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シャルル=ダ・フールの王国  作者: 渡来亜輝彦
無双のバラズ

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137/209

6.賭博師ファリドの狂気

「えーと……、そうだなー、うーん」

 シャーは、目の前の五枚の紙きれを前に唸っていた。

 握っている骨牌カードには、数字の書かれた中に踊る乙女の絵札が一枚まぎれ、にっこりとほほ笑んでいる。この乙女の絵札は、万能を示しているので、今の時点ですでに月一対の状態にはある。のだが、さすがにそれでは勝てそうにもない。札を交換しなければならないのだろうが、どの札を捨てるべきかで悩んでいる。

 バラズはどこに行ったものか、ちっとも帰ってきやがらない。どこかで酒でも飲んでいるのか、それとも、怖くなって逃げたのか。

 ともあれ、バラズを頼りにしていても仕方がないと思ったシャーは、一人で獅子の五葉の座にいた。

 先ほどの男は、サシで勝負をしていたが、通常獅子の五葉は複数人で囲んで行う遊戯だ。もっとも、徐々に人数が減って、先ほどのように二人だけの真剣勝負になることも少なくない。今、シャーの周りには三人がおり、今は四人での勝負をしているところだった。

 自信はないとはいったが、シャーとて昔は結構よくやっていた遊びであるので、勘を取り戻せばそこそこ勝つ。ちまちまと手堅く勝ちを重ねてはきたが、店側の出してきた相手が変わってからは流れが変わりつつあった。

(やっぱり、そう簡単には勝たせてくれないよなあ)

 先ほどは、うっかり相手の術中にはまってしまったらしく、読みを間違えた。同じ数字を三枚並べた華三葉はなさんようを持ったシャーは気をよくして賭け金を上げたのだが、相手はもっといい役を持っており負けてしまった。

 そのために、今度は慎重になっていた。一応、月一対つきいっついではあるのだが、これ以上の役が出るかどうか。シャーの他の三人のうち二人は同じ客だった。シャーでも手札がある程度読めるぐらいにはわかりやすいし、どうやら玄人ではないらしい。あまりツイてもいないらしく、シャーの方が勝ち回数も多いので、彼らはさほどの脅威ではない。

 問題は、店の出してきた賭博師だ。ファルロフとは少し感じが違うが、やはり上品で知的なほっそりとした中年の男。落ち着いていて無口な彼の表情が読めない。

 シャーの手持ちの札は、剣の五、剣の七、盃の二、貨幣の三、そして万能の乙女。一番大きい数字が有利であるので、ここでペアを作るとすれば剣の七と乙女の札となる。だが、相手がそれ以上の役を持っている可能性も高い。

 ここで札を捨てて勝負にでるべきなのだろうが、剣の七以外のどれをすてるべきか。

(んー、やっぱり、盃の二と貨幣の三だよなあ。剣の印が後二枚うっかりそろえば、光の五葉になって御の字だし、仮に持ってても数字も小さいし)

 と考えたシャーは、結局、盃と貨幣の二枚を捨てて交換したが、やってきた札は全く期待していないものだった。

 結局、月一対のままのシャーは負けてしまい、場に出された貨幣は全部店側の賭博師に持っていかれてしまった。賭博師は、月二対つきについで勝負してきたのだ。

(あー、もうこれ、オレ、降りようかな。全然芽が出やがらん)

 とシャーはめげてしまったが、そのとき、ふと声がした。

「はは、どうもイマイチだな」

 後ろを振り返ると、いつの間にやらバラズが後ろにいた。扇子など広げて優雅に高見の見物といった様子だ。

「爺さんどこいってたんだよ?」

 シャーが、横目でにらみながらそういうとバラズは肩をすくめた。

「どこって、ちょっとあちらこちら見て回った後は、さっきからおぬしの後ろにいたのだが。気づいてなかっただろう?」

 そういわれるとそうかもしれない。シャーも目の前の勝負に夢中になっていて、後ろに注意を払っていなかったし。バラズは、少し挑発的に笑う。

「せっかく、ソコソコだったのに、ツキがない男だねえ、お前さん」

「ほっといてくれよ。爺さん。今日は多分ダメな日なの」

 シャーは、ムカッとしてそう言い捨てる。

「それじゃ、ここからは私が協力してあげようかねえ」

 バラズはもったいぶってそういうと、ひざを進めてきた。よいかな? とシャーにではなく周囲に了解を求めると、彼がそもそもシャーの後ろで勝負を眺めていたのは知っていたのだろう。あっさり連れと認定されたらしく、シャー以外の誰からも異論は出なかった。

「ということで、選手交代じゃ」

 不服そうなシャーを押しのけ、勝ち誇った笑みを浮かべてバラズはそこに座った。

「いいけどジジイ、負けたらタダじゃおかねえからな」

「はは、そうだな。その場合には、おぬしに何か高いものでもおごって進ぜよう」

 バラズはしゃあしゃあとそんなことを言ってしまう。

 早速、獅子の五葉が開始される。シャーは傍でついているが、バラズに配られた札は決して良いものではなかった。

 剣の六、剣の八、盃の三、貨幣の五、盃の五。月一対の役ではあるが、それでは先ほどのシャーと変わらない。

 獅子の五葉の場合、自分の役を確認した後でいくら賭けるかどうかを決める番が回ってくる。シャーは先ほどあまり期待しなかったので、ちょっとしか賭けていない。今回もどうせろくな役ができそうにないのだから、適当に賭けて……。

 とシャーが思った瞬間、バラズは存外に多い貨幣を手元から引き出していた。

(ジ、ジジイ、またそんなわけわかんねえこと!)

 シャーはあわてて身を乗り出す。

「ちょっと、ジジイ、そんな賭け方……!」

 と言いかけて、シャーはギクリとして口を噤んだ。

 バラズに手で制されたのだ。しかし、それだけで黙るようなシャーではない。黙ったのは、バラズがこちらに向けた視線とぶつかったからだ。

 ちらりとシャーの方を見たバラズの視線はあまりにも鋭い。その刺すような視線に、シャーは思わず絶句する。彼は殺気すら感じさせる視線でシャーを一瞥した後、ふっと遊戯に戻る。そうするともう元のバラズだった。

「さて、どうしようかの。少し多めに賭けようか」

 彼は陽気にそういった。

(なんだよ、今の……!)

 シャーはそんな彼を茫然と見ながら、悪寒すら覚えていた。

 今の視線。いったいあれは何だ。

(爺さん、なんて目をしやがるんだ。今の、いや、そんな偶然じゃ……)

 シャーがそんなことを考えているうちに、大していい役でもないのにそういってバラズは多めの貨幣を賭けてしまう。シャーはどうなることやらと見守っているが、バラズはまるでとてもいい役を持っているかのようにニコニコしていた。その笑顔には先ほどの目をした男の影は感じられない。

(なんなんだ、この爺……。もしかして、本当にただのジジイじゃないのか?)

 いっそのこと不気味だった。それとも、さっきのは自分の勘違いだろうか。

「それでは交換させてもらうよ」

 と、バラズは断りを入れて、剣の六と盃の三を捨てた。しかし、バラズの手元にやってきたのは、盃の四と貨幣の二。結局月一対のままだ。

(この勝負先が見えたかな)

 シャーは期待外れだったなというような表情をしていたが、バラズは表情を変えない。隣の二人も芳しくないらしく表情が険しいままだ。残りの賭博師の表情は、相変わらず読めない。

 ここでもう一度賭け金を上げるかどうか尋ねられる。シャーなら保留するところだが、バラズはふとニヤッとして賭け金を上げた。先ほどと同じぐらいの貨幣を手に取って、ざらざらと積み上げる。

「それじゃ、私はこれだけにしよう」

(ちょ、じ、ジジイ!)

 シャーは、はっきりと焦っていた。月一対で勝てる可能性はそれほど高くない。相手だって同じような役を持っているかもしれないし、同じ月一対の時は、数の大きい札を持っているものが勝ちなのだ。バラズの持っている札は五であるので、それ以上の札の月一対以上の役を相手がもっていたら負けということである。

 それだというのに、バラズと来たら強気で賭け金を上げているのだ。

(ジジイ、狂ったか!!)

 シャーは、いよいよ不安になってきた。そういえば先ほどのサイコロの時の賭け方も随分ひどい賭け方だった。

(ああ、やべえ。オレが続けてた方がマシだったんじゃ……)

 シャーは頭を抱えそうになっていたが、ふと、相手の賭博師が少し顔色を変えた。それをバラズは見逃さない。

「無理することはない」

 にっこりとほほ笑む。

「お前さんの手札は読んでいるんだ。私も相当しょぼい役だが、この勝負、私の勝ちだよ」

「えっ、ちょ、ジジイ、なに言って……」

 シャーは口を出しかけたが、バラズはちらとシャーの方を見た。先ほどほど鋭くはないが、その瞳はいつもとは違う輝きを宿していた。

「はは、お客さんの言う通りだ」

 賭博師は口をはさみ、手札を投げやった。場に投げ出された札は、盃の二と貨幣の二での月一対。つまり、バラズの方が上の役なのだ。

 隣の二人は、月一対の役もないブタだ。これはシャーでもわかっていたが、それにしても、バラズは目の前の賭博師の役を読んでいたのだろうか。

(いや、まさか……)

「いやいや、悪いねえ」

 バラズは場に出された貨幣をいただきながら、懐から扇子を広げてからからっと笑った。

 しかし、その表情は、あのいつも所在なさげで温厚なファリド=バラズとは違っていた。扇子をずらしながら、にいっと笑ったその顔は、ただの陽気な老人のものではない。

 まるで自信に満ち、ギラギラと目を輝かせている賭博師そのもの。

「最初の顔色が良くなかったようだから、少し強気で出させてもらったのだよ。さて次に行こう」

 にっと笑うと、ぱちんと扇子を閉じてしまい、バラズは次の勝負を催促する。

 ふと、彼をのぞき込んでいるシャーと目があった。ふっとバラズは一瞬笑いかけたが、その笑みは先ほどと違って少し冷たく、彼の顔に似合わずすさんだ気配を持っていた。

(な、なんだよ、この爺)

 シャーは、少し悪寒を感じてひきさがった。

(まるで別人みたいな気配まといやがって……! コイツ、カタギじゃねえ!)

 その視線の先には、獅子の五葉の骨牌カードと勝負の相手しか映っていない。あのおっとりして温厚だった彼の視線は、今や獣のような獰猛さを内に秘めている。少なくとも、今の彼は、自分が意見をできるような人間ではないのは確かだった。

 やけに不穏なバラズの存在感が、すでに場を支配し始めていた。

 



 以降、完全に流れが変わっていた。

 明らかにバラズは周囲の持つ手札をおおよそ把握しているらしかった。そして、彼はいいように相手を翻弄し始めた。

 時には、明らかに強い役を持っているにもかかわらず、敢えて賭け金を増やさずに少しがっかりしたようなそぶりを見せ、かと思えば、ろくな役を持っていないにも関わらず強気に出ることもある。

 そんな彼の術中にはまってか、賭博師を含んでの相手は、それに惑わされて判断を誤らされていった。時には、勝てるはずの札であるのに無理に交換してしまって敗北したり、逆に勝てない役のままで勝負をさせられたり。

 それにしても、バラズの手並みだ。骨牌カードを手元で操る彼の動きは、相手の賭博師の動きよりも流麗で美しく、そして素早い。如何様をされても分からないほどの手つきは、彼がただの獅子の五葉の好きな老人ではないということを示していた。

(この爺さん、どう考えても素人じゃねえだろ……)

 シャーは彼の背後に座ったまま、彼の勝負を見つめていた。

 彼は勝利のきっかけを見逃さない。相手の手札を正確に読み、そして自分の札を確実に勝利に導くための札の捨て方をする。頼りなげな幸運を確実に引き寄せる為に、彼は考えてそれを実行に移していた。

 そして、それで勝つのだ。

(リーフィちゃんは、確かにただものじゃないみたいなこと言っていたけどさあ! リーフィちゃん、この爺とどういう知り合いなの?)

 時折、扇子の合間からにやっと不敵な笑みを浮かべるが、普段の好々爺然とした笑みが嘘くさく思えるほどだった。シャーをして、同じ人間とは思えないような変わり方だった。

 いつの間にか、賭博師以外の二人は相当払わされた上に降りてしまい、賭博師とバラズ二人っきりの戦いになっていた。

 あれほど表情の読めなかった賭博師も、さすがのこの状況に焦りを顔に表していた。そうなると、もはやバラズの敵ではない。じわじわとバラズに追い詰められる彼を見ると、シャーが敵ながらかわいそうになるほどだった。

 最終的に、バラズが月二対つきについ華三葉はなさんよう、つまり同じ数字二枚と同じ数字を三枚の大技である月華げっかの五葉ごようを完成させると、相手は勝負を降りざるを得なかった。

「まあ、本気を出せばざっとこのようなものだな」

 バラズは冷徹にそう言い放つと、出された珈琲を優雅に飲みながらのんきに一息ついた。

 彼の前には、いつの間にやら賭けた貨幣が山盛りになっていた。果たしていくらになるのか、パッと目で計算できないほどだ。相当な大金であるのは間違いない。

「は、はは、お客さんにはやられたよ」

 賭博師が、苦笑しながら言った。

「まさか、そんな手札を持っていたとはね。華三葉で勝てると思った俺がまだまだだった」

「いや、お前様もなかなか良い腕をしていたよ。しかし、私の方がよく読んでいたというだけだ」

 バラズは先ほどまでの老獪さはどこへやら、穏やかにそう言い、珈琲を啜ってはそっと置いた。そして扇子を広げて軽く扇ぐようにしながら、ニコッと笑う。しかし、その笑みにすでにいつもと違う不穏さが滲んでいる。

「ところで、勝負が決まったのに待たせてくれているのは、お前様の次の相手を用意してくれているのだろうね?」

「もちろん。あんたは強いが、このまま勝ち逃げされるわけにもいかないのでね」

「もちろん。私はその辺の作法には通じているよ。だが、……お前様の次の相手は寝ているのだろう?」

 バラズは、ふと目を細めた。

「そ、そうか、”指輪屋”を呼びに行ってるのか?」

 思わずシャーが割って入ると、賭博師は苦笑した。

「俺よりも強いのは指輪屋しかいない。だが、アイツは朝から勝負詰めでね。一度寝ちまうとなかなか起きないもんだから、たたき起こしにいったんだろう」

「ははは、そんな無体なことはしなさんな。せっかく寝ているのにかわいそうだ」

 バラズが笑って扇子を閉じて、ふと口のそばに置きながら言った。

「そんなに無理をしても、よくはない。寝不足の相手を引きずり出しても、私には勝てないよ。勝負するなら明日にしようじゃないか」

 バラズはふいに自信満々に言い切った。

「え、ちょ、なに言って……! せっかくファルロフを呼んできてくれてるって……」

 割り込みかけたシャーの目の前で、扇子がバッと開かれた。それに口を遮られている間にバラズは言った。

「今日の勝負はここまでにしよう。もうずいぶん遅い時間だ。私もそろそろ眠くなったよ。本日は帰らせていただこう。指輪屋さんとは、明日勝負させていただくよ」

(何言ってんだ! ジジイ、相手が今日眠くて勝負にならないなら、今日のが有利だろうが!)

 シャーはそう言いたげにバラズを睨み付けたが、バラズはそれを冷たい視線であしらった。言いたいことは伝わっているようだ。どういうつもりだろう。

「し、しかし……」

 そうなるとバラズの大幅な勝ち逃げになる。明日来ると約束していても、それが本当かどうかはわからない。

 バラズは扇子を閉じると、ふと場の山盛りになった貨幣を指した。

「何、私はその辺の作法は知っているつもりだよ。これのいくらかは、お前様方に寄進するつもりだったが、そうだね、今日は三分の二をこのままおいて帰ろう。そうすれば、お前様方の面目もつぶれないだろう?」

「そ、そりゃあ、ま、まあ」

 三分の二? と、相手の賭博師もシャーも驚く。確かに、一方的な勝ち逃げになると、相手方から狙われる心配もあるので取り分のいくらかを返納するのは作法だ。しかし、三分の二とは思い切ったものだ。

「私は、ぜひ指輪屋と勝負がしたい。しかし、寝ぼけている彼では役不足なのだ」

 バラズは立ち上がりながら、にやりとした。その目に、何か執念めいたものがふと浮かんでいるようだった。

「――どうせなら、万全の状態の彼と戦ってみたくてね。そういう風に私が言っていたと、指輪屋さんにお伝え願えるかな」

 相手の賭博師があっけにとられてうなずくのを確認し、バラズは扇子を懐にしまってシャーの方を見た。

「さて、三分の一だけ貨幣を持っておいで。帰るよ、三白眼」

「ちょ、ちょっと、何勝手に話を……」

 シャーは立ち上がりつつ困惑気味に言ったが、バラズはすでにすたすたと歩き始めていた。

「畜生、なんなんだい! オレは小間使いの小僧じゃねえんだぞ!」

 シャーは腹立たしげに言い捨てて、三分の一ほどの貨幣を手にするとそのまま彼の後を追った。




   *


 外に出ると、すっかり夜は更けていた。

「おい、ちょっと、爺さんてば! 待てって!」

 バラズはシャーを無視して、先にすたすたと歩いていく。シャーは換金で手間取っていたので、バラズの後を追いかけるのに駆け足で追いかけねばならず、ようやく追いついたときは少し息を切らしていた。

「ったく、……なんだよ。いきなりさあ」

 シャーは、口をとがらせて言った。

「最初から、強いなら強いって言ってくれればいいのに、なんなんだい」

「ふふふ、獅子の五葉をあんなところでやるのは何十年ぶりだからねえ。私が、賭場に出入りしていたのはほんの若いときの話」

 バラズがようやく返事をした。しかし、その彼の雰囲気は、まだいつもの彼とは少し違ってどこか冷たく乾いていた。

「カンを取り戻すのに随分かかったというだけのことさ」

「そ、それだけか?」

 シャーは納得いかないといった顔になった。

「それにしちゃ、ずいぶんと勝手なことしてくれるじゃねえか。指輪屋が寝ぼけてる今日なら、勝てる可能性は高かった。どうして、わざわざ明日になんか……」

 シャーは、少しにらむようにして続ける。

「目的忘れてるんじゃないだろうな。オレ達は、リルの指輪を取り返しにきたんだぜ。アイツと勝負しにきたわけじゃあない」

「勝負か」

 ふと、バラズはぽつりと言って立ち止まる。

「それはそうだろうね。しかし、……私は”こう”なるとどうしてもそれができないんだよ。それがわかっているから、本気になりたくなかったのさ。どうしても、本気で勝負をしたくなる。悪い癖だが、治らないんだ」

「なんだって?」

 バラズはゆっくり振り返り、そして、シャーを見上げながらにこりとした。

「おぬしには、私の気持ちがわかるんじゃないのかい?」

 と、シャーはふいに立ち止まった。

 ざわ、と空気が動く気配がする。

 空にはすでに傾いた月が光っている。しかし、建物の陰で周囲は見渡せなかった。

 それでも、彼にはわかっていた。冷たい気配。かすかに砂をする足音。そして、押し殺しきれていない殺意。

「爺さん」

 シャーは後ろに視線をやり、低い声で言った。

「どっか建物の陰にでも隠れてろ」

 そう彼が言った途端、背後で気合の声とともに黒い影が動いた。

 シャーは腰の剣を引いて、その鞘を相手の鳩尾にぶち当ててそのまま振り返る。相手の苦悶する声が闇から聞こえた。

「誰の手先だ。ハーキムかい?」

 相手は答えない。ただ、数人が彼に向ってとびかかってくるのがわかった。

「ちッ! 話してわかる相手じゃないってか?」

 うおおお、と気合の声を上げて真横からとびかかってくるものがいた。そして、逆方向からくるものの手に、月光で白く光るものがちらりと見える。

 シャーは相手の位置を把握すると、そのまま回し蹴りをくらわした。そのまま、横飛びに飛びながら、左手で腰の剣の鯉口を切る。ざーっと暗闇に白銀の光が走った。

 甲高い金属の音がなり、相手の剣をはじき返しながら、シャーはそのままの勢いで相手を押し切って蹴倒した。すぐに後ろから羽交い絞めにかかるものがいたが、シャーは軽く体をずらしてそれを外すと、そのまま腰で払って投げ落とした。

 そして、シャーは建物を背にしてざっと引き下がった。

 相手はまだ数人いる。だが、特に連携の取れていない相手だ。囲まれないようにして、後ろをとられなければそれほど恐れる相手でもなさそうだった。

「やるか?」

 シャーは低い声で言った。

「これ以上やるなら、手加減しねえぞ。オレももう抜いちまったからな!」

 ふと向こうの方でバタバタと足音のようなものがした。一瞬増援かと思って表情を険しくしたシャーだが、相手の方が慌てているようだった。彼らは小声で何か言い交すと、そのまま、闇の中に引き上げていく。すると大勢の足音も遠ざかり、どこかへと行ってしまったようだ。

「ちッ、なんだ。せっかく、人がやる気になったってえのにさあ」

 シャーは肩をすくめると、剣を払って腰の鞘におさめた。

「もう終わったかい?」

 そういって言いつけ通りに建物の陰にいたらしいバラズが、ひょっこりと姿を現す。

「ハーキムのヤツらかな。勝ち逃げしたんで追いかけてきたのか」

「さあ、それはどうかな」

 とバラズは首を振る。

「彼らの面目をつぶすようなことはしていないよ。ちゃんと作法も守ったし。大体、勝ち逃げぐらいで揉めるような器の小さい親分でもないときいているけどね、ハーキムって親分は。それに、我々が大金を持っているのを知っている連中なら、襲ってくるかもしれないよ」

「どうだか。ヤクザ連中のことなんざあ信じられねえよ」

 シャーはそう吐き捨てて歩き出そうとして、ふと小首をかしげた。

「爺さん、アンタ、オレの事、あんまり驚かないんだな」

「ふふふ、あれだけ弱そうでダメ男なお前さんがあいつらをやすやすと追い払ったことにかね?」

 シャーは返答しなかったが、バラズはにやりとした。

「お前さんのような男には、隠し事の一つや二つあるものさ。お前さんには隠しきれていない不穏な気配が漂っているからね。別に驚くことでもない」

 バラズは平然と言い放つ。

「それに、私にはお前さんの気持ちが少しわかる気がしているからかな?」

「なんだって?」

 思わぬ言葉にシャーはきょとんとした。

「お前さんが普段あんなダメ男を演じているのは何故かな。演じている? いや、違うのかもしれない。でも、何かを隠している。それは確かだ。しかし、隠しているものとは、いったい何なのだろう。……強さかな?」

 バラズはため息をついて、空を見上げた。

「強さを隠すのは、戦術だよ。強さをひけらかすことが必ずしも有利になるわけではない。自分を弱く見せることで、相手より優位に立てることもある。……しかし、もし隠しているのが強さでないのなら、それは自分を守るためだ」

 シャーが答えないでいると、バラズはふと笑った。

「お前さんが何を隠しているのか、私は知らない。しかし、実は私も似たように何かを隠している。……私が隠しているのは、”狂気”だよ」

 はっきりとバラズは言った。

「執着であり執念であるともいえる。それは日常生活を生き抜くうえで、さらに人間関係を構築する上で、邪魔でしかないもの」

 シャーの返事を待たずして、彼はゆっくりと歩きだしていた。

「……ハビアス殿が私と勝負して敗北したのは、彼が狂気を嫌う男だからさ。あの男自体が狂気の塊にも思えるが、彼自身は狂気を感じさせる人間が嫌いでね。通常、あの男と勝負する人間は、その後のことが怖くてわざと負けるし、そうでなくても心に揺らぎがあって勝負に集中できない。あの男はその揺らぎを見破って勝つ。だが、私は一度勝負となって本気になってしまうと、引くことができない。あの男が相手でも、私は命を懸けて勝負を挑んでしまった。だから、彼は私が苦手なんだ」

 にやりとバラズは笑った。

「お前さんが、戦術の為に本当の自分を隠しているのならいいのだが、そうでないとすれば」

 バラズは目を閉じていった。

「ずいぶんこの世は生きにくいだろうねえ」

 夜風が冷たく感じられる。

「さあ、早く帰ろう。屋敷まで送ってくれるかい。また誰かに襲われたらたまらないから」

 バラズはそういって先に立って歩き出す。シャーは返答しないまま、彼の後ろをついていった。

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