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シャルル=ダ・フールの王国  作者: 渡来亜輝彦
エルリーク暗殺指令・前編
172/209

19.”七部将最強”の男-1


「そういや、お前んトコの甥っ子、大丈夫かよ?」

 面倒な交渉を兼ねた宴会が終わって一息ついていると、唐突にハダートに声をかけられて、思わずジェアバード=ジートリュー将軍は、きょとんとした顔になっていた。


 まだ例の国境付近のもめ事を解消する為の交渉が続いている。この周辺は、部族間の関係がややこしい為、ハダート=サダーシュと二人で取り掛かっていても、なかなか簡単にはいかない。最悪の事態は避けられそうだが、彼らがここを離れるには、問題の完全な解決が必要だ。

 今は、宿舎に戻る途中。ジェアバードはやや疲れていて、眠気を覚えていたが、ハダートは夜型なのか、昼間よりよほど元気そうだ。どちらかというと彼は太陽の光が苦手なので、夜の方がすごしやすいのかもしれないが。

「唐突になんだ?」

 ジェアバードが怪訝そうに眉根をひそめる。

「いや、俺たちが王都離れてそろそろそれなりの時間が経ってるだろう? あのカワウソ兄ちゃん、大丈夫かなって思ってさあ」

 ハダートは軽い調子で言った。王都の警備の主力であるのは、確かにカワウソことアイード=ファザナー将軍。だが彼が頼りない青二才であることは、二人もよくわかっている。

「なんせ、押しの弱いことで有名だからな、お前んトコの甥っ子。三白眼と仲良くやってけてるのかね」

「正直、それを言われると、不安はあるのだが……」

 ジェアバードは、さすがに親友のハダートが相手なので体裁をかまわない。

「アイードは昔から押しが弱いからな……。河岸の界隈では、やけに人気はあるようだが、正直それだけでは将軍は厳しいとは思っているのだ。頼りなくてな」

 ジェアバードはため息をつく。

「あの性格からして、三白眼のヤツなどは一番苦手そうだからなあ」

「やっぱり心配だよなあ」

「ラゲイラ卿が相手となると、奴だけではあまりにもちょっと……。まあ、最悪ラダーナ将軍が常駐しているので、余程やらかさなければ大丈夫とは思うのだがな」

 ジェアバードは、例の赤い髪をかきやりながらもう一度深々とため息をつく。

「ラダーナさんかあ。確かにあの人がいれば大体大丈夫なんだが、数で勝負されるとなあ。あと、無口すぎて、何考えてんだか、俺でもわからないし」

 なにせ、あまり会話をしないものだから、と言いかけて、ふとハダートは何かを思い出したらしい。

「そういや、珍しく出発前にあの人と話をしたぜ、俺。お前の甥っ子に言い含めてたら、普段は隣でうなずいてるだけなのに、珍しく向こうから口を開いてきたのさ」

「ほう、ラダーナ将軍が? 珍しいこともあるものだ」

「そうよ、随分と珍しくてさあ。しかも、何言ったと思う。王都には、”七部将最強の男”がいるから心配するな、ってさ」

 ハダートは、苦笑する。

「いやあ、そりゃあ、ラダーナさんは槍の名手ってことで相当な腕前だし、評判も高いんだけど、自分でそんなこと言うんだなーって意外でさ」

「ラダーナ殿がそんなことを?」

 冗談交じりに言ったつもりが、存外にジェアバードの反応が重く、ハダートはきょとんとして彼の方を見た。

「どうした?」

「ん、いや……」

 ジェアバードはため息をつく。

「三白眼と一緒にいて、悪いクセが出なければよいのだが……アイードのやつ」

「悪いクセ? なんだよ。あのカワウソ坊ちゃんにそんなの、あるのかよ?」

 ハダートは意外そうに目を向ける。その視線を受けて、ジェアバードはやや困惑気味にため息をついた。

「ふむ、そういえば、お前はまだ知らなかったな。例の事情……」

「知らないってなんだ?」

 ハダートは怪訝そうな顔になる。

 情報通の自分に知らない情報を、ジェアバードやあの男が持っているとも思えない。

「そりゃあ、あのカワウソだって、あの河岸の荒くれどもを手なずけるにあたっちゃ、色々としてるんだろうけどさ。あの兄ちゃんが金ばらまいたり、仕事作ってやったりしてるのはきいてるけどな」

「……そう、”色々”とな」

 ジェアバードは、やや含みのある言い方をしてため息をつく。

「色々ってなんだよ」

 ジェアバードは軽く唸り、

「話したいのもやまやまだがな。その話はずいぶんと長くなるのだ。今日はもう遅い。また、話してやる」

 事情を聞きたそうなハダートをそういって封じ込めると、ジェアバード=ジートリューは彼に先んじて歩いて行ってしまった。


 *


 なんだか背後がやかましい。

(あれ、さっきの人、何かもめ事にでも巻き込まれたかな?)

 そもそも、騒ぐ声は彼女の向かう前方から聞こえてきたものだ。だというのに、後ろからも人の騒ぐ声が聞こえる。

 彼女、メイシア=ローゼマリーの背後にいるであろう人物は、先ほど彼女と言葉を交わした赤毛の男。一見強面だが、話してみると頼りなさそうな男だった。

 いい人そうだったこともあり、もめ事に巻き込まれているとなると心配だ。

(大丈夫かなあ。船乗りさんたちは気が荒いっていうし、喧嘩でもしてるのかな)

 袋叩きにされていなければいいが、と考えてメイシアは立ち止った。

 別に彼が絡まれたことに自分は大して関係はない。とはいえ見捨てていくのも、何となく後味が悪い。

「うー、でも。今の服で戦えないしなあ」

 そう、忘れてはいけない。今、彼女は彼女なりに頑張ってお洒落をしてきたのだ。せっかく買ったばかりの可愛い服だ。

 たとえ喧嘩でも、巻き込まれると泥の一つや二つはつくし、下手をすると引っかけて破れたりするかもしれない。

 どうしよう、などと彼女が考えていると、今度は向かっていた前方から誰かが走ってくる足音がした。

 荒い息遣いが聞こえてくる。誰かが全力疾走でこちらに向かってきている。

 どうもただ事ではない。流石のメイシアも、思わず腰の剣に手を伸ばした。

 相手はどんどん近づいてくる。やがて建物の影を抜け、開けた場所に出てきた。

 そこで月の光が強く差しこんでおり、さらに川面に篝火をたいた舟が浮かんでいた為、ようやく相手の容貌が分かった。

 ひょろりとした長身に、癖の強い長髪。何かに追われているのか、やたら後ろを気にしている。

 そして、正面を向いたとき、そのあまりよろしくない感じの目つきと視線がぶつかる。白目の面積が多くて、三白眼というやつだ。

「あ!」

「あ?」

 メイシアが声を上げると、相手も気づいたのかやや不機嫌に声を上げる。

「あ、なんだ、三白眼の人!」

 無遠慮にそう呼びかけると、相手の方がびくりとして立ち止まる。

「あ、あれ、アンタ、なんでこんなところに」

 確かに、メイシアの目の前に現れたのは、彼女にとっては賞金首のシャー=ルギィズとかいう三白眼野郎だ。シャーの方はずいぶんと面食らっているが、メイシアは落ち着いたものだった。

 なにせ、彼女は今日は戦う予定がないのである。

「うーん、残念! あんたと戦いたいけど、今はダメなの。また次回ね」

「は? 何だって?」

 唐突なことをいわれて、シャーの方が素っ頓狂な声をあげる。

「今日はね、悪いけどあんたと付き合っている暇はないんだ。あたし、今から先約があるんだもん」

 そういってひらりと服をつまんで見せたりする。

「せっかくのお洒落着汚すわけにはいかないんだからね」

「ばっ、馬鹿、何いってんだ!」

 ようやくシャーが我に返り、慌てて後ろを見る。

「そんな場合じゃねえんだよ! ったく、なんでこんなときに!」

「え? 何かあるの?」

 シャーが見つめる先を自分も見てみる。暗い闇の中、何か蠢いている。いや、何かが確かにこちらに向かってくる。

 まるで獣みたいな……。

(でも、なんだろう。見たことがある……)

「馬鹿! ぼーっとしてる場合じゃねんだよ! 来い!」

「わあっ!」

 慌てたシャーがメイシアの手をつかむ。思わず後ろを見ていたのでメイシアも、特に抵抗せずに引っ張られていく。

「え、えっと、何? 後ろにいったい何があるの?」

「いいから一緒に来るんだよ!」

 シャーは、やや焦っていた。

(よりによって、なんでこんなときに見つかるんだい、この娘!)

 とにかく、この娘に後ろから追ってくる”モノ”を見せてはいけない。それはこの娘の為でもあり、ジャッキールの為でもある。

「ねえ、どこに行くの?」

「とりあえず後ろから来る奴を撒くぜ! そのあとで、相手だろうが何だろうがしてやらあ」

「えー、だってあたし、今日は勝負できる服装じゃないよ? 走るのも嫌なのに……」

「あー、そうじゃなくって!」

 どうも能天気な娘だ。流石にシャーも頭を抱えそうになる。

「おおお?」

 ふと目の前で明かりがちらちらしている。何か争いごとがあるらしく、人の声がわあわあと聞こえる。

「な、なんだ?」

「あ! そうだわ! さっき通りすがりの詩人の船乗りさんとお話してたんだけど、そのひとが喧嘩してるみたい?」

「ええ? マジかよっ!」

 シャーはあわてて立ち止まる。このまま喧嘩をしているさなかを突っ切るのは得策ではなさそうだ。

「ええっと、それじゃこっちの道……」

 シャーがそうつぶやいて、道を探そうとしたとき、ふいに背中に毛が逆立つような悪寒が走った。

 反射的にメイシアを手放し、後ろにおいやる。

 右手の剣を持ち上げた途端、風圧とともに刃に衝撃が走る。うわあっと声を上げつつ、そのまま吹っ飛ばされる。

「あ、大丈夫?」

 シャーのことに気づいたメイシアが慌てて駆け寄るのを、素早く起き上がったシャーが制する。

「ばっかやろう! そっちで待ってな……、うぉッ!」

 闇に紛れて白い光りが閃く。間一髪身をそらして避け、次の一撃をなんとか刀身を斜めに上げて受け止める。押し倒されるような形になっていたシャーは、膝を立ててじりじりと姿勢を整える。

 が、押され気味だ。相手の力が強すぎて、うまく力を流さないと受け止めきれない。

「くそ、イチイチ一撃が重いんだよッ!」

 悪態をつきつつ、シャーは相手を睨む。闇の中で、獣のように瞳がギラギラと光っている。

「なに? 誰と戦ってるの?」

 メイシアがそっと剣を抜きながら、シャーの方を伺う。それに気づいたシャーは、慌てて背後を振り向いて叫んだ。

「馬鹿野郎ッ! こっち、見るんじゃねえ!」

「え?」

 闇に目が慣れてきて、そこに月の光が差し込む。

 メイシアも実力は認めているシャーを苦戦させているモノ。獣のような、そのそんざいかんを放つモノ。それは、ひとりの男だった。

 黒髪で黒い服をきていて月の光でなお青ざめた顔色をしている。気配が獣のようでありながら、その顔は作り物のように端正なのだ。

「あ、隊、長?」

 そのこえに反応してか、ジャッキールがはっと顔を上げる。

(しまった!)

 シャーは、一瞬緩んだ力に起き上がりながら、あわてて叫ぶ。

「目を合わせるんじゃねえ! お前の知ってるジャッキールじゃないんだぞ! ッ!」

 声を上げたことに反応してか、横殴りに剣を振るわれる。起き上がりかけた体勢では受け止めきれず、そのまま横に吹っ飛ばされる。

 ジャッキールの方は、メイシアが気になるのか、視線をシャーから外していた。

「隊長、ど、どうしたの? あたしのこと、忘れた? あたし、ローゼだよ。メイシア=ローゼマリー、隊長に名前をつけてもらった」

 平静を装いつつも、メイシアはすでにこの事態がなんであるのかわかっていた。

 彼と過ごした経験のあるメイシアは、理性を失ったときの彼がときどきこうなることを知っている。

 右手の剣がかすかに揺れて、月光に妖しく煌めく。ふらりと彼女の方に歩いてくるジャッキールに、メイシアは剣を握ることはせずに後ずさる。

「隊長、あたしを斬っちゃうの?」

 ジャッキールは無言。重苦しい殺気と、彼の血に染まったような瞳が彼女を動けなくしていた。

「なにやってんだ、早く逃げろって!」

 ようやく起き上がったシャーは、剣を手に二人の間に割って入るべく駆け出そうとした。が、目の前に黒い影が舞い降りてきて、鋭く彼に短剣を突きかけた。

「てめえら! 邪魔する気か!」

 剣で敵を薙ぎ払うが、夜闇に紛れて二人目が飛び込んでくる。

 その間に、ジャッキールはメイシアの方に歩み寄ってしまっている。

「おいっ! 逃げろ! メイシア!」

 シャーの声も聞こえないのか、メイシアは黙って突っ立ったままだ。

 目の前の黒い獣のような影をみて、メイシアは彼と初めて会った時のことを思い出していた。

(やっぱり、隊長って、死神みたいだな……。すごく綺麗で、とても怖い)

 黒くて殺意だけがギラギラと輝く。それでいて、その顔は白くて整っていて作り物みたいだ。

「でも、あたし、隊長になら、本当はいいんだ」

 ふとメイシアがそんなことを言った。

「あたしは、だって隊長に助けてもらったんだもん。隊長がいなかったら、殺されてたんだ。これは隊長のくれた人生なんだもの」

「おいっ、お前、何言ってる!」

 シャーが敵の短剣を避けた後、体ごとぶち当たって強烈な当身を食らわせる。倒れてできた空間から、潜り抜けようとしたが新しい黒ずくめの敵が目の前をふさいだ。

「急いでるんだぞ、オレは!」

 シャーは珍しく焦りを滲ませつつ、自分から攻撃を仕掛ける。

 ジャッキールはだまってメイシアを見つめているが、その瞳には感情はない。ただ、あるのは殺意のみ。

 かすかに彼の剣が頭をもたげる。

「あの時もそうだったんだよ、隊長」

 メイシアは逃げるそぶりもなく、彼を見上げながら言った。

「あたしは、隊長にならいつだって斬られても良いんだ」


 *


 河岸の通りの橋に、一台の馬車が止まった。馬が軽くいななくが、素早く下りてきた青年がそれをなだめるようにした。続いて貴族風の男が下りてくる。

「どうも送ってくださって恐縮です。ダインバル様」

 そういって馬車から出てきたのは、ジェイブ=ラゲイラだった。先程まで馬車の中で同志であるダインバル卿と秘密の会合をしていたのだが、それが終わったところだった。

 用心深いラゲイラは、自分が潜伏している屋敷の場所を不用意に明かさない。危険性を考え、送ってもらうにしろ遠い場所でおろしてもらうと決めていた。

 それでここで下ろされたのかと思ったのだが、すぐにラゲイラは、ダインバルがここに彼を下した理由に気づいていた。

 ラゲイラは、闇を透かして人影を確認し、思わずふっと冷たく笑った。

「いけませんね、ダインバル様。ほかの方と会うお約束なら、先におっしゃっていただかねば」

 そうダインバルにかすかににらみを聞かせてから、ふっと人影の方に向き直る。従者の青年が思わず警戒したそぶりを見せるが、ラゲイラはそれを手で制した。

「おやめなさい、マクシムス。敵ではありませんよ」

 そういって、ラゲイラは慇懃な動作で相手を迎える。女性のような華奢な人影が彼に近づいてきていた。

「貴方のお噂はかねがね聞いております。私も東方に領地を所有しておりますゆえ、貴方の暗躍は聞き及んでいるのですよ」

「貴方にご存じいただいているとは……」

 人影はくすりと笑うと、大仰に礼をする。

「このリリエス=フォミカ、光栄です」

「ふふ、まあ、私が聞き及んでいるのは、貴方の非道の所業ですが……。誉め言葉として伝えておきますが、なかなかの悪名です」

 ラゲイラは目を伏せて笑った。

「しかし、貴方がここに来ているということは、どなたかが貴方を呼んだということでしょう? ダインバル卿とも親しくしていらっしゃるようだ。私が思い浮かぶ雇い主は、とある女性にょしょうですが、どうでしょう?」

「流石はラゲイラ様」

 リリエス=フォミカは、月光の元に姿を現す。

「そこまでご存じとは話がはやい。実は、私たちもシャ―=ルギィズとかいう男を探していましてね。彼が持っているといわれる総司令の指輪の印章を探しているのです」

 貴方もでしょう? と尋ねられ、ラゲイラはくすりと笑った。

「さて、どうでしょう。それは、貴方の側のお仕事でしょう?」

 ラゲイラはそういうと、相手の反応も待たずに続けた。

「ところで、私は少々道を急いでおります。そんな私を足止めしたのは、まさかご挨拶の為でもないのでしょう? 貴方は本来隠密行動を好む。私に姿を現したからには、何か他に用があるはず」

「はは、本当に察しの良い方ですね」

 リリエスがそう言った時、ふと橋から見える並木道の方で大きな声が上がった。ラゲイラがそちらに目を向ける。

「ああ、ちょうどよかった。見せたいものが参りました」

 そこは月明りがよく入る場所だ。そして、川面の船に篝火がたかれているせいか、ぼんやりとそこからでもその姿が見える。

 並木道の石畳の上で、金属が打ち合う音がする。

「見たいものとは、喧嘩ですか?」

 ジェイブ=ラゲイラは、怪訝そうにそちらを見やった。一体、リリエス=フォミカは何の思惑があって自分にこのようなものを見せるのか、ラゲイラは推し量ろうとしていた。

「!」

 ふと、ラゲイラは目を見開いた。

 彼は橋の欄干に身を寄せて、向こうを凝視した。

「ご覧になられましたか?」

 薄い光の中で、青いマントを揺らしながら長身痩躯の男が逃げる。逃げながら彼は追撃してくるものの刃をかわしていた。

 そして、その追撃する黒い獣のような男は、さらに彼より背が高い。大剣を持った男は、無慈悲に青年に襲い掛かっていた。

 こんな離れたところまで、殺気が飛んできそうなほど、男の周囲の空気は鋭く重い。まるで刃物のようであり、獣のようでもあり。

 しかし、そんなことより、彼は重大なことに気づいていた。

「如何です? あの男、なかなか役に立つでしょう?」

 無言に落ちたラゲイラのそばにリリエスが忍び寄り、にっこりと微笑みかける。

「”彼”に、何を、したのです?」

 ふとラゲイラの声の調子が変わる。少し抑えた声だ。

「何をと言われましても、御前ごぜんも私の仕事の方法はよくお判りでしょう? 少し、良い薬に酔っているだけですよ」

 わあっと向こうで声が聞こえる。黒服の男が鋭い一撃を加えたのを、青年が何とか受け止めたところだった。

「薬で意のままに弄ぶと?」

「いいえ、協力してもらっているのですよ。今彼は幸せだと思いますが?」

 リリエスは薄ら笑いを浮かべて続けた。

「正気と狂気の間で揺れ動いている獣のような男ですから、彼は。こうしてあげて、ようやく悩む必要がなくなった。なんと素晴らしいことでしょう。御前はそうは思われないのですか?」

 ラゲイラは返事をしない。リリエスは告げた。

「あの男のことは、私などより御前の方が良くお分かりでは?」

 一瞬、ラゲイラの視線が背後のリリエスに向かう。欄干をつかむ手に力が入り、ざり、と爪で石を削る音がする。そして、一拍おいて、彼は柔和な表情を作った。

「さて、遠くてわかりませぬので、知った人間かどうかすら……」

 くるりと振り返ったラゲイラは、にっこりと微笑んだ。

「さりとて、たとえ面識のある方だとしても、もはや私には関係のない方でしょう」

「そうでしょうか……」

 物腰柔らかくそう告げて、ラゲイラはリリエス=フォミカを見やった。

「もちろんです。私のような生き方をしていますとね、味方も敵も、その時々で変わるものなのです。その場その場で人間関係は変わるものですよ。離れていった人間に執着などない。だから、関係のないことなのです」

 ラゲイラは軽く会釈した。どこかしら冷ややかに、しかしあくまで彼は品と笑みを崩さない。

「私の旧友の現状を知らせていただいたことは感謝しますが、私はこれでもお尋ね者。帰路を急いでおりますから……」

 そういって、彼はその場を離れようとしたが。

「それでは」

 リリエスに呼び止められ、ラゲイラは静かに足を止める。

「このリリエスの思う通りにしてもよいと?」

 リリエスは妖艶に笑って続けた。

「実は彼のような獣が一匹欲しかったのですよ。相手が誰だろうと消滅させてくれるような、強く美しく血なまぐさい獣が。……だから、一応前の”飼い主”にもお尋ねしたかったのです」

 ラゲイラは黙っている。隣にいた彼の従者が、リリエスの無礼な言動に腹を立てている様子だ。しかし、実際は彼が口を出す前に、ラゲイラの方がため息を深々とついていた。

「慈悲のない男ですね、貴方は」

 ラゲイラは静かに告げた。

「……貴方が彼をどうしようと、今更、私には関係がない。しかし……」

 ラゲイラは一瞬彼を顔半分振り返る。その細い目に一瞬ギラリと光が灯る。

「私はね、お前のような男が好きではない」

 ジェイブ=ラゲイラは言った。

「無慈悲なことをするというのなら、お前の身こそが代償となるでしょう。……今日のような、美しい月夜の下を歩けなくなる。そうすることが、”私”にはできる」

 ふっと冷たい笑みを浮かべ、彼はゆらりと歩き出す。

「今日のところはこれまでにしましょう。私も、ダインバル卿の手前、”女狐(あの方)”の息のかかった貴方と争いたくはないのが本音」

 ラゲイラはうすら寒いほど慇懃な口調で告げた。

「ここは平穏に行きたいものですな。しかし、お忘れなきよう。……マクシムス。行きましょう」

「は、はい」

 あっけにとられていた従者が、慌てて返事をして付き従う。

 ゆらゆらと歩いて行ってしまう彼を見送るまでもなく、かかわりになりたくないとばかり、ダインバル卿の馬車が進みだす。

 不意に足音が聞こえた。ラゲイラと入れ違いに、ザハークと戦っていたはずのネリュームが駆け寄ってきていた。

「わー、もう、つかれたつかれたー」

「おや、ネリューム、サギッタリウスはどうしました?」

 ネリュームはラゲイラとすれ違いながら、リリエスのところまで帰ってきた。

「はー、もう、サギッタリウスったら、めっちゃ強くって、疲れちまったんで、ちょっと切り上げてきたんです。リリエス様のところに戻れてよかったですよ」

「それはよかった。サギッタリウスを相手にするときは、万全でなければ貴方でも危ないですからね」

「はい。あ、そういえば」

 そして、ちらりとラゲイラの方を見て眉根を寄せる。

「それにしても、リリエス様、なんかあったんです? さっきのオヤジ、すっげえコワイ顔してましたよ」

 ネリュームがそう尋ねると、リリエスは手で口を覆うようにくすくすと笑い出した。

「ふふふ、そうでしたね……ジェイブ=ラゲイラ。あんな顔もできる男だったんだ……」

 あんな柔和な雰囲気の、ただの太った中年が。

 肉で埋もれたような細い目から、あのような鋭い眼光で彼を射る。憎悪と怒りを滲ませ、笑顔の奥で彼はリリエスを射殺すような視線を浴びせてきたものだ。

 ――あの反応、そんなにあの男が大切なのか。

「……これはますます、楽しみですね」

 リリエスが一人でくすくす笑いながら、向こうの戦闘を眺めているのを、ネリュームは怪訝そうに見やった。

 

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