02
柘榴石の双眸は、どこまでも真っ直ぐだ。
「怪我はないか?」
「うん」
「お前、血が出てるじゃないか」
言われて気づく。どうやらぼくはほっぺたを切ったらしい。さっきの木箱の角でかな。見えないし痛くもないのだが、頬を伝うなまぬるい体液が不快で、思わず拳で拭う。「こら!」怒られた。
「見せてみろ」
ぶっきらぼうな口調とともに、ぼくの拳を退けさせた指が頬を滑る。思ったより裂創が深かったのか、眉間に皺が寄った。外套から取り出した白いハンカチで傷口を覆い、ぼくに押さえさせる。なんとなく逆らい難く、されるがままで突っ立っていた。
「手当をしよう。きなさい」
「いいよ、別に」
「遠慮するな。私は怪しい者じゃない。ほら」
ポケットから銀時計が出てくる。示されたところで意図するものがわからない。刻まれているのが外套と同じマークであることとなにか関係あるんだろうけど。
無言で首を横に振る。深入りはだめだ。この国のことは右も左もわからない状態なのに。逃走を決意したところで、ふと後方にふたつの気配を感じて振り返った。
「隊長」
ほぼ同時に、男のひとたちがそう口にする。どこにでもいそうな風の男のひとと、思わず二度見してしまいそうな巨体。薄いのと濃いの。並べて見ると、 なんともバランスの悪いふたり組である。どちらも白シャツの上に、例のエンブレムのある外套を纏っていた。やはり、なにかの組織なのだろう。
狙ったのかなんなのか、いつの間にやらぼくは謎の集団に囲まれていた。
「ご苦労。早いな」
「はい、近くを巡回していたもので。隊員には安全確保のため周囲を見回るよう指示しておきました。これを機に悪さをする愚鈍な輩もいないとは限りませんので。また、露天商の誘導にも数名の隊員を割きましたゆえ、すぐに場は沈静できるかと」
「気が利くな、ローラン。マイナはその男を拘束してくれ」
「了解しました」
中肉中背はローラン、筋骨隆々はマイナというらしい。木箱を抱えていた男のひとをロープで縛り上げたマイナと、目が合う。
「隊長、この餓鬼は?」
「怪我人だ。手当をしたい、マイナ、連れ帰ってくれ。ついでにその男も。私はローランと場の処理にあたる」
「ぼくなら大丈夫だよ」
拒否を示すと、女のひとの眉根が寄った。
「手当くらいはさせてくれ。怪我人を捨て置いたとなれば、私たちの名にも傷がつく」
諭すように微苦笑されたが、別に遠慮から拒絶しているわけではない。仕方ないので、質問へ移行することに決めた。「君たちはなんの団体なの?」と。
それにより、眼前のひとたちが総じて硬直した。ぼくとしては真っ当な問いだったのだが、なにかまずかっただろうか。地面に投げ捨てられた格好になっているぼくの鞄を認めたマイナが、信じられないといった風に声を上擦らせた。
「お前旅の者か?」
「そうだよ」
「だ、だが、他の街でもこのエンブレムは見ただろう」
「知らないよ。ぼく、きたばっかりだから」
砂除けのため足元まである外套に、裾から覗く安全靴。頑丈で四角い鞄。外套のフードを目深に被って顔はなるべく外気に触れないようにしている。街の住人がこんな仰々しい格好をしているとは思えない。一目見てぴんとくるものじゃないのかな。
首を傾げていると、小さな嘆息が降ってきた。
「自警団だ」
「じけいだん?」
「端的に言うと、街を、民を守るための機関だ」
答えてくれたのは、やはり彼女である。つまり、ヴィラ=イレ神が街や民を脅かす存在であると知れれば、討ち取るべく行動すると。いや、それは早計か。神さまに人間が牙を剥くというのは、たぶん、生半可な覚悟ではできない。
思考しているうちに、強烈な視線を感じた。ローランだ。さっきまでぼくのことは 空気のような扱いだったのに、いまでは食い入るように見てくる。つまり、とても居心地が悪いわけで。抗議してやろうと唇を開きかけたところで、あちらが口火を切った。
「隊長。この者、我らを知らないというのは嘘ではなさそうです。ならば、この国に到着したばかりの旅人ということも事実。でしたら、ヴィラ=イレ神の影響を受けないのではないでしょうか。あちらについて事前知識もないと思われますし、試してみる価値は十二分にあるかと」
ヴィラ=イレ神と関わりがあるのか、このひとたち。それにしては信者といった風ではない。
「つまり、奴らの巣に放り込めと? ローラン、言葉は選べ。放浪者だろうがなんだろうが、こんな子供を使えるか!」
女のひとが吠えた。
庇ってもらっているようだが、ヴィラ=イレ神の名が出たことは大きい。見つけた情報源をむざむざ逃すのも、ね。
「君たちはその神さまがきらいなの? 見ず知らずのぼくを使ってどうにかしたいくらいに」
ヴィラ=イレ神に対する彼らの立ち位置を把握しつつ現状を打破するつもりだったのに、場が瞬く間に凍りつく。
数拍おいて、女のひとが眉間に深い皺を刻んで息をついた。
「いいか、小さな旅人よ」
語り口は、ひどく固い。
「好き嫌いの問題ではないのだ。お前がどこから流れ着いたのかは知らんが、神が〝何〟かはわかるだろう。人間がおいそれと手を出してよい存在ではない。私たちには関わらないのが懸命だ。部下がおかしなことを言って悪かったな。忘れなさい」
神さまについて。
彼らは、なにか。
「神さまは天上のお方」
「ああ、そうだ。だから――」
ぼくは、彼女の言を遮って。
「でも、この地に堕ちてきてしまえば〝天上のお方〟じゃない」
そのことわりを告げた。
ひゅう。驚愕に、喉の鳴る音。
双つの赤い目が、零れ落ちるんじゃないかってくらいに、めいっぱい開かれている。
「神さまは天にいるからこそだ。だれにもなににも依存せず、由来せず、ただ、世界を俯瞰するもの。なのにこの世界で蔓延るのは、あらゆるものに寄生し、己が理由を探す神さまばかり。それは神さまであって神さまでない。事実、彼らを神さまと崇めているのは人間だけなんだよ」
この世界は、地上の神さまに支配されすぎている。だから人間はその流れに逆らえない。身のうちに神さまを置いて、次第に侵されてゆくのだ。あんな、地に堕ちて しまったものたちなんかに。そうして、ほんとうに尊い存在のことを忘れてしまう。それはとても、哀しいことだろう。
女のひとは絶句し、しかし低く呟くように声を絞る。
「神を説くとは――お前、いったい何者だ」
うつくしい瞳に警戒の色が走る。しかし携えた剣を抜こうとはしなかった。ぼくに切っ先を向けることを躊躇っているようである。こっちの見目の問題なのか、なんなのか。
息を詰めて答を待っているさまの彼女に、しばらく沈思黙考してから口を開く。
「ぼくはベル。ただの旅人」
周囲の人間がだれも動かないことを確認して、その厚い身体を支えているベルトを外した。背の筋肉から厳かな重量感が離れる。ぼくの身長とさほど変わらない、炎を模した波打つ線を描く形態が、外気に触れないままに戦慄く。眩い日光を浴びて黒き戒めからの解放を求める巨躯を、ぼくは宙に掲げた。
甘んじて鞘に収まる、その誇り高き魂を。
「こっちがツキタチ。ぼくたちなんかよりうんと尊い――神屠りの剣だよ」