3.幼い新月
お茶の香りが、心地よく鼻をくすぐる。リーフィはどこかのんびりと、シャーのためにお茶をいれにきていた。
今日はお客が少ない。少ないと少ないとで商売的には、問題があるのだが、リーフィはそれほど商売っ気がないので、それぐらいでもまあいいかなあ、などとろくでもないことを考えている。店主に怒られてしまいそうだが、リーフィとしても、シャーとなんとなくぼんやりと話をして終わる一日も、それなりには気に入っているのだった。
だが、無表情でろくに何も考えていないような彼女でも、日常に妙な刺激を求めるときもある。
(不謹慎だけど、何かおもしろいことでもおきないかしら)
リーフィは頬に手をあてながら、そんなことを考える。
元々、リーフィはあまり外を自由に遊びまわれるような身分ではなかったらしい。色々と苦労もしたが、そのせいか、少女のころに押さえつけていた妙な冒険心に、今頃火がついてしまったらしい。シャーと行動をともにして、ちょっと危ない目にあったせいで、今まで眠っていたそれが復活してしまったらしかった。
実際、近頃、リーフィは以前より少し活動的になった印象があった。
(シャーも、今は特にこれといって変わったことはないようなことをいっていたわね)
リーフィは、手にあごを乗せつつ、少しため息をつく。彼女にとって、シャーとお互い情報交換するのが、実は楽しみでもあるのだった。シャーと自分では、集める情報の情報源が違うことが多いので、リーフィにとってはシャーの話は実に興味深いのだった。
彼女とシャーの関係は、はたからみれば、かなり奇妙なものになっていた。リーフィは、シャーとやたら仲がいいし、シャーのほうもリーフィになにかとべったりなのだが、そのくせ男女の仲という感じがしない。もちろん、実際、男女の仲というわけではないわけであるからそれでいいのだが。
横でみていると、何がなんだかわからないが、最近妙に気があっているらしい二人、という感じらしかった。よって、シャーの舎弟が、よく彼女を不思議そうに見ることの多くなったこのごろである。シャーのほうもたまにちらりと、性別を気にしていないようなところを見せることがあるが、それ以上にリーフィは、シャーを男として認識しているのかどうなのかよくわからないところがあった。
サリカなどは、リーフィとシャーがつるんでいる理由が不可解らしく、しょっちゅう、リーフィにその理由をただしたりしているが、別に恋人でもなさそうなので、やはりよくわからなくなって考え込んだりしている。「ねえさんは、どうしてあんな男と」ときかれて、リーフィは決まって「お友達ですもの。それに、シャーはいい人よ」とか何とか答えてしまうので、余計サリカには不可解だった。サリカをはじめ、彼女の仕事仲間の女性が不可解なのだから、シャーのところの弟分どもが、その関係を理解できるはずもない。
ひとまず、かれらは、シャーはリーフィと仲がいいらしい。しかし、やっぱりそこに恋愛は介在していないらしい。何か共通の趣味でもあるのかも、というような推測をたてて、一通りの納得をみているのだった。
ふと、リーフィは、あわててお茶をいれだした。ぼんやりしている間に、時間を忘れてしまったのである。幸い、お茶はちょうどよい濃さで、別にこれならシャーも渋い顔をすることはないだろう。
「危なかったわね……」
リーフィはそうつぶやいて後の用意を整えて、お盆にのせた。甘いお茶菓子を添えて、ミルクをたっぷりと注ぎ込んだお茶の横につけると、ほのかに甘い香りが漂った。香料を混ぜてあるので、その香ばしい香りもかすかに混じる。
店は、それなりに人がいたが、向こうで盛り上がっている集団がいる程度で、今日はシャーはそれには混じっていないらしい。彼にしては珍しい気もした。
「シャー、お待たせ」
リーフィはシャーの席までいくが、シャーは、というと、机の上でひじを枕に転寝しているらしい。酒場の喧騒にかき消されつつも、すやすやと平和そうな寝息が聞こえた。
「珍しいわね」
リーフィは、シャーの隣にお茶と茶菓子を置きながら、首をかしげた。そういえば、今日は彼にしても少々ペースが速かった気がする。シャーは、いつもは酔った振りをしてふざけているが、基本的にはざるなので、それほど酔うことは珍しいのだが。もしかしたら、本当に疲れていたのかもしれない。
(起こすのもかわいそうだから、少し寝かせてあげようかしら)
リーフィは、自分のショールを取るとシャーの肩にかけてやった。シャーはというと、比較的平和そうな顔をして寝ていたが、それにしても、普段の彼よりも少し緊張感のある寝顔のような気がした。
(寝ているほうが、きりっとしているなんて。それって、一般常識的に見てどうなのかしら、シャー……)
リーフィは不意にそんなことを考えるが、どこか二面性のある彼のことであるし、自分もあまり人のことをいえた義理でもない。
(一度本人にきいてみようかしら)
とはいえ、やはり変なところで好奇心は旺盛だ。彼女は、いつか彼から聞きだそうと心ひそかに決めてしまった。きかれたシャーのほうは、さぞかし困惑することだろうが。
リーフィは、空いた皿でも片付けておこうかと、彼の目の前にある皿と杯をとると、いったん彼の目の前から立ち去ろうとした。
「師匠……」
不意にそう声が聞こえた。リーフィは、振り返る。シャーは、相変わらず眠っているようだった。ということは、あれは、寝言だったのだろうか。
遠くで、気合の声をきいて、シャーは小屋からおきだしていた。
空にほっそりと刀のような月がのぼっていた。ほんのりと赤い色をたたえるそれは、どことなく異様な印象すらあった。
赤い新月、つまり三日月の夜。あれが上弦であったか、下弦であったか、何時みたものであったのか、シャーは忘れてしまった。ただ、乾燥した夜の空気の冷たさが、シャーの身を凍らせたのを覚えている。
毛布をかぶりながら目をこする彼は、当時、まだ十五にもなっていなかった。ザドゥという名の師について、剣を学んでいた時、彼は師とともに王都から離れた人気のない田舎で数ヶ月を過ごしていた。
そして、シャーは、そのとき、月の次に見たものは、月下で剣を振るう師の姿だった。こんな夜中におきだして、一体何をしているのだろう。修行の好きな男だから、こんな酔狂も道楽のうちなのかもしれない。 そんな風にも思ったが、彼を見ているうちに、シャーは全身が総毛だつのを感じて、思わず毛布を握る手に力を込めた。
師は、ただ素振りや型を練習していただけのようだったが、だが、その振りは、明らかに人を殺せるような振りだった。ただの練習とは言いがたい、そんな異様な冷たさがあったのだ。
シャーが、彼と行動をともにしていたのは、それほど長い期間ではなかったが、それでも印象に残っているほど、師は強い男だった。
けれど、今までは、彼のそんな姿を見たことはなかった。シャーの前では強いが、とてもやさしい男でもあったのだ。
しかし、今日は違った。今日の師は、明らかにいつもと違った。思わず、シャーは、護身用に持ち歩いている短剣に手を触れた。何故か、体が勝手に動いて、それに気づいてあわててひっこめる。
師には到底勝てるはずがない。だから余計にだろうか。心の奥にわけのわからぬ恐怖心がたまっていた。
(今日は、もう寝てしまおう)
シャーはそう考え直した。今の師に話しかける気にはなれなかった。まるで、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。これが夢ならいいのだが。いや、夢だということにしてしまおう。
そうっと、シャーは、足音を忍ばせてもとの小屋に戻ろうとした。
「どこに行かれる?」
ふと、そんな声がして、シャーは反射的に振り返った。
月を背景に、師が立っていた。その手に、白刃が握られて、淡いつきの光を浴びて、それだけがぎらりと光っていた。
表情は見えない。だが、師が先ほどまで放っていた殺気が、いまだに彼の背から立ち上って、痛いほどだった。そして、うっすらと見える師の目が、こちらをにらみつけているようだった。いや、睨んでいたのではないかもしれない。ただ、その目が怖かった。
その目は、彼が知っている師の目ではなかった。暗さゆえに、余計にそう思ったのかもしれないが、まるで獣の目だ。
そのときのシャーにとっては巨大すぎる相手だった。勝てるわけがないにもかかわらず、逃げることもできない相手。その目が、シャーに逃亡の可能性を否定させた。
寝ぼけた頭に、たまりたまった恐怖心が先走った。
――殺される!
直感的にそうおもってしまった。思わず、背筋が寒くなった。と、同時に体が勝手に動いた。
シャーは、そのとき、剣を抜いた。
そのとき、細い月夜が目に入った。どうして相手に夢中で飛び掛ったときに見たはずなのに、月が目に付いたのかはわからない。もしかしたら、目に付いたとおもったのは誤解で。
けれど、シャーには、異様にそれが印象に残ったのだ。
紅く冷たい、剣のような新月が。




