あの……」
「っぁ…………!!!」
何か――少女は、私の姿を認めた途端に、一時停止ボタンをしたみたいにピッタリと固まる。
「美味しそうね……玉枝の特製ハンバーグ……」
少女の正体は、紛れも無く中西さんだった。
すこぶる上機嫌そうに顔がデレッデレの満面の笑顔で、なおかつエプロンを着てお玉を装備しているけど。
彼女は間違いなく中西さんだ。
けど――この子、今――”パパ”って言わなった?
「~~~~~~~!!!」
中西さんは顔から湯気が出そうな勢いで顔を真赤にすると、私を突き飛ばし、もがきながら慌てて引き下がると急いでドアを締めた。ドア越しで、ガチャガチャどったんと騒音が響いている。
な、ななな。
いい、今の――何なの~~~~~!???
再びドアを開く。
エプロンとお玉を置いてきた中西さんが、フンと興味なさげに私を見る。
「待っていたわ、広陵院エリコ。貴女の行動はすべて予測済みよ」
「嘘つけーーー!!!」
私はドアをドンと突いて大声で叫んだ。
私はダイニングに通され、シンプルな椅子をすすめられた。
あれ、記憶にある、私の前世のそれよりこざっぱりとしている。
そっか、お母さんの作ったパッチワークみたいな手芸用品が飾られていないんだわ。
中西さんのお母さんは生まれた時に死んじゃったんだもんね。
「くっ、何なのよ。貴女は水族館で最後の時間を桐蔭聖と過ごすはずでしょう」
私の前にティーカップを置きながら、中西さんは悔しそうに息を漏らした。
「何なのよはこっちの台詞よ! 何なのよさっきの別人物! あなたがファザコンだなんて聞いてないわ!」
「……くっ。ファザコンじゃないわよ!」
中西さんは顔を真赤にして怒鳴った後、心底恨めしげに私を睨みつける。
「……パパが帰って来たと思ったから……しょうがないでしょう」
「何? あなた、ウチのお父さんの事パパって呼んでるの?!」
前世の記憶では――ウチのお父さんは零細企業の工場主で、現場も兼任してる。
軽トラックで通勤していて、いつも帰る時は顔を真っ黒にしていた。
確かに優しくて、――百歩譲れば――カッコイイお父さんだけど、「パパ」ってガラじゃない。
別にイケメンじゃないし、ふつーのオッサンだし。
少なくとも、前世の私は「パパ」って人物はそういう人じゃないと思っていた。
「あなたのパパじゃないわよ。あの人は私の! パパ!」
中西さんが歯をギリギリとさせ、顔を真赤にして涙目で信じられないという目で私を見て机をバンバン叩く。
すごい剣幕だった。恐るべきファザコン根性。
今まで見せた冷酷っぽい表情よりもよっぽど迫力がある。
「あ、あの……」
「貴女は私のパパがどれほど素晴らしいかまるで分かってないわね! ……もう……最っ低!」
半ばヒステリー状態の中西さんは両手でバン、と大きく机を叩いた後に、突っ伏してしまう。
怖い……。
ファザコンモードの中西さんは今までより段違いに鬼気迫るものがあった。
「でも……これからは、パパを、頼んだから」
小さく掠れた声で、中西さんは言った。
この時、今まで会ったどの瞬間よりも、「彼女」がどういう人なんだか、ちょっと分かった気がした。
よくわからないなりに、家族仲はとても良かったんだと思う。
――『余計なお世話。周りは母親が居ないとかで勝手にヘンな目をするけど――私は十分なの。パパさえ元気なら。あの人が笑ってくれるなら私は――』
もしかして、夢のなかで言った事も、「お母さんがいないから大変」って言われたくなかったのかもしれない。
きっと、彼女は今までの人生がとっても大好きで、楽しかったんだと思う。
ゲームでは江梨子が料理上手だった設定は無い。
これは想像だけど、中西さんはお父さんと2人暮らしだったから家事も頑張って、調理部に入って料理も練習したんじゃないかと思う。
「あの――その事なんだけど。顔を上げてくれないかしら」
中西さんがゆっくりと顔を上げる。
窓から暮れ始めた西日が差し、キラキラと彼女のまつげを染めている。
「……だめ」
今にも泣き出しそうな真っ赤な目で射抜くように、彼女は言う。
「っ、まだ何も言ってないでしょ!」
「大体分かる! どうせ”あなたのために入れ替わりの話はナシにしましょう”とか言うんでしょ! 貴女はいつもそう。そうやって私に”譲ろう”とする」
中西さんは椅子から立ち上がり、まるで子供みたいにイヤイヤと首を振る。
まさに今、彼女の言った事を提案しようとした所だった。
むしろ、ここに来たのも最初からそのつもりだった。
本当は、中西さん自身が、入れ替わりを拒否しているという事実を確認するためだけにここに来た。
そして、まさにそれが証明された。
中西さんは、家族を愛している。
お父さんの事を私に頼んでまで、入れ替わって何かをしようとしている。
「私が困ってるって知ったら絶対に引かないでしょ! 貴女はそういう人。だから、私は本心を悟られないようにする必要があった」
中西さんはテーブルに両肘を突き、顔を隠すようにして震えた声で言う。
指も、体も、恐れているように震えているように見える。
「――でも、中西さんは本当は嫌なんでしょ」
「嫌じゃない!! 最初から決めていたの!!!」
「最初――?」
「そう、最初から――あなたが私と”体を交換して生まれよう”と提案してくれた時から、あなたが死んでしまう前にもう一度体を交換しようって――!」
「そんなの知らない!」と言う前に、中西さんは私の両手を掴んで睨みつける。
その瞬間、頭が真っ白になって、瞼が重くなって、私は机に突っ伏して意識を落とした。