(20)豚汁が食べたいな
熱にうなされながら、ずっと身体は温かい何かに包まれているような心地で、なんだか幸せな気分だった。
心があったまるような、そんな優しいかんじ。
目を開けると、お母さまのキレイな顔。
手は私の頭を撫でてくれている。
そっか、だからあったかかったんだ。
「おかあ……さ……」
身体の全部が重くて、ふわふわして、舌を自由に操れない。
「エリコ、アタシがいるから安心して寝てな」
お母さまは、優しい目で私を見ていた。だけど、その目は真っ赤だった。
私の意識はそこで途絶えた。
数日後。
「良かった……ちゃんと熱も下がってる」
目にクマを作ったお母様が体温計を見てほっと一息をついた。
私の熱は下がって、身体もうまく動くようになったけど、今日は大事をとって学校をお休みすることになった。
「お母様……大丈夫?」
そう聞くとお母様は頼りない笑みを浮かべ
「子供が元気なら親だって元気になるんだよ」
と言った。その後に自嘲の笑みを浮かべる。
「せめてもの罪滅ぼしって事でさ……」
私はお母さまに飛びついて、抱きしめた。
「そんなことないよ! ずっと付き添って、あんまり寝てないでしょ、大変だったでしょ」
「……いいんだよ。親はそういうモンなんだ。本来、そういうモンだからさ」
今の時代、一度だってこんな献身的な事をできる親は果たして多いのかしら。
私はハッキリと「多い」。なんて言えないと思う。
それに、子供に献身的で母親が犠牲になる事が「良い」とされる時代は終わりつつある気がするの。
だけど――それでも、私は今、母様の体温をひとりじめして、胸いっぱいに喜びが溢れる程、幸せだった。
「よし、エリコ。アンタのワガママ、アタシが聞くよ。何でも言いな。今までの分の罪滅ぼしって事でさ」
え、何でも?!
「豚汁が食べたい!」
私はほぼ脊髄反射的にこの言葉を投げていた。
お母さまは驚いた顔を見せた後、クックと堪えるように笑う。少し顔色がよくなったみたい。
「アンタ、そんなんでいいの?」
「違うもん! とびっきりのワガママだもん! 豚汁はみんなで食べたいの。お母様、コースケ、お父様、東出さん、栗原さん達、他の下働きの人たちも! お屋敷のみんなで!」
私は今世に生まれ変わって学んだわ。
食事は大勢で食べれば食べる程楽しいの。
誰かと分け合って食べると、いつもよりずっと美味しいの。
だから、私はみんなで美味しいものが食べたい。
「ね、お母さま。つぐみも呼びたい!」
「ああ、花巻さんトコの。……確かにあの子とは仲良くしといた方がいいね」
お母様はニヤリと笑って続ける。
「あの子と仲良くしてればあの栗大福を毎年食べれるかもしれないし」
お母様の思考は全く私と同じだったのでした。
私は堪えきれずに吹き出してしまった。
「な、なんだよ」
「ううん、私も同じだなーって、あそこの栗大福は美味しすぎるもん」
お母様も釣られて笑みをこぼした。そして、優しい目つきになって私の頭を撫でてくれた。
お母様に撫でてもらうのは、やっぱりとても嬉しかった。
「豚汁、やろっか。庭を使って炊き出しみたいにしてさ、寒いけど外で食べたら絶対おいしいよ」
「うん!」
「ですけど百合子さんの体調が治ってからにしましょう」
親子水入らずのはずの空間に、なぜか別の声がした。
「ひ、東出さん?」
「ああ、あかり?! いつの間に」
そう、東出さんだ。東出さんは笑っているのに、なぜか少し怒ってるようにも見えた。
「まったく、百合子さんは無茶しすぎですよ。お熱だってあるでしょ」
東出さんが指摘したので、私はお母様の額に手を延ばす。
「あっつ!」
お母様は私の風邪が伝染ってしまったみたいだった。
「いいんだよ、大人だし」
「よくありませんからね~。早く直さないと長引くので、もう自室に戻って好きにいびきかいて寝てください」
そう言われ、東出さんに引きずられるようにしてお母様は去っていってしまった。
そっか、風邪伝染ってたのに、無理してまで元気なフリしてくれてたんだ。
「――お母様、ありがとう」
私は小さくつぶやいて、少し恥ずかしくなって布団を被った。
夕方、桐蔭くんが学校のプリントや宿題を渡しに来てくれた。
なぜか東出さんじゃないメイドさんに案内され、屋敷に上がって応接室でココアを飲んでいる。
「うまいな」
「乾パンと合わせてもおいしいよ」
テーブルを挟んだ向かい側に座り、私もココアに口をつけた。
熱がある時はろくに味わえなかったけど、今は十分に口の中に甘みが広がっていく。
「なあ、エリコ。明日は学校来れるのか?」
桐蔭くんは心配そうな顔で私の事をじっと見る。
相変わらずブルーの瞳はキレイで、前程ではないにしても、やっぱり悲しみそうに揺れている。
「うん。もちろん。心配してくれてありがとね」
そう言うと、桐蔭くんは私から目を逸らした。そして
「あ、ああ。お前がいないと……その……」
何か口ごもってしまった様子で顔を伏せている。
だけど、意を決して桐蔭くんは姿勢を正してまっすぐに私を見据えた。
「逃げても隠れてもつまらない」
きっぱりと言い切った彼がどうしようもなくおかしくって、私は笑ってしまった。
桐蔭くんはブレないなあ。
「ね、桐蔭くん。週末にウチに来れない? 屋敷のみんなで豚汁やるんだ」
「豚汁? なんだそれは」
「ふふっ、最強に美味しい料理だよ。どんなのかは、当日まで秘密ね」
そう言って、私はニヤっと笑う。
桐蔭くんに豚汁を気にってもらえるといいな。
桐蔭くんに来て欲しいな――
去り際に、桐蔭くんは私に小さな花束をくれた。
「そんな大げさな」って笑ったけど、余りに一生懸命だったから、笑っちゃいけない気がして、ちゃんとお礼を伝えた。
そしたら、桐蔭くんはなんにも答えずに回れ右してズンズンと歩いて行ってしまった。ヘンな桐蔭くん。
そして週末。
我が家の庭で豚汁パーティーが行われた。
ガーデンテーブルセットが何組も置かれ、ウチで働いている人達も座っている。
最初はどこか遠慮がちだったけど、今はなんだかんだ落ち着いたかんじ。
「たーんと食べな」
寸胴鍋を前に、お母様は仁王立ちして豪快に笑っていた。
今日のファッションはカーキのVネックの長袖シャツにジーンズ。ネイビーのダウンベストを着て軽く防寒をしている。
「なんだか、リコちゃんのお母さん、雰囲気が変わったね」
同じテーブルに座ったつぐみがひそひそ声で言った。
「女の人ってそういう人が多いんだって」
コースケが言う。
多くないと思うけど、多分東出さんか誰かに吹き込まれたんだのよね、きっと。
「俺は豚汁がどんなものだか偵察に来ただけだが、気になるな。敵のスパイの仕業かもしれん」
むっつりとした顔で桐蔭くんも言う。言葉のチョイスがニンジャ忍者してる。
スパイって誰?!
でも、断らずにちゃんと来てくれた。なぜか、すごく嬉しい。
「ハイ、お待ちどう。アンタらの分だよ。おかわりもあるからいっぱい食べな」
お母様だ。そう言って、お盆から豚汁を一人一人の前に置く。
湯気の立った豚汁は余りにおいしそうで、味噌の香りがふんわりと鼻に入る度に心が満たされるような気持だった。
「いただきまーす」
皆で声を揃えて、豚汁に箸をつけた。
「わあ、おいしい!」
そう感嘆の声をあげたのはつぐみ。
コースケもそれに同意しながら、つぐみにやさしい視線を送った。
「むっこれは……旨い!」
桐蔭くんも驚いて整った形の眉を上げている。
私は――
なぜか、豚汁を一口飲む度に、涙が溢れ、こぼれていた。
お母さんの味だ。
前世の、お母さんの味。
胸が苦しくて、切なくなって。だけど心はぽかぽか暖かくて、涙が止まらなくなってしまった。




