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シャルル=ダ・フールの王国  作者: 渡来亜輝彦
エルリーク暗殺指令・中編
201/209

26.篝火に歪む微笑


 がくん、と衝撃を感じた。がそれは何かに当たった衝撃ではない。

 落下していく感覚がなくなり、シャーは慌てて上を見る。

 左手に圧迫感がある。

「お前!」

 シャーは思わず言葉を飲み込む。

 みればアイードが右手でシャーの左手を掴んでいた。

 アイードは左手でロープを握っている。それは彼がシャーを追って飛び込んだ時に、掴んだものだ。そのロープ一本で、アイードとシャーは宙ぶらりんの状態でとどまっていた。

「ア、アイード……」

 一瞬、アイードと目があう。暗がりの中、はっきりとわからないが、彼が目元をひきつらせるようにして笑った気がした。

 ぎし、とロープの軋む音がする。どうやらアイードも不安定な状態らしい。しっかりとシャーの手首をつかんでいたが、かすかにふるえる。

「ちッ……、冗談じゃねえや」

 アイードが舌打ちして吐き捨てる。

 彼としても、本来は足を残したままシャーを掴むつもりが間に合わなかったのだろう。そのままロープをつかんで飛び込んで、紙一重でシャーをつかんだのはいいものの、足がかりになるようなものが近くにない。このままでは彼も腕一本で大人の男一人を引き上げなければならないのだ。

 下では野次馬が騒ぎ始めていた。

「は、いい気なもんだぜ! ロクデナシの外野どもが!」

 アイードは彼にしては口汚く、苛立たしげにはきすて、

「くそ、イチイチ、うる、せえんだよッ!」

 一気に力尽くで自分の体を引き上げる。普段はどちらかというと、あまり力任せな行動のしない彼にはいっそ意外なほど、彼は力に任せて自分の体を一気に引き上げるとどうにか足を帆桁の上にかけた。そのまま上体を起こし、今度はシャーを引き上げる。

 呆然と彼に引き上げられたシャーを、アイードは乱暴に岸の方向に突き放す。

「冗談じゃねえぞ! はははっ、こんなショボい死に方されちゃ困るんだよ!」

 アイードは冷たくそう言い放ちつつ、左手を軽く振った。

「ドジ踏んで足滑らせて勝っても、俺が何言われるかわからねえもんなあ!」

 薄暗い中ではっきりとはわからないが、ロープをつかんだ彼は擦過傷を負ったのか、血がにじんでいるようだった。アイードは胸からスカーフを取り出すと口を使って素早く左手にまきつけキュッと結ぶ。

 シャーはそれをぼんやりと見やりながら、何か考えている。

 その沈黙に気付いて、アイードは軽く肩をすくめた。

「なんだ、ぼーっと突っ立ってよ! そんなスキだらけだと、今度は本当に突き落として殺すぜ?」

「アイード……」

 シャーは何かに気付いたような顔をして、一歩踏み出しかけたが。

 その時、下から風を切るような音がした。

 ふと、アイードが眉根をひそめる。

 下から誰かが上ってくる気配。ほどなく、なにかがふわりと視界に踊りこんできた。

 シャーとアイードの間。男としては小柄な人物が、さらりと割り込んでくる。

「ゼルフィス」

 アイードは静かな声で言った。

「いきなり私以外に妙な命令下しやがって……! 区域の封鎖とか、何考えてんだよ」

 そんな声が涼やかに響く。

 ゼルフィスは、いかにも身軽な獣のようにいとも簡単にバランスをとって立っていた。

 今はまだ剣を抜いていないが、いつでも抜けるような姿勢を保って、夜風に長い金髪をなぶらせている。

「ふん、わざと遠ざけたつもりだったんだが。相変わらず、ケモノ並みに勘のいいやつだよ」

「ふ、何言ってやがる」

 ゼルフィスは、歯を見せて笑う。

「ケモノはテメエだろ、大将。いいや、”フェリオ”」

 ゼルフィスは、ぎらぎらとした瞳をアイードに向けた。

「久しぶりだな、そんなツラしたアンタ見るの」

「ふっ、別にしたくてこういう顔してるんじゃねえよ。しょうがねえからだ」

 にっと彼女は笑った。彼女の目に負けず、いやそれ以上に、アイードの目は異様に輝いている。

「やっぱりな、アンタには、そういう狂暴な目がお似合いさ」

「ゼルフィス、やるつもりかい?」

 アイードはゼルフィスの挑発めいた言葉には応じず、目を細めた。

「やめとけよ、怪我するぞ」

 静かだがその声は威圧に満ちている。

「人の心配してる場合かよ? ははは、その反応、ますますぞくぞくするねえ」

「副官さん……!」

 シャーが我にかえってそう声をかけると、ゼルフィスがちらりとシャーを見た。

「よう、三白眼のにいちゃん。ここじゃアンタには不利だぜ」

 ゼルフィスはそう言って笑う。

「アンタは確かに強いけど、大将の言う通り、ここじゃ大将にはかなわねえぞ。ここは大将に地の利ありだ。いくらアンタがすごくても、こんな不安定な足場でずっと戦ってきたんじゃないんだろ。ここじゃ何時間やっても、うちの大将のが有利なのさ。時間の無駄だぜ」

 すっとゼルフィスは後ろを指さす。

「さっきの風で帆桁の一角が別荘の隣の建物に突き刺さってる。そこから飛びうつって移動しな!」

「でも、副官さんはどうするんだ?」

「私は好きなようにするさあ。こんなでもなきゃ、本気の大将とやり合う機会はねえだろ」

 それに、とゼルフィスは告げる。

「さっき、甲板から中を見ていたが、屋敷の中に別動隊が入っているぜ? あれは海賊じゃない、傭兵の旦那を狙った刺客みたいだった」

「なんだって?」

「海賊たちはそんなに、屋敷の中攻めるのには積極的じゃねえんだよな。だが、アイツらはおそらく旦那とは同業者、きっと傭兵さ。あの旦那同業者の恨み相当買ってそうだしよ、あの旦那もまだ本調子じゃないんだろ! 気になるなら、助けにいってやんな」

「あ、ああ」

 シャーはそういわれてここを離脱する決意をする。

「副官さんも気をつけて!」

「おうよ! 任せときな!」

 シャーはそのまま帆桁を走って屋敷のほうに向かう。確かにゼルフィスの言う通り、先ほど風に煽られたときに帆桁の先が隣の建物の壁面に突き刺さっている。これなら飛び移ることができそうだった。

 シャーは意を決して帆桁を蹴った。



「イイのかよ。急にだんまりしちまってさあ」

 束の間、二人の間に静けさが訪れる。下では、何かわいわいと野次馬達が、逃げたシャーを見て行っていたが、アイードはそれにも興味を示さなかった。

 それを見届けつつゼルフィスは、アイードに話しかけた。

「てっきり、追いかけるか、何か言うんだと思ってたんだけど」

「はっ、なんで俺がアイツを止めないのかって?」

 アイードは肩をすくめて苦笑した。

「流石の俺もお前みてえな奴に目の前にいられちゃ、気軽にあの三白眼追いかけまわす気にもなれねえよ。目の前の障壁は何とかしねえとな」

 アイードは目を細めて皮肉っぽく笑う。

「だがな、ゼルフィス。俺はここで勝負を辞めるわけにはいかねえんだぜ。もう一度警告するぞ」

 アイードは、静かに目をぎらつかせてゼルフィスをにらむように見た。

「俺のほうがお前より強い。やめとけ。怪我するぞ」

 それこそ、ゼルフィスがかつてよく見たこの男の目だ。熱く冷たく、人間らしい感情が読み取れない、それでいて威圧感に満ちた目。

 ゼルフィスは思わずにやりとした。

「望むところだぜ! フェリオ!」

 歓喜の笑みを浮かべながら、ゼルフィスは剣を抜いた。そのまま、たっと足を踏み切る。

 豹のようにとびかかり、アイードに斬りかかるが、アイードはそれを綺麗にはじき返す。あくまで冷静に、彼は鋭く突きを入れて、ゼルフィスを飛びのかせる。刃をかすめた金色の髪が夜風にぱらりと舞う。

 ざざっと後退し、ゼルフィスは体勢を整える。アイードは安易に追い打ちをしてこなかった。

「やるな! 腕はおちてないなじゃいか!」

「日常的にお前みたいな猛獣にとびかかられちゃあなあ」

 アイードは自嘲的に笑いながら、ふと息をついた。

「お望み通り、今から手加減なしだぜ。ゼルフィス」

「はは、望むところだ!」

 ゼルフィスは嬉しそうに笑う。

「今も昔も、私に本気で挑んでくるのはお前だけだよ、フェリオ!」

 ざっと木の板を蹴って飛び上がりながら、ゼルフィスは言った。

「だから、私はお前が好きなのさ!」

  

 *


 後ろで響く剣戟の音を気にしながら、シャーは建物の壁を伝って地面に降りた。

 船の上ではシャーの逃亡に気をとめているものはほとんどいないらしく、新しく始まった乱入者とアイードの戦いに盛り上がっているらしい。

 有象無象の多い彼らのこと、賭けが始まっている様子で、すでに”作戦”はどうでもよくなっている気配があった。

 シャーにとっては、都合がいいことだ。

 ゼルフィスは屋敷の中にすでに傭兵が入り込んでいるといったが、船から監視される危険性は少なくなる。増援を呼ばれるのが一番怖いのだ。

 建物の屋根から下りてきた場所は、壁によって物陰になっている。闇に紛れるようにそろそろと動きながら、シャーは別荘への侵入を試みた。


 アイードの別荘は隣地との間を壁で隔てていたが、その一部が壊されている。

 さっとその壊れた壁を抜けて中庭に入ると、松明の光がいくつか見えた。それが例の傭兵たちなのだろう。

「エーリッヒの奴、どこに行った? あの野郎、絶対殺してやる!」

 どうやらジャッキールに恨みのあるものがいるらしく、そんなことを大声で話している。

 若い頃のジャッキールは今よりも過激だったらしいので、相当同業者から恨みを買っているのは予想できた。

(だけど、アイツら、ちょっと盛り上がりすぎじゃねえか。今からこんなにキレてて大丈夫かよ)

 しかし、探されているということは、ジャッキールが室内への侵入を許していないのか、それとも別の場所にいて見つかっていないかのどちらかなのだろう。

 ジャッキールは大柄な分、戦闘方法は派手であるし、人目に付きやすい。

 あの性格なので隠密行動を命じられればそれなりにこなすが、あまり得意とは言えなかった。今、大騒ぎになっていないということは、まだ彼と交戦すらしていないということだと思われる。

 今のうちに何とかしなければ。

(早くダンナと合流しなきゃ……)

 シャーは、周囲を伺いながら移動するタイミングを計る。

(ダンナもそうだけど、蛇王さんは? やはり、いないのか?)

 目立つという意味ではザハークのほうが目立つ。それに交戦するなら、弓矢を使えるザハークのほうが有利な状況のはずで、矢の一本も飛んでこない今の状況は、彼の不在を予想していたシャーの予想を裏付けるものだった。

「くそっ、面倒くせえな? 建物に火ィつけちまうか?」

「おい、そんなことすんな! アイツは俺が殺すんだぞ!」

「何言ってやがる! 燻し出し出もしねえ限り、出てこねえだろうがよ!」

 何やら口論のような状態になっている。先ほどから大声で話しているモノが多いということは、やはり連中も興奮状態にあるということのようだ。

 そういえば、船の中の連中もおかしな奴が多かった。

 あの、リリエスとかいう男が絡んでいるのだとしたら、ジャッキールが飲まされていた怪しげな薬も絡んでいるのかもしれない。なんにせよ、今の相手の状態は異常である。

(ということは、アイツら簡単に放火しそうだな。何とかしねえと)

 シャーは、らしくもなく心がせいてしまっていた。とにかく、なんとか一刻も早く、ジャッキールと合流しないとならない。

 そろそろと音を立てないようにしながら、シャーは闇に紛れて移動する。男たちはまだ向こうでガヤガヤ何かを言い合っていた。

 今なら気付かれずに近づける。

 シャーは意を決してざっと走り出す。

 ジャッキールがいるとすると母屋の方だろう。中庭を抜けて屋敷の中まで入らなければならない。

 庭木の茂みに身を潜めて向こう側を覗く。

 屋敷の入り口に、灯が灯っていた。松明かなにか、篝火の類だ。人影もみえている。

(中に入っている感じはないけど)

 各部屋の窓を確認する。ジャッキールがいるはずの部屋は二階だったが、そこだねに灯が点っている。他は暗く、チラチラした光が飛び交っているでもなく、誰かが入り込んだ形跡もなさそうだ。

(入り口で攻めあぐねてるって感じか?)

 その可能性はないでもない。

 彼等のうちのいくらかは、ジャッキールを"エーリッヒ"という古い名前で呼んでいる。その名前で呼ぶということは、彼の実力はそれこそよくわかっているはずだ、。

(入り口でいられちゃ、正攻法じゃ中に入りづらいな。どこかの窓から……)

 シャーがそう考えながら、身をかすかに乗り出した時、ふと近くで光が走った。シャーはざっと身をかがめる。

 松明を持った男が近くを歩いていた。

「やっぱり、面倒だぜ。火をつけるのが一番だ」

「何言ってんだ? 今以上に、明るくされちゃこまるんだよ!」

 気が高ぶっているらしい男が、喧嘩腰になっている。

「あぁ? しょうがねえじゃねえか。暗いとやりづらいんだよ」

「あ、クソ! そいつをこっち向けんな! 目がチカチカすんだよ!」

 苛立たしげに別の男が怒鳴りつけた。どうやら話している拍子に、松明の光がその男に向いたらしい。

「ほら、言わねえことじゃねえ。これ以上明るくされちゃ、まぶしくってかなわねえ!」

「はん、テメェは、あの得体の知れねえヤツに頼りすぎなんだよ! 俺ぐれえにしとかねえと、ランプ一つ持てなくなるんだよ。アレは光にてきめんに弱いからよ」

 そういう男も、どうにも怪しげなテンションだが、なるほどツレの男よりは冷静だ。

「お前は平気なのかよ」

「平気じゃねえよ。だから、帽子かぶって調整してんじゃねえか。俺くらいにうすめりゃ、それで済む」

(光に弱い? あの、リリエスとかいう奴の薬かな。ジャッキールもあの時、炎に反応していた。船にいた奴も)

 やはり原因はそれか。

 船の上の連中も、ここにいる傭兵達も、どうにも冷静さをかいて、一様に興奮状態にある。

「なんだっけ、あれ。紅月のナントカだっけな。酒と割って飲むと、ちょうどいい出来上がり方なんだよ。割り方間違えるとヤベエけどな。さっき、どっかで馬鹿みてえな奇声上げてた奴がいるが、ありゃ、キメすぎだろ」

「しっかし、クソみてえな商売しやがるぜ。どうせこの仕事が終わったら売りつける気なんだよ、あのリリエスの野郎。まあいい気持ちで仕事ができるのはありがてえがな」

 と、ふと、その男が不機嫌そうな声になる。

「そういや、ここの屋敷の持ち主とかいう、赤毛の奴、アイツ、ヤバすぎだろ。キザ野郎のくせに、目が完全に据わってたぜ。あんだけガチガチにキメてるくせに、ふらつきもしねえで動けんのか?」

「ああ、アイツか。ふん、俺の所有物に火をつけやがったらぶっ殺すとか言ってな。だが、実際ヤベエよ、アイツ。無茶しようした奴、桟橋から川に蹴り落としてるのみたぜ」

「どうせ、アイツ、アレだろ。特別な酒でも貰ったんだろーよ。俺たちとは身分も違いそうだしよ。リリエスだって、そこんとこ考えるだろ。俺たちに与えられた粗悪な奴と違うやつがよー」

 シャーは思わずどきりとした。今話をしているのは、多分アイードのことだ。

「そういや、言ってたな。酒との割り方がどうの、とか、味がどうのだの。だが、アイツだってアレ飲んでるなら光に弱いんだ。キザでムカつくから、なんかの時に嫌がらせしてやろうぜ」

 がはは、と男が笑い声をあげる。

(アイードが? いやしかし、でも、確かにアイツは目が据わってたが)

 そして、彼の行動は不可解だ。普段はおとなしい彼からは想像できない。しかし、元から彼には二面性があるのも確かだった。

 思わず考え込んでしまう。

(アイードが仮にその薬を飲んで心変わりしていたとしたら、じゃあ、一体、アイツを唆したのは誰なんだ?)

 とそこまで考えて、シャーはふと戸惑うのだ。

(いや、しかし、アイツは? あの時のアイツは……。だったら、余計に何故?)

「誰だ!」

 声と共に、ばっと篝火がシャーの姿を照らす。シャーはざっと身を起こした。相手が声を立てて、松明を振りかざす。

「てめえ、こんなところに忍び込みやがって!」

「船の奴らじゃねえな、お前!」

 シャーは相手が剣を抜く前に、だっと体当たりをかます。男が転んだ隙に、そのまま走り出した。

待て、と背後から声が飛んでくる。

「くそ、見つかった!」

 一度、みつかると、中庭を徘徊しているものもそれなりにいる。あっというまに集まってきた彼等が、シャーの行方を阻んだ。

 シャーは思わず舌打ちした。

「ちッ、なるべくやりたくなかったんだけどな!」

 シャーはそういうと、ざっと足をひらいて構え、腰の剣に手を伸ばす。

 一気に引き抜くと、最初に飛びかかってきた男の剣を受け流しつつ、走り抜けようとするが、男の力が思ったより強い。そのまま剣を止められて、シャーは仕方なく横に逃れた。

 すぐさま別の男が飛びかかってくるのを、シャーはかわして叩き伏せた。が、男は大して戦意を失っていないらしく、すぐさま起き上がってくる。

「てめえ、ッ、殺すッ!」

 攻撃されて頭に血が上ったらしく、あからさまに興奮しているような状態で、襲いかかってくる。

「おっと、起き上がってくるのがはやすぎるぜ!」

 その間にシャーは別の男の攻撃をかわして、一発顔を殴り飛ばしていた。が、やはりその男も、すぐに起き上がってくる。

「くそ、なんだよ! 痛みもあんまり感じねえのか、攻撃性のが勝ってるのか」

 これは、例の薬の効果だろうか。

 興奮状態にあるだけでなく、彼等は動きが素早くしかも獰猛だ。痛覚も鈍くなっているのか、シャーからの攻撃は大して効いていないようで、すぐにおきあがってくる。

「なんだ、どうした!」

「貴様ら、何やってる!」

 屋敷のほうから声が聞こえた。

(マズイ、増援呼ばれたら流石に分が悪すぎる!)

 シャーはやや焦る。

 こんな容易にあしらえない連中相手に戦うのは、無駄に時間を取られる。

「くそっ!」

 シャーは悪態をつくと、飛びかかってくる男の攻撃を避けて鳩尾に膝で一発入れる。男が悶絶している間に、シャーは彼と隣の男の間をするりと抜けて駆け出した。

「逃げたぞ!」

「追え!」

 そんな声を背にして、シャーは屋敷と反対側の離れの方に駆け出した。

 この離れは、いつぞやジャッキールに言われて服を探しに行った、アイードの衣裳部屋兼物置だ。そして、あの、彼の意味深な衣装箱が封印されていたところでもあった。

 離れの裏側の方にまわろうとしたところ、船が見えてシャーは慌てて元に戻った。

 船の側から姿が見られると、自分の動きを監視されてしまいかねない。

(しょうがねえ!)

 シャーは仕方なく離れの中に入り込んだ。ひとまず追っ手をここで撒くしかない。段々、追っ手の声が近くなる。

 物置らしい部屋の扉をかすかにあけて、飛び込めるようにもしながらシャーはそこに身を沈めて寄りかかる。

「くそっ、全然屋敷に近づけやしねえ」

 シャーがぼそりとはきすてたとき。

 その、開いていた戸がゆるやかに空いて、シャーは思わずバランスを崩した。そして、その闇からにゅっと黒手袋の手がでてくる。

「わ!」

 それに気づいたが避ける暇もない。手が乱暴にシャーの襟首を掴み、猫のように持ち上げて室内に引き摺り込む。

「しっ!」

 声を上げて攻撃しようとしたところで、闇の中にいた男が左手の人差し指を唇の前に立てて制した。

「静かにしていろ」

 鋭くそう制した声で、シャーは相手を知る。

「どこいったあの野郎!」

 不意に罵声とばたばたした足音が近づいてきて、シャーは一層気配を殺した。

「あっちか?」

「見つけたら殺してやる!」

 殺気立った声と足音が近づいた後、遠ざかる。

 一瞬、外の喧騒が嘘のように静寂が訪れる。それを十分に確認したうえで、隣にいた男がゆっくりと立ち上がった。

「よし、行ったな」

 彼がそうつぶやく。

「ジャッキール?」

 声をかけると、男が暗闇の中で目をすがめた。

「奴らは、興奮状態にある。多勢で来られれば不利だぞ」

 窓のない物置。

 ジャッキールは木箱の上にランプをおいていたらしく、それを覆っていた布を半分外した。

 室内に薄ぼんやりした光が点る。しかし、その程度の光でも、ジャッキールは思わず右目を庇っているようだった。

「要領がいいようで悪いからな、貴様は」

 苦笑しつつ、ジャッキールは肩をすくめた。

 相変わらず、すらっとした刃物の様に長身のジャッキールだ。

 ここのところ寝込んでいたせいでやややつれて、常より青ざめた顔だが、びしっと背筋が伸びていて武官然としている。

 久々に戦闘用の黒服を着ている彼は、例の魔剣フェブリスと、そして見慣れない両手剣を背中に背負っていた。

 アイードの別荘は、天井には余裕があるつくりだが、それでも流石に背丈だけは大男の部類に入るジャッキールには、この物置の中は窮屈そうだ。

「ダンナ、母家の部屋にいたんじゃなかったのか?」

「あんなところにいると集中攻撃されるからな。早い段階で脱出していた」

 右目を手で覆って、軽く調整しつつジャッキールは答える。

「室内に灯をつけて、扉も開かぬようにしておいたから、連中はまだ気づいていないかもしれないな」

「それなら早く言ってよ。オレ、てっきり、まだあそこにいるんだと」

 シャーが安堵半分、非難半分に上目遣いにジャッキールを見やる。

「蛇王さんは?」

「奴は夕暮れに出て行って戻ってきてないな。まあ、やつのことなら自分でどうにかするだろう」

「やっぱりいなかったんだ」

 シャーは自分の見立てが当たっていることに安堵する。

 その間に、ジャッキールは光に慣れたらしく、顔の前にかざしていた手を腰に当てて、憮然とした。

「そんなことより、俺の方が聞きたいのだが?」

 ジャッキールは、ついとシャーを睨む。

「貴様何故ここにいる?」

「な、なんでって? いや、オレはさ」

 ジャッキールに睨まれると、こんな事態でもつい反射的に身がすくんでしまう。

「本当はアイードの本宅に行くつもりだったんだけど、アイードにメイシアを連れてくるように言われていてさ」

 と、言い訳のように続けて、シャーはようやくはたと我にかえる。

「そうだよ、メイシアが」

「メイシア? ローゼがどうしたと?」

 ジャッキールが怪訝そうに眉根を寄せる。

「いや、いるはずの宿に迎えに行こうとしたら、いなくなってるのをリーフィちゃんに教えてもらって……。方々探したんだが」

「ふむ」

 流石に心配そうな表情にはなったジャッキールだが、

「しかし、この区域はアイード殿の縄張りだ。今は彼の監視が効いているのなら、そうそう危ないことはしていない筈だが」

「そ、それが、アイードは……」

 シャーは思わず言い淀む。

「アイードは、何故かここを丸ごと封鎖する命令を出していて、オレたちは河岸から出られないんだ。それに、さっき、アイードと戦ってきたばかりなんだよ」

「アイード殿が?」

 ジャッキールは意外そうな顔になる。

「まさか」

「いや、わからない。オレを裏切ったのか、それとも……」

 シャーはため息をついた。珍しく自信なさげに呟く。

「オレは、やっぱりあいつが何考えてるのかわからないんだ」

 ジャッキールは無言でそれを見やっていたが、気分を切り替えるように笑った。

「まあ仕方がない。考えてもわからんことは、ここで考えるべきではなかろう。それより、今は当座、ここをどう乗り切るかだ。封鎖されているならなお、外に出る方法を模索する必要があるな」

「外に出る方法」

「そうだ。アイード殿がどうあれ、封鎖された区域に留まるのは危険だし、ここに留まるべきでもない。外の奴らは放火するつもりすらあるのだから、この物置も安全ではないからな。しかし、船の海賊どもも面倒だが、中庭にイカれた傭兵がみっしりいるのも厄介なことだ。興奮した奴らを一撃で倒していくのは、体力勝負。正直勧められない」

「それはわかっているよ。でも、どうやって?  別荘から脱出しても、区域の外に出られないだろう? 方法がない」

 ジャッキールはにやりとする。

「あるさ」

「え?」

 驚くシャーに、ジャッキールは言った。

「一つだけ、この別荘の敷地からも区域からも出る方法に、俺は思い当たりがある」

 ジャッキールは、薄く笑う。

「俺の考えた方法なら、おそらくうまくここなら脱出できるぞ。中庭の連中を撒く必要はあるがな」

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