(67)夕暮れ・アイスキャンディ・ノスタルジー
やっぱりこの場所に来れた。
古びた教室。
背中側の黒板には生徒達の下品な落書きがごちゃごちゃに描かれていて、机の並びもぐちゃぐちゃ。
きっと男子が掃除中にふざけて遊んだりしたのね。
多分だけど――私もそれに混じってたんだわ。
前世の私はそういう子だった。
建物だけじゃなく、暮らしぶりまでが桃園に比べると本当に「下々」の生活と言われても反論できない。
だけど、私はここが好きだった。
大好きだった。
彼女はどうだったのかしら。
嫌い――だったのかしら。
だからそうやって私の前に現れて、体を返せなんて言ったりして――
コースケが帰ってきたのを確認せずに、私はランニングと筋トレを終わらせると諸々の準備を済ませて眠りについた。
”会いたい”人はそうじゃないと会えなかった。
だから今、”会いたい”人に会える場所に来ている。
学校では私の事を徹底的に無視するつもりだったみたいで、一言も会話ができなかった。
お昼休みはなんだか知らないけどどこか行っちゃったんだけど。
かきあげようと思った髪は無く、手は、スカッと虚しく空を切る。
窓から夕暮れが差す。
昔はこの光景が日常のはずだったのに、私の日常は随分とおかしなところに来てしまった。
ガラ、と音を立てて引き戸が開いた。
誰が来るかは分かっている。
彼女は大股でこちらへとやってきた。
「中西さん」
そう呼ばれた女の子は、長い髪をかきわけ、フンと鼻を鳴らして腕を組む。
桃園の制服に身を包み、これでもかとお金持ち特有の気品を撒き散らす少女。広陵院”江梨子”。
つまり、今でいう――中西玉枝さん。
「”中西さん”はあなたでしょ。昔のあなた。そして、これからのあなた」
江梨子はそう言って、私の前の席の机に座り、膝に肘をついて窓の外を眺めた。
「ねえ――体を交換するのって、いつまで待ってくれるの」
「今すぐにでも、と言いたいところだけど――そうね、明日まで待ってあげる」
「明日?!」
そんなの、聞いてないわよ。
私は思わず立ち上がっていた。
「それじゃあ意味がないじゃない!! 私、近いうちに火事で死んじゃうかもしれないのよ?!」
それを聞いて、江梨子はあからさまに不機嫌になって顔を歪めた。
「それが何。私は貴女と違って家族に情も何も無いの。だから逃げるなり何なりできる。安心して。貴女は中西玉枝の体をあげるから」
「ちょっと待ちなさいよ! 人の話を聞いて! ……あなた、もしかして機嫌が悪い?」
「は?」
「ならいいわ。少し食べながら話しましょ!」
私は江梨子の手を取り、走りだす。
さすが、夢の世界。
ポンと地面を蹴れば一気に加速するし、普段じゃありえないような浮き方。例えるなら月の表面を蹴っているような感じでスイスイと前に進む。
階段を何段も飛ばして下りて、靴も履き替えずに学校から飛び出す。
「すごい、誰も居ないのに――再現度完璧じゃない!」
私は校庭からの眺めを見てついつい感嘆の声を挙げてしまう。
遊具の位置や、町のトレードマークになっている工場の煙突も、何から何までそのまんま。
きっと、前世の名前すら覚えていない私の記憶じゃなくて――きっとこれは江梨子の物なんじゃないかしら。
「ヘンな憶測をするのはやめなさい。……仕方ないわ。少しくらい付き合ってあげるから、アンタの行きたい所に付き合ってあげる。……引っ張られるのは好きじゃないの」
「やったー!」
私は両手挙げてくるくると回ってみせる。
夢の世界はいつもに増して体が軽い。一度スピンして見せたらグルグルと漫画みたいに回転しちゃった。
「……貴女、散々苦労させられた広陵院江梨子相手によくそんな余裕見せつけられるわね」
「だって江梨子はそんな悪い子じゃないものっ!」
「っ」
|江梨子が嫌な子になったのは、ボタンの掛け違えだったって身を持って知らされた。
お金持ちっていうのは、そう――とにかく難しいのよ。
「ココ! 駄菓子屋さんがあるの!」
「……知ってる」
学校から少し歩いた所に駄菓子さんがある。
到着するなり私は声を上げた。
「おばちゃーん!」
「だから……誰も居ないわよ」
江梨子は呆れたようにため息をつく。
「そっか」
私はちょっとさみしくなりつつも、外に出ているアイスケースから2本棒のついた、半分に割るタイプのアイスキャンディーを取ってベンチに腰かける。
「じゃーん、ソーダ味~」
江梨子もやれやれと言わんばかりに腰掛けた。
「コレ。食べよ。私半分に分けるのすごく得意だから」
彼女の目は完全に疑っている。
「ホントよ。見てなさい、洋裁で培った器用ステータス!」
袋からアイスを出して両方の棒を持ち、バランスを意識して力を入れる。
ザクッ
嫌な手応えがした。
「あー」
結果は7:3。小さい方のアイスには棒の先が覗いてる。
惨敗だった。
私は大きく割れた方のアイスを江梨子に渡してトホホとベンチに腰掛ける。
「いいわよ、いらない」
「いいのよ。中西さん、いっつもイライラしてるじゃない。コレ食べたら元気になるかなって」
江梨子は呆れたと言わんばかりに私を見据える。
「大きなお世話よ」
「ちゃんとごはん食べて寝てる?」
「寝てるわ」
「美味しいでしょ、お母さんの作ったごはん」
江梨子は訝しげな顔で私を見る。
「私が作った」
「え、すごい! お手伝いするの?!」
江梨子は首を左右に振る。
「ウチにお母さんなんて居ないわ。私が生まれるのと一緒に死んじゃったもの」
「え?」
「ちょっと待った。その顔はやめなさい」
江梨子は目を吊り上げて、私の言おうとした事を止めようとする。
「余計なお世話。周りは母親が居ないとかで勝手にヘンな目をするけど――私は十分なの。パパさえ元気なら。あの人が笑ってくれるなら私は――」
「パパ……?」
江梨子は「マズい」と言わんばかりに口をつぐみ、アイスキャンディーをパクパクと食べていく。
7:3の大きいアイスは食べるのが難しいのに。
江梨子ったら、随分、食べ慣れてるような――
「……あなたは何だってすぐに”譲ろう”とするのね……」
「ちょっと、中西さん?! なんか――光ってるんだけど……!」
その時、江梨子が白く光っている事に気づいた。
髪が消えていき、肌は崩れようとしている。
砂糖菓子を水の中に溶かすように――
ボロボロと剥がれ落ちて何かが見えそうになるのを江梨子は手で隠しながら苦しげに言う。
「ちっ。とにかく、明日! 明日この夢であなたと私の魂を交換するの! いい。必ず来なさい!」
「ちょっと待って! もしかして、貴女――!」
私が質問を終える前に、光に包まれながら江梨子――いえ、中西さんは消えてしまった。
強い光が視界を塞いで、私は慌てて布団から飛び起きた。
「うっ」
なんだかよくわからないけど、強い感情が湧き上がる。
モヤモヤが掛かってその正体がよく見えないけど、思わず涙がこぼれた。
多分、誰かの事が大好きで、離れるのが辛くて悲しくてしょうがない。
そんな気持ち。
これは、私のじゃなくて――中西さんの気持ちなんじゃないかと思う。
だって私はまだ、この体を中西さんと交換するなんて事に対して、戸惑いしか覚えていない。
だめだよ――中西さん。
絶対に入れ替わりなんてさせないわ。
彼女の何がそうさせようとしているんだか分からない。
だけど、これだけは分かったわ。
あの子、自分の人生を投げ打って、何かの犠牲になろうとしているんだもの!!