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1.猫と爺と家出少年

 街はずいぶん砂埃に塗れていた。

 王都の片隅、カタスレニアにほど近い場所を彼は歩いていたが、この場所をうろついているにしては、いささか綺麗すぎる服装だ。上等な衣服を着た彼は、明らかに浮いているし、あてもなく歩いている様を見れば、どこかの貴人の少年が迷っているとはっきりわかる。

 顔立ちも上品で大きな目をしていて、いわば美少年といってよい容貌だ。癖のある黒髪を短くしていた。 

 初めて自分の足で街を歩いている彼は、街がそんなにも埃にまみれているとも思わなかった。彼のとおる場所は、いつも舗装されていて、綺麗な場所だけだったからだ。

 けれど、そんな過酷な状況よりも何よりも、彼は困っていたのだった。

「どうしよう。このままでは、お屋敷にも帰れない」

 彼はしきりに自分の左手を気にしていた。その中指にいつもなら嵌っている筈のものがない。それをなくしてしまったが為に、彼は途方に暮れていたのだった。

 思えば、屋敷を出たのは、早朝のことだった。

 早朝なら、お目付け役で世話係のナズィルもまだ眠っていた。母は彼を溺愛はしていたが、もともと権力に執着している哀れな女でもあり、貴族の悪い部分を抽出したようなところを持っていた。だから、溺愛しながらも、彼女は自分で子供を直接育てることはなく、乳母やナズィルに任せきりだ。今でもそれはそうで、彼と顔を合わせない日も珍しくはない。彼自身に監視の目はついているわけではなく、彼は乳母とナズィルを出し抜きさえすればよかったのだ。

(もう許せない! 母上のもとになんか、戻るものか!)

 母が何かよからぬことを企んでいることは、おおよそ知っていた。しかし、まさか、自分たちを一度許してくれた寛容な兄に再び剣を向けようとしていたとは! 母が何をしていたのか、ようやく彼の耳に入ったのが昨夜だった。

 彼は珍しく感情的になり、眠れなくなった。

 もうあんな母と一緒にいられない。そう思って早朝に屋敷を抜け出し、王都の街に出てきてしまった。

 意気揚々と自由を謳歌しながら、人通りのない早朝の街を歩いていた彼だったが、今の今まで彼は一人で街に出てきたことがなかった。王都の地図は見たことはあったものの、自分の足で歩いたことなどないから、果たしてどこをどう行けばいいのかもわからない。そんな世間知らずな彼は、知らない間に危なっかしい場所に入り込んでいた。

 今思えば、その通りは、何となく薄暗くて気味が悪かった。

 早朝の街は思いのほか寒かったので、彼は外套をしっかりと羽織ながらてくてくとそこを通っていた。

「お坊ちゃん、お待ちを」

 ふと、何か布切れの前を通り過ぎたと思ったら、そんな声を掛けられて彼は驚いた。ぼろ布だと思ったら、それは毛布にくるまった人間がうずくまっているのだ。

「何の用だ?」

 彼は少し警戒してそう尋ねた。ところが男は低姿勢になって彼の前に頭を下げる。

「へへ、こんな早くにお通りになるとは何かの縁だ。お恵みください」

「貴方はお体が悪くて、お困りなのですか?」

 男は早朝の薄明りの中で、どうやら顔色が悪くて不健康そうに見えた。彼は哀れに思って、財布を取りだそうとした。貧しいものに施しをするのは、美徳だと教えられていたので、彼はそういうものなのだと素直に受け入れてしまった。

 が、いきなりその手を男がつかんだ。あっという間に財布をとりあげられ、彼ははねとばされて地面に尻もちをついた。

「何をする!」

 彼は、腰に下げた護身用の剣を抜こうとしたが、男の掲げているのものを見てあっと声を上げた。

「へへ、いただいておくぜ、坊ちゃん」

 男の手には、財布だけではなく、彼が左手の指につけていたいくつかの指輪があった。先ほどの一瞬で、抜き取られたのだ。何という早業だろうと驚くよりも先に、彼は真っ青になった。宝玉のついているのはまだいい。

 問題はあの銀の指輪だ。あれは、彼の身分を証明するためのもので、それを失くすわけにはいかない。

「返せ!」

「おっと、返せっていわれて返す奴がいるわけねーだろ! 今度からもっと気を付けて歩きな、ボーヤ! じゃあな!」

 男は、彼が剣を抜いて襲いかかるより早く身をひるがえし、たったと駆け出した。かなりの俊足で、見る見るうちにその背中は遠くなって行ってしまう。彼は必死に追いかけたが、複雑な路地の中で完全にまかれてしまい、その男の姿を見失ってしまっていた。

 そんなことがあって、すでに日が高く昇ってしまっていた。

(ナズィルやネガールは心配してるかな)

 自分がいなくなっていることに、爺やであるナズィルや乳母たちは気づいているだろう。そう考えると、今更家出したことを後悔してしまいそうになっていた。

 しかし、指輪がないまま家に帰るわけにはいかない。悪用されて自分であると誰かがなりかわりでもしたら大変だし、一方で、身分を示すあの指輪がなければ、王位継承権も認められないのだ。あれを失くしたことを知った権力に執着している母が、何をしでかすかわからない。

(どうしよう。探さなければ……)

 彼は俯いたままぎゅっと唇を噛み、あてもなく周囲をさまよっていた。

 街角は似たような道が多くて、いつの間にか古い建物の多い通りに入り込んでいた。また、あまりよくない場所に出てしまった気がした。誰かに見つかるといけないと思って、大通りを避けてしまっていたけれど、こんなところばかり歩いていてもだめかもしれない。それに、お腹もすいたし、喉も乾いていた。

 と、不意に向こうの通りで、ロバに引かれた車から男が降りているのを見かけた。何故彼に目を留めたのかというと、その男が小奇麗な身なりをしていたからと、何となく見覚えがあったからだった。小柄で髪の毛は白い。どうやら老人らしい。穏やかな笑顔で御者に金を払っている彼には見覚えがあった。

 あっ、と彼は声を上げた。

「あれは、バラズ先生じゃないかな?」

 彼は将棋シャトランジの名人として有名な人で、ナズィルと知り合いだったことから、何度か手ほどきを受けたことがあった。優しく穏やかな人物だし、もしかしたら相談に乗ってくれるかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、当のバラズだと思しき男は、やたらと軽い足取りで歩き始めていた。彼が慌てて後を追うが、彼がそこにたどり着いたときにはすでにバラズの姿は見えなくなっていた。

「どこにいったんだろう、先生……」

 彼は途方にくれたが、ふと周囲を見回して考えを変えた。

 そこは、飲食店が軒を連ねている場所だった。ここでいなくなったのだから、きっとどこかの店に入ったのだろう。一つずつ当たっていけば、きっとどこかに彼はいるのだ。

 そう考えると彼は少し安心した。一つずつ、彼がいないか確かめていけばいい。彼は少し明るい顔になっていた。



 *

 

 シャー=ルギィズは、その日不機嫌だった。

 あまりも彼が不機嫌なので、今日はいつもなら彼と一緒に騒ぎ立てる舎弟たちも遠巻きである。

「ふふ、バラズ先生、お久しぶりね」

「ああ、このところ忙しくってねえ。なかなかお前の顔を見にこれなくてすまなかったね、リーフィ」

 シャーの視線の先では、リーフィが初老の男と話し込んでいた。そんなリーフィの膝には、猫が座っている。いわゆる茶虎の猫で雄猫なのか、ちょっと大きい。リーフィは猫の頭をなでなでして珍しくにこやかである。そもそも表情が薄いリーフィが、こんな風に上機嫌なのは珍しい。

「本当に、みゃー太もリーフィに会いたがっていたんだが、なかなか連れてこれなくてね」

「みゃー太さんも元気そうでなによりだわ」

 リーフィは、ごろごろと喉を鳴らす猫の顎を撫でながら抱き上げて頬ずりしているが、バラズはそれを微笑ましげに見ていた。

 が、シャーの方は全然微笑ましくない。

「あのジジイ、いつもいつも、猫でリーフィちゃんの気を引きやがってえええ」

 シャーは、例の三白眼でじっとりとバラズを睨みつけるが、バラズといえば、ちらと彼の方を見てふふんと得意げな勝ち誇った顔である。大概の人間は、シャーの視線を受けるとひいてしまうものだが、小柄でおとなしいバラズはなぜかこういう時だけ強気に出て、白い顎鬚を撫でてはニヤリとするのだ。

(このクソジジイッ!)

 何やらどす黒い感情に身を焦がしているシャーだ。舎弟たちはあまり近づきたがらないのだが、見るに見かねたのか、心優しいアティクがそっと声をかけてきた。

「兄貴、もうあきらめましょうよ。どうせ、兄貴は時間いっぱいあるんでしょ。終わったらリーフィもかまってくれますよ」

「そ、そうですって。確かにあの爺さん来たら将棋打つから長いですけど、ね」

 とりなすようにカッチェラも加わってくる。

 そうだ。バラズは、飲みに来るというよりリーフィと将棋しに来るのである。雑談しながらでもあるので、ただですら滞在時間が長めなのだ。その間シャーは放置されてしまうので、シャーは機嫌が悪いのである。

 しかも、あのジジイ。こともあろうに、リーフィが大好きだという猫をつれて現れる。今日だって、シャーがリーフィと話をして楽しい時間を過ごしている最中に、あのジジイが猫連れてやってきたものだから、リーフィはシャーとの話を途中で打ち切ってあっさりと猫の方に行ってしまった。猫も猫で涼し気な顔でシャーの方を眺めながら、リーフィの膝という一等席を陣取って動かない。飼い主にも猫にも腹が立つ。

「しかも、あいつ、猫畜生の分際で、リーフィちゃんの膝を陣取りやがって!」

「そりゃ、猫には勝てませんよ」

「かわいいですしね、あいつら」

 ボソリと恨みのこもった一言を漏らすシャーに、二人は思わずそんなことを言う。シャーはきっと彼らを睨みつけた。

「何だよ、オレはかわいくないっての?」

「かわいい、って」

 二人は思わず言葉を詰まらせる。

 そりゃあ、かわいいわけがない。何せシャーはいつものシャーだ。

 住所不定無職、背だけがひょろっと高くて、くるくると巻いた癖の強い長髪にいつも通りの三白眼。かわいいと思う方がどうかしている。

 今日の兄貴にはかかわらないでおこう。そんな生ぬるい視線を浴びせて、カッチェラとアティクはそろそろと退散していくが、シャーはそちらに目を向けない。

「ふんっ、オレだって負けないもんね!」

 何の勝負をしているのか知らないが、シャーは茶を啜りながら言い捨てたものだ。

 ふと見ると、リーフィが飲み物を用意してくるといって立ち上がったところだった。彼女が店の奥に引っ込んだのを見て、すかさずシャーは立ち上がり、バラズの隣に座った。

 バラズは大きな目をちらりと彼の方に向けた。

「まだいたのか、ゴクツブシ」

「いて悪かったなあ。つーか、爺さんこそ、いい加減リーフィちゃん困ってんじゃん。年寄りの暇つぶしに巻き込むのやめてくれる?」

「何を? お前さんみたいな奴が付きまとう方が迷惑だぞ!」

 そういってバラズは、隣の猫の頭を撫でやりながら睨みつけた。

「この三白眼のゴクツブシが。リーフィに付きまとう暇があったら、仕事でもしたらどうだ。その風貌、どうせ無職なんだろう?」

「ふん、余計なお世話だい」

「まったく、私はリーフィにもよく言っているのだがねえ」

 そういってバラズはため息をついた。

「こーゆー顔の人間とは絶対付き合うなって言ってるのに。もう、リーフィは優しい子過ぎて、ついついお前さんみたいなのにも情をかけちゃって……」

「なんだと、ジジイ、人の顔言えたタチかよ!」

 シャーとバラズの不毛な争いを、リーフィのいたあとに座っている猫があくびまじりに眺めている。

 そんな争いを聞きつけたのか、リーフィがふとシャーを呼んだ。シャーはバラズと火花を散らしていたが、はっとして立ち上がる。

「シャー、ちょっとお手伝いしてほしいの? 来てくれるかしら?」

「え? ああ、もちろんいいよー!」

 リーフィに呼ばれたので、シャーは急に勝ち誇った表情になって、彼女の方にたたたっと駆け寄っていく。それをリーフィの同僚の女の子たちや舎弟たちが、どんなに冷たい目で見ようが、シャーはそんなことどうでもよいのだった。




 リーフィはシャーを、いつもの彼女の控室につれてきていた。

「ごめんなさいね。先生が来たんだから、いい将棋盤出そうと思って……。でも、ちょっと重くてね。いつもはお店においてるのだけど、この間片づけちゃったのよ」

(ちぇっ、将棋盤出してってことかあ)

 店の片隅にボードゲーム用の盤はおいている。この国でも将棋は盛んだし、基本的に金を賭けてやることもあるから、飲みながら打つ奴も多い。しかし、リーフィは自前で買ったちょっといいやつを持っているらしく、それを出してほしいとのことだった。

「ごめんなさいね。後でお礼にお酒をごちそうするわね」

「そんなあ、別にいいよ。これぐらい。リーフィちゃんに重いもの持たせるぐらいなら、オレをいつでも頼ってよ」

 まあいい。ともあれ、リーフィからお願いしてもらえる人間だってそんなにいないのだ。この感じだと酒の一杯と手料理の一つや二つ準備してくれそうだ。そう考えて、シャーはちょっとだけ機嫌を直す。

 そんなシャーの気持ちを見透かしたように、リーフィが言った。

「シャーと先生は相変わらずねえ」

「え、いや、オレは別に……」

 シャーは今更妙に体裁を張るが、リーフィは苦笑気味だ。

「先生もシャーにはつい言い過ぎちゃうみたいだし、困ったわ」

 バラズは、リーフィ目当てに店にやってくる常連の一人だ。

 リーフィはちょっと愛想のない娘だが、基本的に気立てがいいし、何せこの美貌なので目当てにやってくる男たちはそれなりにいる。年若い男には、シャーが嫉妬のまなざしでじっとり睨みつけていると、意外と効果があるのでさっさと席を明け渡してくれるのだが、問題はジジイ共だ。爺さんたちには意外とシャーの攻撃が効いていない。しかも、ここで下手にスケベジジイならシャーが無理に割って入る口実になるのだが、バラズをはじめ、意外と真面目にリーフィとお話をして帰るので、シャーも割り込み辛いのだが、バラズは特にリーフィにとっても特別に親しいらしい。

「シャーに、前にちょっとだけ言ったかもしれないけれど」

 と、リーフィは小首をかしげる。

「バラズ先生はただのお客さんじゃないの。私にとってお師匠様なのよ」

「え? お師匠様?」

 その話は初耳のような気がする。シャーが、思わずきょとんとした。

「ええ、そうなの。将棋もそうだけれど、文学や詩や歴史なんかに詳しくてね、色んな教養を教えてくれてたの。私、正式に先生の塾の門下生になっていてね、先生は師匠で私は弟子なの。私は両親がいないから、先生はお父さん代わりみたいなものよ」

 リーフィはさも当然のように言う。

「実際、今までいろんなことに親身に相談に乗ってくれた人なの。だから、普通のお客さんとは違って、私のこともついつい心配しすぎちゃうみたいなのね。だから、シャーにもいろいろ言っちゃってるみたいだけど、気にしないで」

「そ、それなら、仕方ないのかもしれないけどさあ」

 シャーは、まだ不服そうに唇を尖らせている。リーフィはその様子にくすりと笑った。

「おかしいわねえ。私、シャーと先生は仲良くなれると思ってたんだけど」

「ええ? どこが? オレもヤだけど、あっちもオレのことキライでしょ?」

「だから、おかしいと思ってるのよ」

 リーフィは、今度は腕組みをする。

「シャーと先生、似てるトコがあると思うんだけれどね。だから仲良くなれると思うんだけど」

「えええ? オレとあのジジイが似てるって? じょ、冗談キツイよ、リーフィちゃん」

 シャーは、本当に勘弁してほしいといった表情で首を振った。

 第一、どこが似ているというのだ。リーフィは時々突拍子もないことを言い出す。

 将棋盤を引っ張り出して、いざ持って行こうとしたとき、ふと裏口の向こうから、お願いします、と呼ばわる声がした。

 シャーは将棋盤を横において、部屋の窓から顔を出してみる。ここは裏口からほど近いのだ。

 声からして、まだ子供の声だろうとは思ったが、果たしてそこにいるのは十五か十六の少年だった。まだ小柄で、シャーが顔を出すと背を伸ばすようにして彼の方を見上げた。

「あ、すみません。ものをお尋ねしたいのです」

「なんだい、ボーズ。こんなとこで呼び出しても、誰も出てこねえよ?」

 何やらきっちりとした身なりの少年だった。こんなところに似つかわしくない。道に迷ったのだろうかとシャーは怪訝に思った。

「私もそう思ったのですが、表から入ろうとしたところ、ここは私のような子供の来るところではないと言われましたので……」

 と生真面目なことを言う。

「うーん、ちょっとそこで待ってろ」

 シャーは瞬きして、裏口に回って少年と相対した。

 少年は腰に一本剣をさしていたが、旅の者にも見えない。上等な服を着ているし、普通なら連れの一人や二人連れている筈だが、誰も傍にいる気配がない。ますますもって不可思議だ。

「お前の年頃じゃ、酒ってわけにもいかねーし、まさかメシ食いに来たわけでもないんだろ? 何の用だよ?」

「あの、人を探しているのです」

 少年は、シャーをまっすぐに見上げて言った。

「このあたりのお店に入って行かれたのではないかと思うのですが、どこに入られたのかわからなくって……。それで、一軒一軒尋ねて回っているのです」

「人? よくわかんねーけど、誰探してるのか教えてもらえば一緒に探してやんぜ。オレは、ここいらの酒場じゃちょいと顔がきくからね」

 こんな少年がこのような場所で人探しをしているのだから、多分、何やらわけがあるのだろう。

 シャーは、ひっそりと持っている義侠心を出してきて、そんな風に親切に申し出てやった。

「いいのですか? ありがとうございます」

 少年は、目を輝かせた後丁寧に頭を下げて礼を言った。素直でかわいらしい子だ。

「いいけど、誰を探してるんだ?」

「はい、シーマルヤーン様を探しています」

「シーマルヤーン?」

 誰それ。

 と思わず口に出してしまいそうなのをひっこめて、シャーは、きょとんとしてしまう。そんな大層な名前の奴がここいらにいるだろうか。シャーは顔が広いが、そんな奴は聞いたことがない。

「あら、シャー、それ、バラズ先生のことよ」

 リーフィがシャーの後ろについて裏に出てきていて、そう割って入ってきた。

「先生は、ファリド=バラズ=シーマルヤーンっていうのがお名前だからね」

「あ、そうです。そのバラズ先生のことなんです」

「え、あの爺さんに何の用さ?」

 そんなことを話していると、ふと、リーフィやー、とちょっと間の抜けた声が聞こえた。どうやらシャーとリーフィがいつまで経っても帰ってこないので、バラズが様子を見にやってきたらしい。

「あら、先生」

「リーフィや、そんな三白眼と長々話すものじゃないぞ。馬鹿がうつった大変……」

「バラズ先生!」

 彼の顔を見た少年が、慌てた様子でバラズに声をかけ、バラズは思わず面食らった様子になった。が、すぐにバラズの方も少年の正体に気付いたのだろう。さっと顔色を変えて思わずこう口走る。

「リ、リル・カーン殿下……! な、何故ここに!?」

 と名前を口にしてしまってから、慌ててバラズは口をおさえた。そして、同時にその名前を聞いて内心シャーは、天地がひっくり返るほどびっくりしていた。

(リ、リル・カーンだと? 殿下、って、まさか、あのリル・カーンか?)

 リル・カーンという名前で、殿下という敬称で呼ばれる人間をシャーは一人しか知らない。ほとんど会ったことはないから顔もろくろく覚えてはいないが、そういえば年頃もこれぐらいだったか?

「はい、そのリル・カーンです」

 少年は、リル・カーン=エレ・カーネス。つまり、先王セジェシスの第四子にしてあの女狐と呼ばれるサッピア王妃の息子、現王シャルル=ダ・フールの腹違いの弟だ。

「実は、とても困ったことになったのです。ほかに相談できる方もおらず、先生をお見掛けしまして後を追ってきたのです。突然なことで失礼をいたしますが、どうぞお許しください」

 バラズもシャーも思わずあっけに取られている。どうやら本当に少年は一人でこんなところに来たらしい。

「何か困りごとみたいね。こちらでお話を聞いてはどうかしら、先生」

 今にも事情を話してしまいそうな少年と、何やら焦るバラズと大きな三白眼で少年を凝視しているシャーに、リーフィが機転を利かせてそういった。

 

 

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