野ばらに、さよなら/つぐみ視点
今日は初等部最後のイベント、合唱発表会の日だ。
衣装はリコちゃんが数日連続で徹夜してデザインしたものをみんなで作った。たくさん種類があるのに、本当に凄い。
私はソプラノのソロを担当していて、サテン生地の、ピンクのフリルのドレスを作って貰った。お姫様みたいな衣装だ。私を見たリコちゃんは、手を合わせて「似合うわね、つぐみに似合うように作ったんだけど、予想以上じゃない!」って自分のことみたく喜んでくれた。
リコちゃんはアルト担当。上は襟だけ白い布地を使った、グレーの地厚な生地のブラウスで、スカートはネイビーのフレア。裾には黒のレース。胸元はピンクのリボンを結んで、真ん中に真っ赤なバラのコサージュをつけている。
「ソロは花型だからそうもいかなけど、他の子は別の機会でも着れるものを作ってみたの」って楽しそうに言ってた。
一時期、形の良くない手提げ袋を作っては皆に配っていたリコちゃんは、お裁縫の腕がぐんと上達して、クラスのほとんどの衣装を自分で作ってしまっていた。
リコちゃんは凄い行動力があって、とっても尊敬してる。皆のヒーローみたいな子なのに、いつも私を褒めてくれる。
私、本当はそんなリコちゃんのことが羨ましい。
けど、私が頑張ると、リコちゃんがたくさん褒めてくれるから、ガリ勉なだけで、地味で目立たないだけだった自分の事が前よりずーっと好きになった。
だけど――。
私は演奏班の輪っかに混じって笑ってるコースケくんの方をチラリと盗み見る。
グレーのジャケットを羽織って、ヴァイオリンを片手に持つ彼は、少し背が伸びた。
出会った頃より随分目が悪くなったみたいで、ノンフレームのメガネをかけるようになった。
リコちゃんには「根暗っぽい」「没個性的」「オタクだわ」とか散々な事を言われてるけど、コースケくんの白い肌と、サラサラとした黒髪に、あのメガネはよく似合ってる。
ピンと伸ばした背筋とあいまって、知的でとてもかっこ良い。
実際、男子にも女子にも凄く人気があって、常に皆に囲まれている。
あの停電の夜、毛布の中で震えていた、守ってあげたくてしょうがなかった男の子は、もうどこにも居ない。
いつの間にか、コースケくんは私を「つーちゃん」と呼ばなくなった。その代わり、「花巻」と他人行儀に呼ぶようになってしまった。一緒に通っていたマナー教室も、私と彼と、別の習い事に当てるようになったから、辞めてしまった。
最初はマグカップでココアを飲んでいたお茶会も、今、コースケくんは居ない。
リコちゃんと別の女子を呼んで、騒がしいけど、どこか寂しく行われている。
もう、コースケくんは遠くに行ってしまった。
時間って、なんでそんなにいじわるなんだろ。
胸がぎゅっと引き絞られたように痛くなる。
リコちゃんの叫ぶような早口と舞台袖を踏む地団駄が聞こえた。
指揮棒を持った桐蔭くんと何か言い争いをしてるらしい。これも日常茶飯事だった。
あの2人はいっつもそうやって、楽しそうで、気持ちをぶつけ合って、本当に羨ましい。
停電の夜だって、2人が息ぴったりの連携であっという間にごはんを作ってしまった。
私も、この気持ちをコースケくんに言える日が来るのかな。
うつむきそうになると、ドン、と背中を叩かれた。
「つぐみ、緊張してる?」
リコちゃんだ。後ろには桐蔭くんも居る。
なるほど、桐蔭くんも、さっきまで緊張でガチガチだったのに、少しほぐれてる。
「あはは、ちょっとだけ……」
私は頷く。半分は嘘だけど、半分は本当だった。
「大丈夫よ、つぐみならできる」
コースケくんとよく似た顔。女の子らしい丸みを帯びた顔は、少し前のコースケくんとよく似ていた。それが切なくって、だけど安心してしまって、思わず泣きそうになる。
「ダメ。泣くのは終わった後よ。そしたら皆でラーメン食べましょ」
そう、リコちゃんは、コースケくんに「成功したら皆でラーメン食べよう。姉さんの言ってる豚骨? ってのでいいよ」って言われて、それだけのためにここまで頑張ってくれた。
本当に、たった1杯のラーメンのため。
リコちゃんは少ない報酬でもそれ以上に頑張る、すごく立派な子。
今では思い出すだけでも恥ずかしいけど、お母さんが持たせてくれた私の微妙なお菓子も、凄く嬉しそうに食べてくれた。
リコちゃんと出会わなかったら、きっと私はガリ勉のままで、転入してきた新しい学園には馴染めず、たくさんいじめられてたと思う。
当然、こんなステキなドレスを着る機会だってなかった。
こんなに楽しい日々を教えてくれたリコちゃんには、感謝しても、し足りない。
「気合よ気合い、いくわよ、つぐみ」
リコちゃんと、高く掲げた拳を突き合わせる。
弱くて守られる女の子のままじゃいたくない。
私は、強くなってコースケくんを支えてあげられるような子になりたい。例え、傍に居られなくても、何らかの形で――
停電の夜、私は変わろうと思った。
料理の勉強を始めた。
広陵院のおうちのコックさん、栗原さんが先生になってくれて、お皿洗いから始めた。
何年かして、知ってる料理なら、大体自分で作れるようになった。って言ったら言い過ぎだけど、かなりたくさんのレシピを覚えた。今年のお正月、自分の家のおせちは半分以上自分で作った。
ある日、栗原さんに「キミは我慢強いよ」と褒めてもらった。「手間を惜しまない」事が得意だって教えて貰った。あの停電の日、尊敬の眼差しで眺めていたリコちゃんの手際とは全く逆だった。
例えば、何時間もスープと向き合って、こまめにアクを取ったり、もやしのヒゲのひとつひとつを取ったり。そういうのが料理の見えない調味料の、「愛情」とか「まごころ」って言うらしい。
ステージに照明が灯り、視界が明るくなる。
桐蔭くんの指揮に合わせて、コースケくんのヴァイオリンが、切なげな音色を奏でる。
曲はヴェルナーの「野ばら」。有名な詞と曲で、CDで聴いたら、天使みたいな高く澄んだ歌声が凄く綺麗だった。たまたま高い声が出せたから、私はソロを取れたけど、本当にそれだけ。
独唱部分を歌い上げる。
悲痛の叫びを上げるようなヴァイオリンの音にドキドキと鼓動を打ちつかれながらも、私は丁寧に一節一節を音にしていく。
「私は運が良かっただけ」。
そう思ったから、辛抱強くたくさん練習した。
リコちゃんの家に遅くまで帰らずに、合唱パートを練習したり、私の歌を聴きながら、衣装を縫う針をもったままウトウトするリコちゃんを揺すって起こしたりした。リコちゃんも、頑張っていたから、私もがんばれた。
夜食を作ったら、凄く喜んでくれた。「おいしい」って。歌もたくさん褒めてくれた。
遅くまでヴァイオリンを練習してるコースケくんにも届けたんだけど、食べてくれたかな。
最近じゃ、気軽に話しかけられないし、リコちゃんに聞くのもなんだか申し訳ない。
歌詞の勉強会で、「野ばらを折るなんてひどいクソガキね」ってリコちゃんは言った。多分、頭の中に特定の子を思い浮かべてると思う。野々村のお家に住んでる、桐蔭くんにだけ話しかける、あのちいさな女の子――。私が知る限り、リコちゃんが怒ったみたいな態度を取るのは、桐蔭くんとあの女の子だけだ。
「野ばら」は、曲の最後、少年に折られてしまう。野ばらは棘を少年に刺しても、痛みすら覚えて貰えない。野ばらは折れたまま。
「私なら弁護士を雇うわ」ってリコちゃんは堂々と言っていた。野ばらだから、お金持ってないと思うんだけど……。
そういう理不尽をねじ伏せる勇気を、才能を、リコちゃんは持っている。「訴えて、たっぷり慰謝料をふんだくるわ。ついでにそいつが持ってる株主優待券も全部ふんだくるから」とリコちゃんは気色ばむ。
野ばらの世界観に株主優待券はないんじゃないと思うんだけど……。最近のリコちゃんは「株主優待券」の存在に夢中だった。「株主優待券は魔法のチケットなのよ!」って言って、ファーストフード店で優待券を出して、お金を払わずにたくさん入ったポテトをムシャムシャと食べる姿も、なぜか堂々としていた。
図々しい気もするけど、本当に、なぜか、よくわからないけど。ちょっとカッコ良い。
「野ばらのこと。折っていい?」と聞いた少年に、野ばらはこう言っている。「いつも私を思い出して」って。
野ばらは自分のちっぽけさを知っていたんだと思う。山の中に咲く、不釣り合いな綺麗な花は、少年のことが好きだったんだ。
折られてしまっても、少年の――コースケくんの思い出に残れるんなら、私、きっと嬉しい。だから、野ばらは折られる事を「全然構わない」って言ったのかな。
それを、詩人さんはわかってるから、書き留めて作品にしたんじゃないかな。
でも、私はもう、「それは違う」とも、わかってる。わかってしまった。
私の中に住み着いた、優待券でポテトを食べるリコちゃんが教えてくれた。「折られたら、負けじゃない? どんなに分の悪い片思いでも、傷つけられておしまい、そんなのじゃダメだよ。やられたら、最低でも倍返しよ」
すべてを歌い終えて、礼をする。
終わらない拍手に胸が熱くなって、色んなものがこみ上げそうだった。
私、強くなりたい。