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シャルル=ダ・フールの王国  作者: 渡来亜輝彦
エルリーク暗殺指令・前編
171/209

18.狂気の黒狗


 外が何やら騒がしい。

キアンは、ふと外を眺めてその端正な顔を少し歪めた。ここは河岸の近く。名門貴族の生まれである彼には、本来このような場所は身近ではない。自分の意志で来ることのないような場所だ。夜は寂しく、治安もよさそうに見えない。

彼がいるのはその寂しい通りの一角の建物の二階だった。テラスが設けられたそこには椅子が置かれ、ランプの光が細々と周囲を照らしている。

そのともしびを使っているのが、ほかならぬ彼の主人だった。道沿いに向いておかれた椅子にだらしなくもたれかかりつつ、彼は何かをしている。普段はうっとうしいほど無駄口をたたくその男が、今日に限って珍しく無口なのが、キアンには少し気に入らなかった。

「殿下、そろそろ事情を話していただきたいものですが」

 キアンはとうとうそう声をかけた。

「あのいかがわしい者たちと何をお話になったのです。そして、そのまま屋敷に帰るのではなく、どうしてこのようなところに?」

 そう尋ねても、特に返事がない。何やら手元でシャリシャリと音がしているが、何をしているのやら。

「殿下!」

「あー、もう、うるせーな、キアン。集中できねえじゃねえかよぉ」

 ギライヴァー=エーヴィルは、いつも通りどこかしら気怠い。

 面倒くさそうにゆらりと顔だけキアンの方を向くと、彼はため息をついた。

「ったく、大したハナシでもねえんだよ」

「それでは、何故すぐ帰らないのです?」

 キアンは眉根を寄せた。

 別室で待っていたキアンのもとに、ギライヴァー=エーヴィルが平然とした顔で戻ってきたのは、彼が待たされてからそれなりの時間が経ってからだった。しかし、彼を案内したリリエス=フォミカとかいう怪しげな男とその一味に案内され、そのままここに連れてこられた。ごゆるりとお過ごしください、などと言われたものだ。ギライヴァーは、特に害はないので放っておけ、気にすることはない、とは言っていたが、そうはいっても到底信用できない相手だ。キアンは再三帰るように進言したが、ギライヴァーから理由も何も引き出せてはいなかった。

「何故すぐに帰らねえって? そりゃあ、ここで見世物があるから、見ていけっていわれてるからよ」

 ギライヴァーはそう答えて前髪をかきやった。

「せっかく言ってくれてるんだから、ちょっくら付き合ってやるしかねーだろ」

「殿下……」

 キアンはため息をついて、額に手をやり、彼に近づいた。

 そして、彼の手に何やら白い紙があるのに目をとめた。よく見るとギライヴァーの右手には細い筆も握られている。その紙には何かが描かれているようだ。

「殿下、おヒマつぶしに落書きですか?」

 ちっとギライヴァーは舌打ちした。

「おめえさあ、俺を捕まえて落書きとはよ。おめえも見る目のねえ男だよなあ、ツクヅク」

 ギライヴァー=エーヴィルは拗ねたように言った。

「こう見えても、俺は肖像画描かせると王都一っていわれたことがあるんだぞ。おめえだって知ってるだろう?」

 ギライヴァーの言っていることは、別に大袈裟なことでもない。

 確かにこの男は、肖像画を描くのが趣味だった。貴人の癖にいかにも素行の悪そうな見てくれとは裏腹に、大層な腕前らしく、前王の肖像画を描いたのもこの男だという。キアンも彼の腕前は知ってはいるものの、しかし、元来気まぐれなこの男は、気が乗らなければ筆が進まない。よほどよいモデルでもいれば別だが、近頃はそういう理由で絵筆をとっているのもみかけなかった。

「しかし、お珍しい。最近はとんとお描きにならなかったのでは」

「素材がいねえからよ。俺はなあ、女も男も美形じゃねえと描く気が起きねえからさあ。特に創作意欲がわくのは女なんだがさあ、ほら、近頃、イイ女がいねえからなあ」

「殿下の口からそのようなお言葉が……」

 しょっちゅう遊んでいらっしゃるのでは、と言いたげなキアンに、ギライヴァーはやや不機嫌に舌打ちする。

「ふん、抱きてえ女と描きてえ女は違うんだよ。描きてえ女はなあ、ただ美人だとか、色っぽいとかそういうのじゃダメなんだ。おめえにゃわかんねえだろうけどよ、とにかく”美しく”なきゃ、だぜ?」

 一瞬真面目そうな目つきでそういうが、すぐに彼は元にもどっておどけたように言って笑う。

「まー、俺は抱いた女の面は全員覚えてる誠実な男だけどさーっ!」

「左様で……」

 主君の戯言はいつものことだ。キアンはまじめにきかずに聞き流す。

「しかし、それでは一体誰をお描きになっているのです?」

「いや、久しぶりに見かけたからさー。ちょいと記憶と照合してたんだぜ。造形いいヤツ描くのは、暇つぶしにはなるからなー」

 そんな軽口をたたきながら、自信ありげにキアンに笑いかける。

「俺は抱いた女の面以上に、いっぺんでも描いた人間の顔は男女問わず忘れねえんでな。ホレ見ろ、いやあ、俺、なんというか天才だわ」

 そういって彼はランプを手元に近づけてキアンに見せた。

 そこにはギライヴァー=エーヴィルの描いたとは思えない、繊細で写実的な素描がいくつかあった。キアンも何度か主君の絵を見たことはあるが、目の前で描かれていても、このクセの悪い主君が描いたとは思えなかったものだ。

 そして、そこに描かれた短髪の男にも、なんとなく見覚えがあった。すっきりとした外国人風の美男子だが、目つきだけがやたら鋭い。その容貌に似つかわしい甘さを含んでいないのだ。キアンはその特徴的な目に引っかかりを覚えていた。

「これは?」

 眉根を寄せて目を瞬かせると、

「お前も覚えがあるか? これは、ホレ、昔、ラゲイラの親父の護衛努めてたイケメンだよ。さっき見かけてな。ちょっと雰囲気変わってたけど、わかるだろう」

 ギライヴァーはにやりとした。

「俺は男も女も美形じゃねーと描かねえ主義だからよお。ラゲイラの親父に頼んで何度か、使いに来たついでに素描させてもらったことがあるんで、アイツの面はよーく覚えてるのさ。ちょっと雰囲気変わってたがな。ま、あっちは俺のことを不良王族ぐらいに思ってて、実際何者か、はっきりとは知らなかっただろうがな」

 キアンもその男のことは何となく覚えている。ラゲイラ卿がやたらと気に入って取り立てているという、ギライヴァーの話だった。しかし、先の暗殺事件の時に、彼はラゲイラの元を離れたとも聞いている。

「しかし、その男が何故彼らと?」

「サテ、その辺の事情は、俺もよく知らねえんだが……」

 とギライヴァーは、何やら含むような顔をする。

「いやぁ、この色男がこの件に絡んでる理由がさあ、ちょいっと面白そうだったからよ。あのクソマジメな奴が、なんでラゲイラのもとから離れたのか、割と気にはなってたんだよなー」

 と、彼は膝の上に紙を投げ出して、懐に右手を入れた。

「それで、俺も”観戦”してみるつもりになったのよ」

「殿下、それはどういうことです?」

 キアンは主人の言っている意味が分からず、眉根を寄せたが、ふいにそのときに道の向こうで声が上がった。

「なんだ、先ほどから騒がしいな」

 キアンはそちらを睨みつけたが、ギライヴァーは落ち着いたものだ。

「始まっただけだろ。気にすんなって」

 横目でキアンを見やりつつ、彼はそう呟いて両手を頭の後ろで組んで背伸びをした。

「ま、俺たちは高みの見物だかんなー。せいぜい楽しませてもらうぜ」



 *


 月の光の美しい夜だ。

 磨かれた金属が、その冷たい光を照り返し、一瞬見とれてしまうほど美しく輝き、芸術的な弧を描く。

 しかし、それに見惚れてはならない。それを見つめることは死を意味していた。

(速い!)

 シャーは瞬時にそう確信して焦っていた。

 十分に合わせていった筈が、彼の手元で唐突に動きが速くなるのだ。

 振り下ろされた白刃を慌てて受け止めにかかるが、相手の方の力の方が強い。

「うおっ……!」

 そのまま押し切られそうになって、シャーはあわてて身をそらして力を逃す。しかし、容赦なく追撃を食らっていた。その一撃一撃が、重い。どうにか受け流していたが、ふと月に照らされた影が、素早く剣を手元に引いたのを見た。

「は……!」

 シャーはあわてて体をのけぞらせた。髪の毛をかすめながら、冷たい刃が目の前を通り過ぎる。

 そのまま転びそうになりながら、シャーは暗闇の中に逃げ込んだ。一瞬、標的を捕捉しそこねたのか、相手の攻撃がやむ。だが、相手もすぐに気配を読んで、再び襲い掛かってくるにきまっているのだ。

 しかし、それでも息をついて、仕切りなおさなければ。このままでは相手に振り回されっぱなしだ。

 シャーは息を整えつつ、剣を構えながら暗闇を静かに移動した。

「くそッ、……じょ、冗談じゃねえよ、ジャッキールの奴」

 暗闇に潜むジャッキールは、独特の重い殺気を放ちながら、そこに存在していた。

 シャーは、今までジャッキールとは何度か剣を交えたことがあった。

 その中には、本気の剣も手心の加わったものもあったが、それだけにジャッキールの実力はよくよく知っている。

 この男の剣は、とにかく受けづらい。技術も確かだが、ふいに変な不規則な軌道を混ぜてくるクセがあり、さらに言えば速い。特に切り返しの速さが群を抜いている。

 普段は性格のわりにおっとりしていて、挙動もさほど早くないジャッキールだが、戦闘時のそれはまるで別人だった。それは重々によくわかっていたが、久々に彼の本気の剣を受けると、普段との差に驚きを覚えてしまうものだった。

 シャーは肩で息をしていたが、このスキに呼吸を戻すことに努めた。

 それなりに体力には自信のあるシャーだったが、先程相手にしていたのが強敵にネリュームだったこともあり、思ったよりも疲れていた。そこに今のそんな状況も考慮してくれなさそうなジャッキールとは、あまりにも分が悪い。

 ジャッキールは無言。特に目立った表情もない。獣のような息づかいだけが聞こえてくるだけ。正直不気味だった。

 ジャッキールは、戦闘中は普段より口数が多くなる。気分が高揚して、普段は黙っているような無駄口をたたくのが彼の常だが、今日の彼は笑い声一つ上げない。

 そして、不気味以上に、厄介でもある。

(さっきから、声をかけても反応が全くない)

 前に泥酔した時にこれに近い状態になったのを知っているので、何やら薬でも盛られたのかもしれない。しかし、それにしても、まるでシャーの言葉を理解していないかのようだった。ここまでなのは、初めてだ。

(ダンナと戦うときは、心理的にぶん回すのがいつもの作戦だったんだけどな)

 さすがのシャーも、まともにジャッキールとぶつかるのはキツイ。比較的相性がいい相手だが、それはシャーがジャッキールをスピードで振り回しつつ、心理戦を仕掛けていたこともある。元が繊細なジャッキールは、意外に戦闘中に揺さぶりをかけると弱いところがある。特にシャーのような年下の若造から仕掛けられると余計効き目があったものだが、こういう時のジャッキールにはその作戦が使えない。そういう時の彼の厄介さは、一度経験があるのでよくわかっているが……。

(どうしたもんか……。手加減する余裕はないけど、マジでやるとそれこそ殺し合いになっちまうし……)

 そんなことを考えていたとき、ふいに目の前の闇が動いた気がした。その瞬間、視界に唐突に金属の光が飛び込んでくる。

 考え事をしていて少し油断をした。が、それにしても、一瞬気配がなかった。

「やべ、っ……!」

 シャーは思わず声を上げつつ、飛び込んできた刃を受け止めようとしたが、力の乗った相手の剣はことのほか重い。そのまま押し切られそうになる。

「な、なんだっ、マジ……っ!」

 言葉の途中で余裕がなくなり、シャーはそのまま押されて振り切られた。敢えて止めることに固執しなかったのが功を奏したらしく、危ないところで刃を逃れたが、そのまま地面に転がったシャーをやすやすと逃すような相手ではない。あくまで冷徹に、追いすがってくる。地面を転がりながら追撃を避けつつ、シャーは片膝をついて身を起こす。

 それを予測していたかのように、ジャッキールが強力な一撃を振り下ろしてくる。ここは受けるしかない。シャーは覚悟を決めて剣を構えなおした。衝撃が体に降りかかってきて、指から手にしびれが走る。

(なんだ、ッ、重い!)

 マズイ! 想定以上に一撃が重い!

 そのまま押し切られて叩き伏せられそうになるのを両手でどうにかこらえる。ギリギリと刃がこすれて音を立て、夜闇に火花が散る。

 ちら、と上を向くと、ジャッキールの視線とぶつかった。月の光を浴びた彼の、瞬きもしない目が自分をギラギラとみていたが、それにヒトらしい感情が映っていない。

 それは獣の目だ。

 思わずシャーでも、ぞっとしてしまうほど、それは冷たく殺意に彩られている。

「くそッ!」

 押し切られる直前に、痺れてきた手をどうにか斜めに返し、力を逃す。危うく剣を手放しそうになりながらも、シャーはジャッキールの片足を引っかける。普段の彼ならさておき、今の彼はそれをよけることはなかった。

 ジャッキールが体をかしがせた隙に、シャーは危うく虎口を脱して、少し離れた暗闇に逃れる。

 一度大きく息をつく。再び、息が上がっているのは、何も運動量のせいだけではない。冷や汗をぬぐいながら、シャーは闇を透かして相手を見る。

 ジャッキールは、さすがにそこでは転んではいない。一瞬シャーを見失っているようだが、気配を探り当てればすぐにでもとびかかってくるだろう。

「ちッ、ジャッキールの野郎!」

 シャーは苦々しげに舌打ちし、恨めしげに相手を睨み上げる。

(あのダンナ、前の時はこんなにも重い一撃を加えてくるヤツじゃあなかった)

 確かにジャッキールはもとから強かった。

 が、シャーでもうまく受け流すこともできる程度ではあったのだ。こんな風に受け止めきれないほど重い一撃を食らったのは初めてだった。

(それにいつもより動き全般が速い。何故だ。何か盛られて、わけわかんなくなってるハズなのに……)

 動きの精密さは確かに減っているが、逆に力任せで早くなっている。それはいったい何故。

 もしかしたら、とシャーは、目をすがめた。ジャッキールの視線がこちらを向く。探していたシャーを探り当てたのか、すでにその目に殺意が燃え上がる。

 ――ジャッキールのヤツ、いつもより更に強くなっている?

「はッ!」

 シャーは、思わず笑い声をあげた。

「くそ、シャレにならねえぜ、ダンナ!」

 シャーはそう声を上げて、今にもとびかかってきそうなジャッキールに言った。

「とっとと正気に戻るか、そうじゃねえなら、ちったあ、手加減しろよなア!」

 苦笑まじりに吐き捨てて身を起こす。

 ジャッキールが振り返り、ぐっと剣を握る。相変わらず無言だ。当初は獣のように荒く息を吐いていたが、今のジャッキールはむしろ静かだった。

 ただ、赤く輝くような瞳に、静かに重苦しい殺気だけを映し、全身からそれを放つ。

(どうする?)

 軽口とは裏腹に、シャーは対処を考えあぐねていた。

 まともに行くとするなら、シャーも相手を殺すつもりで行くしかない。

 しかし、かつてならともかく、今のジャッキールにそれをやるか? だが、前に対峙した時よりも危険な彼に、手心を加えて勝てるとも思えなかった。

(どうするのが一番いいんだ?)

 歯噛みしながら考える、シャーの額を冷や汗交じりの汗がしたたり落ちる。

 答えが出ない間に、ジャッキールの足が地面を蹴った。シャーは再びその攻撃に警戒した。

 と、そのとき、空気を切り裂くびょうという音がした。

 不意にジャッキールの顔の真横を、一本の矢が通り過ぎた。しかし、それにジャッキールは反応しない。だがそれを見越していたように、ほぼ同時に二本の矢が彼の足元に突き立った。流石にそれで、ジャッキールが動きを止めた。

「小僧! まともに相手をするんじゃない!」

 不意に聞き覚えのある声が闇の中から響き渡り、月明りの中に人影が浮かび上がる。

「エーリッヒの剣を正面から受けようなどと、ゆめゆめ考えるな!」

「へ、蛇王へびおさん!」

 声でその正体がわかっていたが、シャーは改めて声の方を向く。月光を背負うようにして走ってくるのは、ほかならぬザハークだった。

「蛇王さん、来てくれたのか!」

 それなりに息を切らせているところを見ると、一度酒場の方に立ち寄ってこのことを知ったのかもしれない。ともあれ、ザハークの姿を見て、シャーは多少心強くなった。

「おや、これはお珍しい」

 シャーとジャッキールの戦いをうっとりと眺めていたリリエス=フォミカは、ザハークの姿をみとめ、かすかに目を見開いて声をかけてきた。

「サギッタリウスではありませんか。これはまた、招かれざる客もよいところですね」

 袖で口をおさえるようにしながら、リリエスはくすりと笑い、前髪をかきわけた。

「本当に、厄介な邪魔が入ったものです」

 その声を聞きとがめたのか、ザハークが足を止めてリリエスの方を睨みつけた。

「やはり、貴様の仕業か!」

「サギッタリウス、ご無沙汰していますね」

 不機嫌そうなザハークに、リリエスは慇懃無礼に挨拶をする。

「相変わらず、勘が鋭い方です。貴方がここに潜伏しているらしいとは聞いていましたが、私のことに感づいているとは思いもしませんでしたよ」

 ふん、とザハークは不機嫌に吐き捨てた。

「もっと早く気付くべきだった! あの娘がここに来ていると聞いた時点でな!」

「うふふ、それは残念でしたね。仲良しのエーリッヒが先走ってしまったので、あなただって困惑していたのでしょうが……」

「黙れ」

 何かいいかけたリリエスを、ギラリとザハークが睨みつける。

「俺は昔から貴様の声音が嫌いでな。あまり耳障りなようなら元から消す」

 有無を言わさぬ迫力のザハークに、それでも少し気おされたか、リリエスは一拍遅れてくすりと笑った。

「ふっ、相変わらず怖い男ですねえ、貴方は」

 リリエスは目を細め、ふうとため息をついた。

「けれど、今宵は貴方に邪魔されるわけにはいかないのですよ」

 ザハークは完全にリリエスを無視しながら、シャーのいる方に駆け寄った。すでにジャッキールはザハークをみとめているようだが、飛び掛かってこない。

 先ほどからザハークは、ジャッキールに視線を合わせている。目を合わせて強く牽制しているせいか、ジャッキールの方もやや警戒しているようだった。

 それとも、今の理性を失ったようなジャッキールでも、さすがにザハークは警戒すべき強敵だと思えているのか。

「蛇王さん!」

「小僧、エーリッヒとは、真正面から相手するんじゃない! 絶対に力負けするぞ!」

 シャーが声をかけると、ザハークは彼にしては珍しく早口で言った。

「こういう時のエーリッヒはな、普段より何倍も力が強いのだ。俺でも危険なほどだ。真正面から受けようなどと考えるな!」

「で、でも……」

 言いかけたシャーにザハークは直接答えずに尋ねた。

「先ほど、俺が放った矢を見たか?」

「え、あ、ああ」

 シャーが視線をザハークに視線を向ける。ザハークはシャーを見ずに、まだジャッキールを視線で牽制しながら言った。

「敢えて俺は顔スレスレのところを狙った。だが、エーリッヒは全く避けなかった。それがどういうことか、お前にはわかるだろう? あの男、ああいう状態に陥ると、自分の身を守る行動をしなくなる。だから限界まで力を引き出して獣のように暴れられる」

 ちらと一瞬リリエスの方に視線をおくり、ザハークは舌打ちした。

「あの細面の男は、リオルダーナ国境付近では毒使いとして名うてでな。エーリッヒとは、少し因縁のある男なのだ。アイツに薬を盛られて暴れる人間は昔からいたが……」

 とザハークは苦く言った。

「しかし、よりによってエーリッヒのヤツに……」

「蛇王さん、オレだけなら無理だけど、蛇王さんと二人でなら、ダンナを押さえつけられないかな」

 シャーがそう尋ねるが、ザハークは首を振った。

「残念だが危険すぎる。今は俺が現れたのでアイツも警戒しているが、機会をうかがっているだけだ」

「だけど、蛇王さんなら……!」

「小僧」

 ザハークはため息をついて、シャーの方を一瞬みた。

「俺が戦場で出会って、本気で逃げた相手は、あの状態のエーリッヒだけだ。それがどういうことか、わかるな?」

 シャーの言葉を封じるように、ザハークはそう畳みかけた。

「アイツとはまともに戦うな! ヤツが正気に戻るか倒れるまで逃げろ! それが一番いい作戦だ!」

「で、でもさ、い、いつ正気に戻るかもわかんないのに……」

 ザハークが先程自分で言っていたのだ。

 今の彼は、疲れ知らずの”獣”なのだと。だとすれば、逃げたところで、先にへばるのは自分達の方でないのか。

「だったら、きっちり殺せ」

 ザハークは冷徹なほどにはっきりと言った。シャーは思わず非難めいた声になった。

「蛇王さん、いくら何でも……!」

「アイツ相手では生半可に対応できん! かえって危険だ」

 言いかけたシャーにザハークは、冷たく見えるほど冷静に告げた。

「それに、奴ならあんな状態で生かされるなら死んだほうがマシだというぞ。奴のことを思いやるつもりなら、きっちりトドメは刺せ! それが嫌なら一晩中逃げるのだ!」

 シャーは、はっとジャッキールの方を見る。

 ザハークに牽制されながらも、彼はこちらに殺気を向けている。強敵ザハークに警戒しながらも、ギラギラと輝く視線をこちらに向けている。猛獣が襲い掛かる寸前の、危険な空気が漂う。

「いいか、奴のスキを見計らうのだ! 逃げるつもりならな!」

 ザハークがそう囁く。逃げるなら、ザハークとタイミングを合わさなければならない。そうでなければ、かえって危険だ。

 と、そのとき、ふと彼らの間に白い影が割って入ってきた。

 キラリと白刃が、月光に輝く。その切っ先は、ザハークの首に向けられていた。

「ちッ!」

 ザハークは素早く剣を抜いた。弧を描くよう、流れるように抜いた剣が、飛び込んできた何者かの刃を弾く。そのまま相手を跳ねのけつつ、ザハークは剣を構えた。

「うっわー!」

 軽い感嘆の声が響き、白い人影はおどけた様子で飛びのいた。

「流石サギッタリウス! 滅茶苦茶怖いじゃん!」

 割って入ってきたのは、ネリュームだ。

「怖いけど、あんたに邪魔されちゃ困るってリリエス様がいうんだよねー。相手をさせていただきますよ?」

 気乗りしないんだけどもー、と彼は言いながら、ザハークと対峙する。

 ザハークはすでに常の彼とは違い、あからさまに冷たい視線をネリュームに浴びせかける。普段の人懐っこさを微塵にも感じさせない。

「ふん、俺は機嫌が悪くてな。貴様等が遊びのつもりでも、怪我ではすまんぞ」

「うわー、本当に怖いねー。でも……」

 とネリュームが軽口をたたいた時、ざわりとザハークの周囲で数人が動いた。ザハークは背後から襲ってきた者の刃をかわすが、すぐに次のものが彼に襲い掛かった。

「俺も一人じゃないからさあ。残念だけどー」

 ネリュームがやれやれと言いたげに告げる。

「蛇王さん!」

「あら、貴方はダメよ」

 数人に取り囲まれたザハークを助けようと、シャーはそちらに足を向けようとしたが、女の声がそれを遮った。この状況に合わない女の声に、シャーははっとそちらを見る。

 いつのまにか、少女がジャッキールの近くに佇んでいた。その手には笛のようなものが握られていた。

「貴方は、あくまでエーリッヒと戦ってもらうんだから!」

 そういうと、少女、アーコニアは笛を吹いた。ただの甲高い音だったが、その途端、ジャッキールが声を上げて反応する。獣のように咆哮する彼に、アーコニアは冷たく言った。

「ほら、行きなさいよ! 駄犬!」

 ギラギラと輝く瞳に映ったのはほかならぬシャーだ。逃げろ、とザハークの声が響く。

「くそッ!」

 シャーはあわてて踵を返して駆け出した。運河の通りの並木道、人通りのないその道を走り出す。

「あっ! 逃げるわ! 追いかけなさい、エーリッヒ!」

 命令を下すまでもないだろう。

 先程、ジャッキールは自分を獲物として認識している。彼の性格的にも、一度狙いを定めた相手を逃すとも思えなかった。

(夜明けまで? いや、ジャッキールがへばるまで逃げるだって?)

 ザハークに言われたことを思い出しながら、シャーはぐっと歯噛みした。

「冗談じゃねえぞッ……! やってられるかよ、ジャッキール!」

 背後からは、黒い獣が迫ってくる気配がする。


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