いーてぃんぐみー!
私はコイが好きだ。
それはもちろん、ラブ的な意味のあれではなく、魚の鯉のことだ。
私の通う小学校の校舎裏には観察池という所がある。
そこには様々な種類の生き物が飼われていて、中でも私はその小さな池の中を悠々と泳ぐ鯉に目が惹かれている。
ダジャレ風に言うなら、鯉に恋してるのだ。
そして今日も今日とて私は観察池に忍び込んでいた。
別に観察池は立ち入り禁止という訳じゃあないんだけど、校舎裏にあるからか、先生たちはあまり好んでこの場所を生徒に紹介しない。
「うっへっへー、今日も来たよー。鯉たちー」
ポケットの中からビニール袋につめた餌を取りだして、それを観察池の中にバラ撒く。
すると観察池の中を自由気ままに泳いでいた鯉たち数匹が集まってきて、水面に浮かぶ餌を食うために顔を出す。
その様子に満足した私は一度頷き、池の近くにある岩に腰掛けて弁当を広げた。
ここで弁明をしておくと、なんだか言い訳のように聞こえるかもしれないけれど、別に私は、クラスの中で孤立なんかしていない。
孤立しないようにクラスの中心の担ぎをしている子もいるけど、私はそんなことをする必要がないぐらいには、クラスに馴染んでいる。
雨の時とか、諸事情で観察池に行けない時とかは、友達と席を並べて食べるし、食事が終わり、昼休憩になったらみんなと一緒に遊ぶ。
自分で言うのもなんだけど、中々友好的な性格をしていると思う。
友達百人ぐらいなら、すでに達成済みだ。
そんな私が友達からの誘いをすべて断ってまで見に来るのだから、鯉がどれだけ魅力的なのか、語るまでもまでもない。
鯉は良い。
大きくて、優雅で、綺麗で、美しくて、そしてなにより――。
「おーしおし、餌はまだまだたくさんあるからねー。どんどん食べて大きくなりなー」
時折新しい餌を投げ入れながら、弁当をつまむ。
実に心地良い昼食である。
「うん?」
そんな折である。
観察池を挟んだ向こう側に、一人の女の子がいる事に気づいたのは。
私と同じ制服を着ている。
しかしその子に私は見覚えがなかった。
まあ、自分の交友関係は高学年や低学年にまで広がっていると豪語するつもりはないし、多分、見てくれからして、低学年の子だろう。
彼女は私が気づいたことに気づくと、観察池にポツポツと浮かんでいる(設置されている)岩を足場にして、私の方にやってきた。
その挙動はどこか危なっかしくて、足を滑らせて池に落ちてしまわないか、ヒヤヒヤした。
私の近くにまでやってきたその子は、私の手元を――より詳しく言えば私の膝の上に広がっている弁当を覗き込んだ。
「美味しそうですね」
「……食べてみる?」
私は弁当から適当にタコの形を模したウインナーをとった。
見知らぬ人とのスキンシップは、相手が興味を持ったものから始める。
そうして私は、友達百人つくってきた。
名も知らぬ年下小学生なんて余裕余裕。
女の子は私が差し出したウインナーを不思議そうな目で見ていたが、もう一度無言で促してみると、彼女はそれを口にした。
もぐもぐと咀嚼する。
「お、美味しいです」
「そりゃあそうよ。なんせ私が作ったんだから」
作った。と言ってもただ焼いただけなんだけどね。
率直な声をあげる子は嫌いじゃあない。
気分が良くなった私は、弁当に残っていたおかずを再び彼女に与えた。
その度に彼女はもぐもぐと咀嚼して美味しそうに食べる。
そんな事を何度か続けているうちに、ついうっかり、弁当の中身を全部あげてしまった。
しまった。つい餌付けが楽しくて。
まあ、自分がやらかした事だから文句は言わないけど。
そんな事をしているうちに、昼食の時間は終わり、昼休憩になった。
さすがに昼休憩になってまで一人でこの場所にいる訳にはいかない。
そんな事をすればクラスにおける私の立場が危うくなってしまう。
そんな訳で私は名も知らぬ女の子に別れを告げ、クラスの皆が遊んでいるであろう校庭に向かう。
その道中で、コンクリートが赤くなっている場所を抜ける。
数日前、クラスメイトの一人が自殺した跡だ。
頭がぐしゃぐしゃになって即死だったらしい。
その後洗浄してもこの血の跡はどうしてか拭うことも出来ず、このままにされているらしい。
彼女は確かクラスにおけるいわゆる『よいしょ係』の立場に置かれていた。
自由気ままで適当に見える小学生のクラスでも、やはり人が集まっている場所であるが故に、立場や地位なんてものが自然と発生する。
彼女はその地位が高いクラスメイト――一軍がなにかをする度に賛同をしたり、持ち上げたりして機嫌を取る係。
彼女のような存在がいると、一軍(事実上のクラスの嫌われもの)は喧しくなくて、ありがたい存在だったのだけど、なにがあったのか今はコンクリートのシミと化している。
全く、迷惑極まりないことをしてくれる。
とはいえ、屋上に花束が一つ置かれている所を見ると、彼女でも、誰かしらから好意的に思われていたのだろう。
しかし迷惑なのは変わりない。
彼女がいなくなった今、次に一軍のよいしょ係――まあ弄られ役という事実上の人身御供になるのは誰なのだろうか。
できれば私であってほしくない。
そんな事を考えながら、私は赤くなっている場所を避けて、校庭に向かったのだった。
***
私は鯉が好きだ。
あの小さな池の中を、自由気ままに悠々と泳ぐ姿が好きだ。
狭くて息苦しい、クラスの中で他人の読めない心をどうにか読んで話を合わせる事で、一定の地位を保ってどうにか生き延びているだけの私は、しがらみを取っ払って、それでもかつ、あんなにも綺麗でいられる鯉に、憧れを抱いている。
昔、もう人間には二度と産まれてきたくない。生まれ変わるなら、深い海の底で眠る貝になりたいと願った元軍人がいたらしいけど、それに倣うとするなら――私は鯉になりたい。
しがらみのない、自由気ままで、相手を気遣わなくてもいい生活を送りたい。
「んしょっと……」
学校というのは、かなり無防備な場所だ。
不審者とかから生徒たちを守らねばならないのに、それだとまるで監獄ではないかという意見からか、校舎の周りを囲うのは、壁ではなく、外の景色も見えるフェンスになっている。
それ故に、足をかけて昇ることは、小学生の私でも容易だ。
ガシャガシャと音をたてながらよじ登った私は、簡単に学校内に忍び込み、校舎裏にある観察池の方に向かった。
観察池の水面はさながら鏡のように夜空を映し、池を暗く、沈み込ませているけれど、鯉のその綺麗な模様は暗闇の中でも見失うことなく、むしろより一層栄えて見える。
――何かになりたいのなら、その一部を口にしてしまえばいい。
確かそんな呪いがある事を、私は思いだした。
呪いではなく呪い。
ならば、悪いことはおきないはずだ。
私はポケットの中からいつもの餌を取りだしてバラ撒く。
すると、いつも通りに鯉たちは餌を求めて水面から顔をひょっこりと出す。
そこで私は玉網を握り、池の中に突っ込んだ。
突っ込んで、すくい上げる。
玉網の中で鯉が暴れまわっているのが、持っ手から伝わってくる。
それでうっかり落としてしまわないよう注意しながら引き寄せて、地面に下ろす。
大きな鯉だ。
きっと私があげた餌をたくさん食べたのだろう。
「ごめんね……」
この呪いでは、食べるものは生きていないといけないらしい。
だから私は殺さないように注意しながら、持ってきた包丁の先を、腹の辺りに刺して、きった。
切り口からは腹の中に入っていたものがゴロゴロと出てくる。
餌、藻、ウインナー、ハンバーグ、スパゲティ、ブロッコリー。
昨日、名も知らぬ後輩にあげたおかずだった。
***
今日はテレビの取材が来る日だ。
鯉の養殖で成功した私にインタビューだそうだ。
そんな事をしている暇はないんだけどな……。
「わあ、スゴい数の大きな水槽ですね。まるでプールのようです。これ全部に鯉が入ってるんですか?」
「ええ、まあ……」
話に適当に合わせながら、私は鯉が泳いでいる水槽の中に餌を投げ入れる。
観察池とは比べ物にならないほど大きな、それこそインタビュアーが言うようにプールのような水槽だ。
鯉たちは餌を求めて群がり、水面は激しく波立つ。
「あのー、鯉たちの餌って何なんですかー?」
「……これですけど」
私はバケツの中身をインタビュアーに向ける。
カメラマンとインタビュアーはそのバケツの中を覗き込んで、顔をしかめた。
なにやら信じられないものを見ているような顔だ。
「えっと、卵焼き……ですか、これ?」
「卵焼きですけど……」
「普通の卵焼き、ですよね……?」
「時折ウインナーとかあげてます……」
「は、はあ。な、なるほど。この鯉をさながら人間のように手厚く扱うことが、この鯉たちの高品質を保つ秘訣なんですね」
「人間のように、じゃなくて人間ですよ」
「はい?」
「彼らは人間ですよ。そして鯉でもある」
「は、はあ……」
「私昔、人間になった鯉を見たことがあるんですよ。もしかしたら鯉になった人間なのかもしれないけど。まあ、どっちでもいいけど。でも一つ確かにいえる事は、鯉が人間になる術が、人間が鯉になる術があるということ。私はその術を知りたい。どうにかして私は鯉になりたい。人でありたくない。なりたい、変わりたい。悠々自適に泳ぐ、しがらみのない鯉になりたい。そう思って昔呪いだってやったのに。大好きな鯉を傷つけてまでやったのに、食ってまでやったのに、殺してまでやったのに、まだ鯉になれない。どうして? なんで? 私はちゃんとやったはずなのに。年をとって大人になって、鯉をたくさん育てて、これだけ鯉がいれば、一匹ぐらい人間になってもいいだろうに、そして鯉になる所を見せてくれてもいいのに、なんで、どうしたら人間になってくれるの? どうしたら……そっか」
矢継ぎ早に。
インタビュアーの言葉に水を刺してから、留まることを知らなかった口がピタリと止まる。
餌を入れたバケツは手から離れて、音をたてながら地面に落ちる。
そうだ。
そうだよ。
もう一度呪いをすればいいんだ。
生きた贄を食べる呪いを。
そう考えた私は鯉たちが泳ぐ水槽に向けて飛び込んだ。
鯉たちはいつも通り、餌を求めて水面からひょっこりと顔を出した。