(59)夢とプリンと中西さんと
「うわっ!」
私は突っ伏していた机から顔を上げ、辺りを見回す。
あーー、やらかしちゃった!
つい温かかったから補習中なのに寝ちゃったじゃない!
教室。
だけど、桃園学園の豪華絢爛かつ清潔な内装じゃなくって、築うん十年の、貧乏臭い普通の教室。
あれ、桃園学園って私がハマってる乙女ゲームの――。
やだ、何でゲームと現実を比べちゃってるの?
それってちょっとイタい……。
いえ、違うわ。そうじゃない。
思考に掛かる違和感が拭えない。
私は机に広げられた数学のテキストを見る。
赤ペンでバツ印がびっしりと付けられていた。
「あれ……」
この問題、今なら解ける物ばっかりなのに。
今?
私は補修で、宿題を忘れたから先生にプリンを取られちゃって、居残りって言われて――。
うう、私のプリン……。この恨みは生まれ変わっても忘れなかったんだからね!
あれ、生まれ変わり?
一体なんの事?
教室には私が一人きり。
外は夕陽が沈みかけてて、教室がオレンジに染まってる。
「これは……夢」
そうよ。
これは、前世の頃の私の夢ね。
今の私は広陵院エリコ。
お金持ちで、優しいお父さん、暴れん坊のお母さん、うじ虫、そしてメイドの東出さんを始めとしたたくさんの使用人さんと暮らしてて――。
え、また夢?
この間、護摩行(火事)の夢を見たばっかりじゃない。
どうして――
あ、壁に落書き。
マナー悪いわね。
あれ、この落書きって――友達がしたんだわ。
友達が、「これ、タマちゃんの似顔絵」ってニカって笑って、私の似顔絵を落書きして――
あれ、私って前世では”タマちゃん”って呼ばれてたんだ。
そうね、ずっと名前も思い出せなかったもの――
タマちゃん……玉井……玉村……玉枝……玉木……案外、多摩とかかもしれないけど。
うー……やっぱりぜんっぜん思い出せない。
私、何から”タマちゃん”になったんだろう。
そういえば私って子供の頃から前世の名前、思い出せなかったのよね。
でも、必死に走ったり遊んだり、朝ごはんを食べたり昼ごはんを食べたりおやつを食べたり晩ごはんを食べたりしてたから――
ってごはん食べてばっかりじゃない、私!
とにかく、前世の知識は食べ物の事ばっかりで、いまいち役に立った試しもないし、「まあいっか」って思っちゃってたのよね。
前世とか、思い出しても寂しくなるだけだし。
そうよ、広陵院エリコは前を向いて生きてるの!
次のごはんは何かなってワクワクしながら生きてるから、別にいいのよ。
とはいえ、名前が分からないのってどうかと思うんだけど――。
教室の引き戸が開かれる。
あ、マズい。
私は慌ててシャープペンを握り締めた。
夢の中だけど、やっぱりサボるのは気が引けるし――。
「別にいいわ」
だけど、教室に入ってきたのは――流れるような腰までの黒髪、気品の漂う桃園の制服、すらっとした白い脚に膝下のハイソックスを履いた――広陵院江梨子、だった。
嘘、私?!
「私じゃないわ。貴女は広陵院江梨子じゃない」
広陵院江梨子は鋭い目つきで私を睨みつける。
うわ、美人だけどすっごく感じ悪い!
私も人を睨むとこんな顔になっちゃうのかな。
うーん……気をつけようっと。
「フン、相変わらず脳天気ね」
広陵院江梨子は私に何かを投げつけた。それを慌ててキャッチする。
四角い鏡だ。
「っ!!」
鏡を覗いて、私はぎょっとする。
だって――
だって、この顔――知ってる――。
黒髪のショートカットで、少しキツい目をしてて、薄い唇はピンク色で――。
「私に返して」
広陵院江梨子は、私に近づき、私の肩を突く。
私は椅子から転げ落ち、それでも唖然としたまま広陵院江梨子の顔を眺めていた。
「あなたの体、私に返しなさいよ――」
彼女は息を小さく吸い込む。
私は、固唾を飲んでその様子を見守っていた。
何も、言えない。
息が苦しい。
怖くて怖くて、何も考えられない。
「ねえ――中西玉枝さん――」
私は慌ててベッドから飛び起きる。
窓からは朝日が差し込んでいて、カーテンを開けている東出さんと目があった。
「エリコ様?」
私は自分の手のひらを見つめ、握ったり開いたりを繰り返す。
私の前世の名前は――そう、中西玉枝。
そして、私のクラスメイトの中西さんこそが、広陵院江梨子なんだ。
入れ替わって生まれてしまったの。私達。
だから、江梨子は私の体を返して欲しくって、夢にまで出てきたんだと思う。
よくわからないけど、多分、そういう事なんだって、無理やり分からされた感じ。
不思議な事なんだけど、あの夢が無理やり私の頭の中をいじくって、理解をするようにしてしまったんだと思う。
「エリコ様、元気がありませんようですが……」
東出さんが私の側に寄り、額に手を当てる。
ひんやりとした手が気持ち良い。
それに――とっても心が落ち着く。
あんなに尖っていた気持ちが、みるみる優しい気持ちに変わっていく。
「熱はないようですね」
東出さんはにっこりと、優しく微笑んだ。
「なんだか最近、忙しそうですけど。無理はしないでくださいね」
東出さんが私の頭をなでてくれる。
今はすっごく嬉しい。
子供の頃から。江梨子だった時代から、私は東出さんが大好きだったなぁ。
優しくて、キレイで、いつもニコニコしてる東出さんが、大好き。
「何か、食べたいものがあったら言ってくださいね。百合子さんにお願いしておきます」
「……薄焼きタマゴのオムライス」
東出さんが目を丸くする。
好きだったのよね。前世――そう、つまり――私が中西玉枝だった頃。
うーん、やっぱり自分の前世の名前がしっくりこないわね。
いきなり思い出したから違和感がひどいわ。
「あ、えっと、何でもないわ! 栗原さん達が作ってくれた物なら何でも嬉しいし!」
東出さんは私の頭に手を置いたまま、ニコニコしている。
「わかりました。そのリクエスト、お答えします。今度、一緒に喫茶店に行きましょう」
なぜか急に懐かしくなって、私は東出さんに飛びつき、しばらくそのまま抱きしめて合っていた。
ごめんね、江梨子――あなたにこの体を渡すの、まだ、少しだけ待って欲しいの。