(32)ふたりきりとうもろこし
私はふらふらとする体に身を任せて歩き始め、気づけば、豚汁パーティの時に桐蔭くんに連れて来てもらった中庭にたどり着いていた。
そっか、悲しい事があるとここに流れ着くようになっちゃったのね、私ったら。
それくらい、良い思い出だったのね――あの豚汁と、桐蔭くんの腕の中の心地が。
って私ったら何考えてるのかしら!!
しっかりしなさいエリコ、何考えてるのよ。
ほら、五感で感じなさい、エリコ。嗅覚を最大限に開放するのよ、エリコ。あまーい香りと、醤油の焼け焦げたこうばしい香りが一緒になって漂ってきてるじゃない。
え?
これって焼きとうもろこしの香りじゃない。
香りは、あそこにある、うちのお屋敷で一番大きい木の裏側からフカフカと漂ってきている。
絶・対・食・べ・る!!!
持ち主を襲ってでも食べるぞ、私は。
こちとら既に口の中がすでに焼きとうもろこしなんだ。
わかるでしょ、「今日はラーメンたーべよ」って思ってた時に目当てのラーメン屋が閉まっていた日の落胆した気持ち。
私はそれの焼きとうもろこし版よ!
ああ、ラーメン食べたい。コーンの乗った味噌ラーメン。
でもやっぱり焼きとうもろしの方が遥かに食べたい!!
そのためなら人間なんてやめてやる!!!!
私はクラウチングスタートを切り、目を光らせ、夢中で一直線に駆け出す。
ちょうど、バネに弾かれたビー玉のように。
ボウガンから放たれた矢のように。
匂いが強くなったところで、急ブレーキをかける。足の裏に、摩擦であつい熱が伝わった。(気がした)
私が急ブレーキをかけたせいで、芝が削り取られ、土がむき出しになっている。
「あ」
そこに居たのは、桐蔭くんだった。バッチリと目が合った。
あぐらをかいて七輪の前にどすんと座っている桐蔭くん。
網の上にとうもろこしを一本乗せて、うちわで扇いでいる。
「引っかかったな、エリコ。これは罠だ。火遁の術の応用だ」
「いただきます」
桐蔭くんが何か言ってる。
私は焼きとうもろこしを手に取ってかぶりつく。
お、おいしーーーー!
口の中でぷちっと弾けるコーン、じゅわっとエキスが口に広がる。
それが、醤油の香ばしい香りが鼻に抜ける。す、すごい。香ばしすぎ!
あまじょっぱい。甘さが際立つ。
し、し、幸せ~~~~!
「ごちそうさま!」
某アイーンの人がスイカを食べるみたいに(このネタ知ってる子はいるのかしら)、私は焼きとうもろこしを平らげた。
美味しすぎた焼きとうもろこしをゴクリ、と飲み込み、香ばしい風味の余韻にひたる。
この際、手があつくてヒリヒリしてるのは気にしない。
なぜなら私は人間をやめたから。
「で、なんか言ったっけ?」
「……何でもない」
桐蔭くんは少ししゅんとした顔でこっちを見ている。
両眉を下げてしゅんとする桐蔭くんは耳と尻尾を垂らした犬みたい。
「あ、桐蔭くん。貰っちゃってごめんね。食べる?」
私は桐蔭くんにほとんど身の残っていないとうもろこしを向ける。
「いい」
桐蔭くんは左右に首を振った。
「エリコが嬉しそうだから」と、何かをつぶやいて、頬をほんのりと染めている。
「あ、ごめん。全部食べちゃったもんね。ホントごめんね、桐蔭くん」
すいません、心の中では「超ラッキー! 先に食べ切っちゃえばレディーファースト叩きこまれてるボンボンは文句言わないに決まってるよねーーヒャッハー勝ったぞ私!」とか転生前でも思わないようなクズい事思ってました。本当にごめんなさい、桐蔭くん。
「軍手……使うか?」
軍手を私に差し出した桐蔭くんは七輪に蓋をして消火を済ませていた。
桐蔭くんは膝を立てて座っていて、そこに顔を預けている。
セクシーだった。
白い額に、真夏の汗を食んだ髪がはらりと落ちている。
たかが10歳の子供とは思えない程の色気だった。
もちろん、焼きとうもろこしの魅力には敵わないけど。
今の桐蔭くん、七輪の炭臭くなかったら女子にキャーキャー言われてもおかしくないわよねー。
普段はヘンだけど、やっぱり改めて見るとカッコ良い。
女の子が群がって、こういう風に優しく対応する桐蔭くんを想像すると、少しむかっとした。
って、なんでよ。
その時、ドンという音がした。
音の方に振り返る。
打ち上げ花火だ。
少し離れた所で暮れなずむ空に、花火が舞い上がり、パラパラと降りてくる。
「エリコ、特等席。行こう」
桐蔭くんは私の手を取って立たせてくれる。
背中で、花火が咲いた。
桐蔭くんはいつもより上機嫌そうに笑っていた。
優しい微笑み。
自然と上がった口角は、嫌というほど彼が優しくて善良な子だという事を訴えてくる。
花火の上がる音。
私の胸の奥にあるよくわからに感情も、一緒に跳ねる。
「エリコならこの位の木は登れる」
そう言って、七輪を遠くに離した後、桐蔭くんはするすると木に登って、どっしりとした枝に腰掛ける。
ちょっとした木の幹くらいの太さはある。
前言撤回、やっぱこの人不思議ちゃんなだけで、別に優しくなんてないわ。
「桐蔭くん、私……一応、これでも女なんだけど」
「一応!」「これでも!」を強調して私は言う。
この間のケイドロの時に登った木はこんなに大きくなかったし、体に抱え切れないような太い木とかどうやって登ればいいのよ。
そもそも桐蔭くんに女の子扱いされてないのかと思うと、少し凹む。
何でこんなにガッカリ気分になるのか、理由はわからないけど。
「気だ。気を放て。自然は勝手にに吸い付いてくる。早く来い、エリコ。こっちは良い眺めだぞ」
いや、あんたのニンジャ設定聞いてないから。
「気」って何よ「気」って。小学5年生のくせになんで中二病なのよ。
だけど、このまま地上で「ぐぬぬぬ」ってしてるんじゃあ署長の名が廃るってものよね。
見せてやろうじゃない、運動神経学年トップクラスの意地。
確かに女子扱いされないのは不服だけど、私は登るわ。
待ってなさい、桐蔭くん。
「ところでエリコ」
桐蔭くんはゴソゴソとする。
「実はここに焼きとうもろこしが一本ある」
どこからともなく桐蔭くんが一本焼きとうもろこしを取り出して、私に見せつけた。
な、なんだってーーーー!
私はお尻にロケットブースターが付いたみたいに秒速で木を登り切る。
あとは枝に移ればオッケー。思ったより楽勝だったわ。さすが私の運動神経!
「ふう、待たせたわね、桐蔭くん」
「……待ってない」
桐蔭くんはあっけに取られて私を見ていた。
花火が私達の顔を照らす。
彼の美しい碧眼に花火が映った。
どきり、とした。
私は桐蔭くんの手に引かれ、枝に案内され――
と、思ったらバランスを崩して足を滑らせ、私は真っ逆さまに落ちた。
真下は生け垣になっている。
バサバサ、と音を立て、衝撃を緩和されながら落ちていく。
やばい、と思って心臓が止まりかけたけど、痛みは思ったより少ない。
どうして?
「……え」
「平気か、エリコ」
鼻先に迫った綺麗な顔に、私の心臓が大きく跳ねた。
桐蔭くんが、生け垣と私に挟まれる形で私を守ってくれていた。
「と、桐蔭くん?!」
私は慌て手桐蔭くんと生け垣から降り、桐蔭くんが降りるのを手を引いて手伝ってあげる。
その一連の動作で、桐蔭くんが痛がったり、様子がおかしかったりとかはなかった。よかった、骨折はなさそうね。
彼のキレイな顔は、生け垣の枝に傷つけられて、ところどころを怪我している。
私は桐蔭くんの顔の傷に手を伸ばす。
思ったより傷は少ない。打ち身も生け垣で軽減してるみたいで、真顔で肩を動かしたりしてたけど、キレイな顔の右端に十字傷ができている。
うっすらと切ったみたいで、血は滲んでるだけ。多分、跡も残らない。
「平気だ。どこも痛くない。それより、エリコは?」
「私は平気だけど……桐蔭くん、顔に傷が……」
「平気だ。そんなもの」
にべもなく桐蔭くんは言う。本当にどうでも良いことみたいに。
「エリコに傷がつく方がよっぽど問題だ」
どきん、とした。
それに、どうしようもなく嬉しかった。
彼はちゃんと私を女の子だ、って思ってくれてる。
桐蔭くんは私を守って傷ついたのに。なんて身勝手なの。
でも、やっぱり嬉しい。
心のなかで、罪悪感と喜びが天秤みたいにグラグラと揺れてる。
花火の音が絶えず聞こえてくる。
顔が熱くて、耳の奥のほうがヒリヒリする。それに、胸のドキドキか止まらない。
「と、とりあえず応急処置しましょ」
私はポケットからハンカチを取り出して、傷の血を拭ってばんそうこうを貼ってあげた。
「私を庇ってくれたのは嬉しいけど、もう無茶はしないでね。桐蔭くんに何かあったら、私、かなしい」
私はドキドキをむりやり抑えながら、桐蔭くんに強い口調を向ける。
桐蔭くんはコクリと頷く。そして、貼られたばんそうこうを撫でて、少し俯いた。
「エリコが悲しむなら、しない。俺は、エリコが大切だ」
ぎくりとした。
背中に汗をかく。
その先の言葉を期待して、私は拳をぎゅっと握って正座した腿の上に置いた。
「大切な、友だちだから」
脱力感。
なんていうか、「ですよねー」っていう感じ。
さっきまでのドキドキが嘘みたいに引いていって、桐蔭くんがいつもの「残念なイケメン」に戻っていく。
そうよ、そもそも私がさっき感じてたあれだって吊橋効果みたいなものじゃない。
そう、私と桐蔭くんはあくまで友だち。よくって「特別な友だち」。それでいいじゃない。それ以上、何を望むっていうの。
「そうよ桐蔭くん。桐蔭くんは私がいきなり死んじゃったら嫌でしょ? だからこの間のケイドロで怒ったのよ。……殴ったのはやり過ぎだと思うけど」
どんどん語尾が小さくなって、最後に「ごめんね」と言う頃にはとうとう囁くような声になってしまった。
「反省してる」
桐蔭くんは肩をすぼめて言った。
私はおかしくなって笑ってしまった。
「でも反省はもう終わり! 特等席で花火でも見ましょ」
今度はちゃんと木に登って、二人で花火を見た。
花火は綺麗で、まるで一瞬の出来事だったかのようにあっという間に終わってしまった。
その間、私はなぜか怖くて桐蔭くんのばんそうこうの付いた顔を見ることができなかった。